【今回深掘りする原理のみ言】
今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。(『原理講論』p42)

 

なぜ「創造原理」は「神の二性性相」から始まるのか、その理由として考えられるのは、「心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない」(『原理講論』p82)からということが一つあると思います。

そして、もう一つは、主体と対象の「二性性相」の原理についてきちんと理解しなければ、信仰生活や実生活の人間関係で支障をきたすことがあるから、ということがあります。

今回は、この主体と対象の「二性性相」について深掘りし、それを原理的に理解しないとどうなるのか、そしてこの原理を実践する方法についても少し触れてみたいと思います。

「二性性相」の原理的な意味

「二性性相」という言葉は「統一原理」独特の用語ですが、まずなぜ「二性性相」と表現するのかを確認しておきましょう。

 内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。
 ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。(『原理講論』p44)

 

この原理から『原理講論』では、人間の体を第2の心とも言えるとし、またイエス様を第2の神とも言えるとしています。

神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。(『原理講論』p258)

 

以上のことから言えることは、主体と対象の関係では、主体と一体になっている対象を第2の主体と言うことができるということになります。

「主体」と「対象」の原理的な意味

『原理講論』で使われている「主体」と「対象」という言葉の原理的な意味については、こちらの記事(「中和的主体」の意味と神と同じ立場に立てない堕落性)で説明しました。

もう一度確認しておくと、「統一原理」で言う「主体」とは、神様の心情を中心として神様と一体になっている存在のことを意味しています。

そして、「統一原理」で言う「対象」とは、その「主体」と相対基準を結んで授受作用している存在のことを意味し、「主体」とただ向き合って授受作用していない存在は「相対」と言います。

この「主体」と「対象」の関係を、主人と僕、あるいは支配者と被支配者といった固定された主従関係や上下関係とだけ考えている人もいると思います。

確かに、親と子、上司と部下などのように上下関係を意味していることもありますが、「主体」と「対象」が一体化すると、お互いが自由に立場を入れ替わることができるというのが原理観です。

このことについて『原理講論』には次のように記述されています。

 神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。
 しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。(『原理講論』p72)

 

また、文鮮明先生は、「主体」と「対象」の一体化について、親子関係を例にあげて次のように語られています。

父母が年を取って百歳を越えれば、八十歳になった息子と友達になるのを知っていますか。「やあ、息子や」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。(『文鮮明先生御言選集』252-105 1993.11.14)

 

このように、「統一原理」で言う「主体」と「対象」の関係は、固定された主従関係ではなく、格位のある上下関係の側面はありますが、一体化すれば、その価値と立場は同等になるのです。

アダムとエバに見る「主体」と「対象」の関係

聖書の創世記1章28節には、「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」とあり、この「彼ら」とはアダムとエバのことです。

神様は祝福のみ言はアダムとエバに語られ、2人を同じように祝福してくださっているのに対して、「取って食べてはならない」(創世記2章17節)という戒めのみ言はアダムに対してのみ語られています。

そして、エバはその戒めのみ言をアダムから聞いているのです。(詳しくはこちら「アダムとエバの堕落①エバは誰から戒めのみ言を聞いたのか? 」

これを見ると、アダムとエバは、創造本然の価値においては同じように神様の祝福を受けることのできる存在であっても、神様のみ言を伝達する秩序という観点では、2人の間に格位があることが分かります。

神様を中心とする四位基台も、まず「主体」が神様と一体になり、そしてその「主体」と「対象」が一体化してつくられるようになっています。

『原理講論』のp55~6に「対象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の対象となることができる」とあるように、「対象」は、直接神様と一体になることはできず、「主体」と一体になって初めて神様の「対象」になることができるのです。

以上をまとめると、「主体」と「対象」の関係は、創造本然の価値においては同等ですが、創造本然の秩序においては格位があるということになります。

「創造原理」が「神の二性性相」から始まる理由

ここまで、「統一原理」で言う「主体」と「対象」の原理的な意味とその関係について説明しました。

もし「主体」と「対象」の関係を固定された主従関係と考えている人が、「堕落論」や「アダム家庭」の話を聞くとどう考えてしまうでしょうか?

すべての人がそうだとは言えませんが、今まで「統一原理」講義の修練会スタッフを数多くやってみた経験から言えることは、「天使長やカインがかわいそうだ」と思ってしまう人が多いようです。

講義終了後に書いてもらう感想文にこのような意見を何度も見ましたし、直接話を聞いたこともあります。

「主体」と「対象」の関係を主従関係と考えている人から見ると、天使長もカインも犠牲者に見え、また神様から差別され、アベル的存在から虐げられているように見えるのかもしれません。

しかし、『原理講論』に「ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていた」(p108)とあるように、神様の天使長に対する愛は、アダムとエバを創造したあともまったく変わっていないのです。

また、カインに対しても神様は、「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」(創四・7)とわざわざ語ってくださっています。

そして、神様がカインの供え物を受けられなかった理由を『原理講論』では次のように説明しています。

神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのできる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。(『原理講論』p293)

 

このように、神様はけっして天使長やカインを愛していなかったのではなく、人間自身が立てなければならない責任分担があったため、そのような態度をとられたのです。

人間は堕落することによって、神様の存在はもちろん、神様の心情と事情が分からなくなってしまったのですから、最初に「主体」と「対象」の関係、つまり神様と私たち自身の関係を正しく理解しなければなりません。

神様と私たちの関係は、固定された主従関係ではなく父子関係だということを理解するために、「創造原理」は「神の二性性相」から始まるのです。

「主体」と「対象」の概念を転換しないとどうなるのか?

もし「創造原理」で「主体」と「対象」の関係に対する理解をきちんと原理的なものに転換できず、主従関係と理解したままでいるとどうなるでしょうか?

信仰生活や実生活で、目上の人や周りの人から理解されない、認めてもらえないと感じたとき、自分で自分のことが天使長やカインと同じ立場に見えてしまうでしょう。

そうすると、「自分がかわいそう、私は間違ってない」と思うようになり、サタンと相対基準が結ばれてサタンに侵入されやすくなってしまいます。

そして、カインの立場で堕落性を脱ぐという責任分担も果たせなくなってしまうのです。

さらに、もっと恐ろしいことがあります。それは、「主体」と「対象」の関係を主従関係と考えている人が指導者や責任者といったアベルの立場に立ったときです。

そのような人たちがアベルの立場に立つと、カインの立場にいる人を見たとき、さばいたり批判したりしやすくなるのです。

これはアダム家庭でのアベルの失敗を蕩減復帰するために、避けては通れない内的な試練です。

神様から供え物を受け取ってもらえなかったカインに対して、アベルがどのような態度をとったのか文鮮明先生は次のように語られています。

 アベルは神様が自分の祭物だけを受けとられたので、自分が優れていて、神様が自分だけを好まれるから受けとられたと思い、「お兄さん、見てください。私の祭物は受けとられました」、そのように誇ったでしょう。間違いなくそうしたのです。
 そうでなかったなら、じっとしているカインの顔がなぜ真っ赤になったのでしょうか。アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか。間違いなくアベルはカインに、「お兄さんは何ですか。私の祭物を受けとられました」としつこく言ったでしょう。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)

 

このようにアベルはカインを批判したというわけです。おそらく、供え物を捧げて「信仰基台」を立てたアベルは、カインの堕落性や欠点が見え、「もっとこうすればいいのに」という思いがあったのだと思います。

こちらの記事「『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】③「信仰基台」成立の判断基準」でも解説しましたが、「信仰基台」を立てるとまわりの人たちの堕落性や欠点がはっきりと見えるようになるのです。

では、アベルはどうすればよかったのでしょうか? さきほどのみ言の前の部分を引用してみましょう。

 アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげたとき、神様が自分の供え物だけを受けとられて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。
 そして「ああ、お父様、なぜ私の供え物だけ受けとられたのですか」と言って泣き、兄のところに行って「私の供え物だけを受けとられた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか。間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。(中略)アベルは驕慢になってはいけません。謙遜でなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)

 

結局、アベルは驕慢になって自己否定できず、「栄光在自」してしまったことによって失敗したのです。

以上のように、アベルの立場でもカインの立場でも、既存の「主体」と「対象」の概念を転換しないと、神様と同じ立場に立つことができず、自分を肯定してサタンに侵入されやすくなるのです。

サタン世界に見る自己肯定システム

『原理講論』の最初のページに以下のような記述があります。

人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。(『原理講論』p21)

誰でも愛されたい、認められたいという欲望がありますが、サタン世界は、この欲望が悪の方向に傾きやすい生活環境になっているということです。

この「欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境」について、その具体例を一つ挙げてみましょう。

「GAFA(ガーファ)」という言葉をご存知でしょうか? これは、Google、amazon、Facebook、Appleの4大IT企業の頭文字をとった言葉です。

最近では、自民党がこれらの巨大IT企業に対する規制法案の策定を政府に提案するなど、その影響力を危惧する声が各所からあがっています。

この「GAFA」が使っているシステムは、正に自己肯定システムであり、承認欲求強化システムと言えるものです。

つまり、これらのツールを利用すれば利用するほど、自分を肯定して自己満足に陥り、時間とエネルギーを浪費してしまうようになるのです。

Facebookの「いいね!」をもらうと、自己肯定の欲求と承認欲求が満たされてうれしくなり、もっとほしくなっていきます。

そして、自分の意見や主張に同調し、認め、賛同してくれる人たちの声ばかりを聞くようになり、批判や反論に対しては無視したり過剰に反応するようになっていくのです。

Googleの検索結果や、Googleの傘下にあるYoutubeの関連動画、amazonの関連商品の羅列も、これと同じことを目的としたシステムです。

今の時代は、多くの人たちが、自分が興味あることを検索し、自分の意見や考えをサポートしてくれる情報ばかりを見て満足感を得る、ということを無意識のうちにやってしまっているのです。

これが習慣化されていくと、自分や自分の意見を否定する人や情報に出会えなくなり、それらの否定情報に対する耐性が弱くなります。

もともと日本人は忍耐力がある民族ですが、最近では、店舗の順番待ちや車の渋滞に過剰にいら立ってしまう人たちや、他人の小さなミスを許容できない人たちが確実に増えています。

この理由の一つに、サタン世界の自己肯定システムや承認欲求強化システムがあることは間違いないでしょう。

このようなサタン世界の仕組みは、神様の復帰路程を歩む私たちの復活、成長、発展を阻害します。

「個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない」(『原理講論』p65)とあるように、個人の成長なくしては神様を中心とする地上天国の実現はありませんが、個人の成長とは、言い換えると今の自分を変えることであり、今の自分を否定することでもあります。

ですから、自分の主体性と動機をきちんともって利用すればよいのですが、「GAFA」のような自己肯定システムに過度にはまってしまうと、自分の復帰も地上天国の実現も遠ざかることになるのです。

「二性性相」の原理を実践する方法

最後に、「二性性相」の原理を実践する一つの方法について触れてみたいと思います。

一つの集団があれば必ずアベルとカインの立場に分かれ、何かの仕事や活動をすれば、その結果は必ずアベル・カインに分かれるというのが復帰原理の観点です。

誰がアベルになりカインになるのか、それは必ずしもその人の信仰の有無や実力、実績だけで決まるものではありません。

その時々の全体摂理の背景や、一人ひとりがもつ蕩減内容により、その人にとって最適な立場と結果が与えられるようになっています。

このときに、「主体」と「対象」の関係を主従関係で考える価値観や文化が蔓延していると、神様と私たちが目指す創造本然の世界とは真逆のものになってしまいます。

例えば、誰かが怪我をしたり病気になったとき、もしあなたが健康で元気一杯なら、その人に対してどのように考えますか?

また、思うような実績を出せずに悩む人を見て、もしあなたが実績トップなら、その人に対してどのように考えますか?

そんなとき、無意識のうちに「この人は何か讒訴条件がある、条件がないからそうなった」と考えてしまわないようにしないといけません。

真の愛よりも原理に偏りすぎた教会内で、これまでこのような悪しき文化が存在してきたのは事実です。

もしあなたがアベルの立場に立っていたり、神様から恩恵や実績を与えられたときは、あなたの周りにカインの立場で苦しむ人が必ずいるので、その人を探して協助してあげてください。

そして、もしあなたがカインの立場で思うように結果が出ずに苦しいときは、あなたの身近にアベルの立場で神様から祝福されている人が必ずいるので、その人を探し、神様と同じ立場で称賛して一緒に喜んであげてください。

神様が、堕落のリスクがあっても原理の力よりも愛の力を強くした理由は、ここにあります。

真の愛よりも原理ばかりを追求していくと、一体になるどころか、分裂と孤立が蔓延して個人主義の世界になってしまうでしょう。

これが「二性性相」の原理の生活化であり、これを実践するために「統一原理」では最初に「神の二性性相」を学ぶのです。