【今回深掘りする原理のみ言】
 三大試練においてイエスに敗北したサタンは、一時イエスを離れたのであった(ルカ四・13)。サタンが一時イエスを離れたというのは、永遠に離れてしまったということを意味するのではなく、逆に、再びイエスの前に現れることができるということを暗示しているのである。
 果たして、サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。(『原理講論』p419)

 

ルカによる福音書の22章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されています。

サタンが人間に侵入するには、人間にサタンと相対基準を結んで授受作用できる何かの条件が必要になります。

今回は、イスカリオテのユダの何がサタン侵入の条件になったのかを深掘りしたいと思います。

蕩減復帰原理におけるエバ復帰の原則

イスカリオテのユダの話をする前に、まず蕩減復帰原理におけるエバ復帰の原則について確認しておきましょう。

こちらの記事「アダムとエバの堕落④堕落の責任は人間と天使のどちらにあるのか」で、復帰摂理では、堕落にかかわったアダムとエバと天使の三存在の関与が必要だということを説明しました。

今回は、アブラハム家庭を中心とする復帰摂理から、エバ復帰の具体例を紹介します。

アブラハムは、象徴献祭をする前にも、イサク献祭をする前にも、アダム家庭を復帰する象徴的な蕩減条件を立てるために、次のような路程を歩んでいます。

【象徴献祭の前】
 創世記一二章10節以下の聖句によれば、アブラハムは飢饉によってエジプトに下ったことがあった。そこで、エジプト王パロが、アブラハムの妻サライを取って、彼の妻にしようとしたとき、アブラハムは、彼女と夫婦であると言えば、自分が殺される憂いがあったので、あらかじめ計って、自分の妻サライを妹であると言った。
 このように、アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかったのである。(『原理講論』p318)【イサク献祭の前】
 アブラハムは、イサクを供え物としてささげるときにも、「象徴献祭」をささげたときと同じように、まず、アダムの家庭を復帰する象徴的な蕩減条件を立てて、イサク献祭のための信仰を立てなければならなかった。
 ゆえに、再びアブラハムは自分の妻サラと兄妹の立場に立って、サラをゲラルの王アビメレクに奪われ、いったん、彼の妻になった立場から、再び取り戻すという摂理が行われた。(『原理講論』p326~7)

 

このように、アブラハムはアダムの立場で、天使長にエバを奪われた状態からエバを取り戻すという路程を歩んでいます。

 天使長   ⇒ エバ  ⇒ アダム
 パロ    ⇒ サライ ⇒ アブラハム
 アビメレク ⇒ サラ  ⇒ アブラハム

このとき、パロとアビメレクは天使長の立場であり、エバの立場にいるサライ(サラ)をアブラハムに返すことによって、エバを奪った天使長の罪を蕩減復帰しています。

以上のように、エバを復帰するとき、必ず天使長の立場の人物が関与しなければならず、その人物から神側の中心人物がアダムの立場でエバを復帰する過程が必要です。

イエス様を中心とする第1次世界的カナン復帰路程

『原理講論』のp319には「このようなアブラハムの路程は、後日イエスが来て歩まなければならない典型路程となるのである」と書かれています。

また、イエス様ご自身も「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(ヨハネ福音書五章19節)と語られています。

さらに、文鮮明先生は、「天の側には女性がいません。イエス様がアダムの代表者として生まれたのですが、女性がいませんでした。ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻してこなければなりません。」(『文鮮明先生御言選集』243-199 1993.1.10)と語られていますので、イエス様もこの復帰の原則に従って、カイン側・サタン側からエバを復帰してこなければなりません。

イエス様を中心とする第1次世界的カナン復帰路程において、この天使長とエバの立場にいたのがヨセフとマリヤでした。

結果としてはヨセフとマリヤにサタンが侵入してしまったのですが、この2人が歩むべき道とサタンに侵入された理由について、文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。

 マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係を保たなければなりませんでした。摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも夫婦関係を結んではならないのが神様の願いでした。
 ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心を持ち続けました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。しかし、現実は、それを簡単には許しませんでした。
 本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと夫婦関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンはこれを条件として、彼らに侵入するようになりました。(『文鮮明先生御言選集』277-208 1996.4.16)

 

ヨセフとマリヤは夫婦関係を結ぶことによって、天使長とエバの霊的堕落を反復したことになり、サタンはこれを条件として2人に侵入したわけです。

人がサタンに侵入されるとどうなるのか、文鮮明先生は続けて次のように語られています。

 人がサタンの侵入を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになるのです。
 これによりマリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けることができず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えられず、そして真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。(『文鮮明先生御言選集』277-208 1996.4.16)

 

本来なら、マリヤが先頭に立ってイエス様の新婦を探したてなければならなかったのですが、それができず、第1次世界的カナン復帰路程は失敗し、摂理は延長されてしまいました。

イエス様を中心とする第2次世界的カナン復帰路程

(1)イスカリオテのユダの立場

第2次世界的カナン復帰路程で、ヨセフとマリヤの失敗を蕩減復帰すべき立場にいたのが誰か、文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 ヨセフを中心とする家庭ですべて失ってしまったので、イエス様は家を出て相対を探し出さなければなりませんでした。家を出てこれをしなければならないのですが、ヨセフと同じ立場に誰を立てたのかということが問題です。これは正にイスカリオテのユダが適格者でした。
 それでは、マリヤの立場に立つことができる人をどこで見つけなければなりませんか。家庭でマリヤとヨセフが失敗したので、これを再び取り戻さなければなりません。これを復帰しなければ、イエス様は使命を連結させることができないので、これを外的に行うためにイエス様は家を出たのです。そうして十二弟子を探したて、イスカリオテのユダを中心としてこれをしようとしました。(『文鮮明先生御言選集』35-224 1970.10.19)

 

このように、ヨセフの立場を蕩減復帰する人物として立てられたのがイスカリオテのユダでした。

次に、マリヤの立場を蕩減復帰する人物として立てられたのが誰か、今度は『原理原本』から引用してみることにします。

 イエスには、弟子の中にイスカリオテのユダという愛する一人の弟子がいた。このユダを天のみ旨成就に協助できる一人の相対存在として立て、神のみ旨を根本的に造成することを目標とされた。
 そのときイエスは、ユダを一人の対象者とし、堕落の根本自体である一人のエバ格存在を選び立てようとされた。それゆえ、ユダの夫人を一人のエバ存在として選び、み旨の本意を立てるようにしたのである。(『原理原本』第3章第5節「イエスの3年公生涯路程はみ旨成就の基台を復帰するため」より 注:翻訳は当ブログ管理者)

 

このように、マリヤの立場に立てられていたのがイスカリオテのユダの夫人でした。

(2)イスカリオテのユダとその夫人に対するイエス様の御心

それでは、イエス様は、ヨセフとマリヤの立場に立てたユダとその夫人に対して、どのような御心があったのか、先ほどの『原理原本』の続きを確認してみましょう。

 そのときマグダラのマリヤは、イエスの御心の絶対従順者であると同時に、イスカリオテのユダの一人の愛人格(※注1)としていた。それでイエスは、ユダの夫人をエバ格とし、サタンがエバを奪い取ったように、ユダの夫人を奪い取り、原理を満たしてみ旨を成就しようとされた。
 そして、イスカリオテのユダには、代わりにマグダラのマリヤを与えようとされたのである。そうしてイエスは、この一人のエバとしてユダの夫人を選んで摂理を始めたのである。(『原理原本』第3章第5節「イエスの3年公生涯路程はみ旨成就の基台を復帰するため」より 注:翻訳は当ブログ管理者)

 

『原理講論』には書かれていない内容ですが、イエス様はユダとその夫人に対して、このような願いがあったことが分かります。

このみ言の中に「エバ格」「愛人格」という言葉が出てきますが、ここでは本妻と妾の意味で使われていると考えることができます。

ですから、イエス路程の第2次世界的カナン復帰路程では、ユダの夫人が本妻の立場、マグダラのマリヤが妾の立場だったということになります。

(3)マグダラのマリヤについて

先ほど引用した『原理原本』に登場したマグダラのマリヤがどのような人物だったのか、文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 マグダラのマリヤはどのような生活をしたでしょうか。イエス様を愛することに、着ること、食べること、すべてを忘れて一片丹心、それだけのために生きました。生死を超越し、体面を考えずについていった彼女の行路は、終わりの日の聖徒たちが歩むべき路程だったのです。
 もし今もこの地上にマグダラのマリヤのような心情をもっている人がいるとすれば、その人の目には神様の六千年摂理に染み込んだ涙が流れ、天の前に無限に負債を負った自分であることを分かるようになるでしょう。(『文鮮明先生御言選集』4-258 1958.6.29)

 

マグダラのマリヤがこのような人物だったとすれば、『原理原本』に記述されているように、もしイエス様が「ユダのところに行きなさい」と言われれば、そのとおりに行動して信仰を立てていただろうと考えられます。

それに対してイスカリオテのユダは、マグダラのマリヤをどう見ていたのでしょうか?

(4)ユダはマグダラのマリヤをどう思っていたか?

イエス様に対して絶対的な信仰をもっていたマグダラのマリヤですが、ユダはこの女性に対してどう思っていたのか、有名な香油をめぐる出来事について文鮮明先生が語られたみ言を見てみましょう。

 どうしてキリスト教の中でマグダラのマリヤの名前が残されたのでしょうか。千秋万代に彼女の名前が伝えられてきたのは何ゆえでしょうか。それは、イエス様が彼女の名前を紹介しなさいと言ったからです。
 その当時には、一介の貧しい女性の身で300デナリにもなる香油を若者イエスの足に塗り(※注2)、髪の毛でふいたという事実をだれが容認するでしょうか。弟子たちまであざ笑い、イスカリオテのユダが抗議し、全体が反対するのに、イエス様はどうして福音が紹介される所にマグダラのマリヤの名が記念されるとおっしゃったのでしょうか。
 イエス様には、愛する弟子、または大勢の人たちよりも、その時間にマグダラのマリヤの精誠が、自分が神様にあらゆる精誠を尽くして捧げたものと同じ条件になったので、そのように語られたのです。(『文鮮明先生御言選集』4-107 1958.3.16)

 

このみ言を見ると、高価な香油をイエス様の足に塗ったマグダラのマリヤに対して、イスカリオテのユダは抗議したとあります。

それに対してイエス様は、マグダラのマリヤの行いを称賛されていますので、マグダラのマリヤをめぐってはイエス様とユダは相反する思いをもっていたことになります。

そして、マタイによる福音書とマルコによる福音書を見ると、イエス様に香油をぬる出来事のすぐあとにユダが銀貨30枚でイエス様を売る話が出てきます。

 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。(マタイによる福音書26:6~16)

 

マタイによる福音書20章2節には、「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」とあるので、300デナリは当時の300日分の労賃に相当します。

それに対して銀1シェケルは3日分の労賃に相当したそうですから、銀30枚というのは、当時の90日分の労賃に相当することになります。

また、高価な香油は、未婚の女性たちが結婚資金として蓄えておくものだったそうです。

マグダラのマリヤはそれをすべてイエス様に注ぎ、ユダはその3分の1以下の代価でイエス様を売ってしまったわけです。

以上のことから、イスカリオテのユダは、マグダラのマリヤに対して反感を抱いていたと考えられます。

そして、この香油の出来事をきっかけにイエス様を裏切るという行為に走っていったのです。

なぜイスカリオテのユダにサタンが入ったのか?

それでは、最後にイスカリオテのユダにサタンが入った理由を探るため、先ほど紹介した『原理原本』の続きを紹介します。

 それでイエスは、ユダの夫人をエバ格とし、サタンがエバを奪い取ったように、ユダの夫人を奪い取り、原理を満たしてみ旨を成就しようとされた。そして、イスカリオテのユダには、代わりにマグダラのマリヤを与えようとされたのである。そうしてイエスは、この一人のエバとしてユダの夫人を選んで摂理を始めたのである。
 そのような基本問題が提起されたため、サタンは完全に発動し、パリサイ人と書記官らを激しく怒らせ、イエスと敵対するようにした。
 しかし、ユダさえ全的に信じ、従順に侍っていたならば、成就の基本を満たすことができるはずであったが、イスカリオテのユダもやはり、このような原因に対して不満を抱き始めた。
 歴史上にない自らの師を銀三十枚で売るという根本問題はここから始まり、それを中心としてイスカリオテのユダは、天のみ旨が理解できずイエスに反対する行動を始め、怨讐たちと結託して破壊的な行動をするようになったのである。(『原理原本』第3章第5節「イエスの3年公生涯路程はみ旨成就の基台を復帰するため」より 注:翻訳は当ブログ管理者)

 

ここには、自分が愛する夫人をイエス様に捧げ、自分はマグダラのマリヤを迎えるというイエス様の御心に対して、ユダが不満をもったとあります。

このときからサタンがユダに侵入できる条件が成立し始めたと見ることができます。

つまり、『原理講論』のp123に「天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった」とあるように、ユダがイエス様に対して不満を抱いて愛することができず、自分の夫人を手放したくないと思ったとき、それがサタンと相対基準を結ぶようになったということになります。

文鮮明先生は、イスカリオテのユダが失敗した動機について、次のように語られています。

 イスカリオテのユダが失敗した動機は何だったのでしょうか。イスカリオテのユダはなぜイエス様を銀貨三十枚で売ったのかというのです。イスカリオテのユダがイエス様を売ったのはお金のためですか。
 イスカリオテのユダは、愛する妻をしてイエス様に昼夜侍り、忠誠を尽くすことができるように協助しなければなりませんでした。妻と別れることがあったとしても、その妻をしてイエス様の母親のような立場に立たせ、イエス様を協助できる基台を用意してあげなければならなかったのです。それにもかかわらず、その責任を果たすことができませんでした。(『文鮮明先生御言選集』35-224 1970.10.19)

 

本来ならユダは、天使長が克服できなかった嫉妬心と愛の減少感を克服し、イエス様を絶対的に信じ、愛さなければなりませんでした。

しかし、それができず、サタンと相対基準が合ったため、サタンに侵入されてしまったのです。

先ほど紹介したこちらの記事「アダムとエバの堕落④堕落の責任は人間と天使のどちらにあるのか」でも説明したように、知恵と欲望があることから必然的に生じる嫉妬心や愛の減少感は、天使が自力で克服できません。

しかし、人間はそれができるように創造されているのですから、ユダが嫉妬心と愛の減少感を克服し、自分がサタンの血統ではないことを行動で示していれば、サタンに侵入されることはなかったでしょう。

 

以上で、「なぜイスカリオテのユダにサタンが入ったのか?」についての解説を終わります。

 

(※注1)「愛人格」という言葉について
 上記の翻訳文の中にある「愛人格」という言葉について、少し説明させていただきます。韓国語の原文では「애인격(エインギョク)」となっていますので、そのまま翻訳すれば「恋人格」とするのが正しいでしょう。
 しかし、ここではそのあとに出てくる「エバ格」という言葉の対比として使われているので、「愛人格」としました。

(※注2)
 イエス様に香油を注ぐ話は、四つのどの福音書にも記録されていて、そこには香油にかかわる3人の女性たちが登場しています。マグダラのマリアとベタニアのマリアと「罪深い女」の3人です。カソリック教会では、この3人の女性を同一人物とする解釈が伝統的にありますが、現在のキリスト教ではそれぞれ別の人物としています。その理由は、四つの福音書の矛盾に対する批判を避けるためです。
 イエス様に香油を注いだ話が、マタイによる福音書とマルコによる福音書では「エルサレム入城」後の受難週の出来事になっていますが、ルカによる福音書及びヨハネによる福音書ではそれ以前になっています。
 また、マタイによる福音書とマルコによる福音書では頭に香油を注いでおり、ルカによる福音書とヨハネによる福音書では足に塗っているのです。
 このように、香油を注いだ時期と注いだ箇所に矛盾があるのですが、当ブログでは、文鮮明先生のみ言に従い、香油に注いだ3人の女性をすべてマグダラのマリヤとし、香油を注いだ所をイエス様の足としています。

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