こちらの記事(「神様が人間を創造された目的②神様の定義と三大祝福」)で説明したように、上記の神様の定義と三大祝福は対応しています。
ですから、三大祝福を実現するということは、私たちが神様に似たものになるということです。
そこで今回は、神様の定義にある「中和的主体」について深掘りしてみたいと思います。
「中和的主体」とは
1「中和」の意味
「中和」という言葉を国語辞典で調べてみると、おおよそ次のような意味になっています。
① かたよらないこと。中正であること。調和がとれていること。
② 異なった性質の物がまざり合い、各々の性質があらわれなくなること。
例「ちょっとしたジョークが緊迫した空気を-する」
③ 酸と塩基が反応して、互いの性質を打ち消しあうこと。また、その反応。
例 「酸とアルカリが-する」
一般的な意味としては、かたよらずに調和がとれている状態ということになりますね。
韓国語では「중화」(チュンファ)ですが、これは漢字語なので、韓国でも日本語の「中和」とほぼ同じ意味で使われています。
それでは、文鮮明先生はこの「中和」という言葉の意味について、どのように語られているのでしょうか? こちらのみ言をご覧ください。
中和とは、中心的調和、あるいは中心的平和を意味します。(『祝福家庭と理想天国Ⅱ』「再会の心情」より 1977年9月11日)
二性性相の中和というのは何かというと、二つが一つになってアンテナが立っている状態のことです。そうなれば中和的存在です。(『文鮮明先生御言選集』402-98 2003.1.13)
この文鮮明先生のみ言から見たとき、『原理講論』で使われている「中和」という言葉には、調和しているという意味に加えて「中心」という概念が含まれていると考えることができます。
このことから、『原理講論』では、中心で調和している、あるいは調和して中心となっているという意味で「中和」という言葉が使われていることが分かります。
2「主体」の意味
次に「主体」という言葉について調べてみると、一般的な意味としては次のようなものがあります。
① 自覚や意志をもち、動作・作用を他に及ぼす存在としての人間
② 集団・組織・構成などの中心となるもの
③ 機械や製品の主要部分
これを見ると、『原理講論』の「中和」には、すでに「主体」の意味が含まれているようですね。
それに対して、『原理講論』で言う「主体」とはどのようなものなのか、「直接主管」について説明している箇所を『原理講論』から引用してみましょう。
神を中心として完成した人間が、万物世界を対象に立てて合性一体化することによって、四位基台をつくり、神の心情を中心として一体となった人間の意のままに、人間と万物世界とが、愛と美を完全に授受して、善の目的を成し遂げることを万物に対する人間の直接主管というのである。 (『原理講論』p81)
ここではアダムと人間が「主体」ですが、その「主体」とは、神様の心情を中心として神様と一体になっている存在のことを意味しています。
このように、「主体」という言葉の一般的な意味と比べ、『原理講論』で使われている「主体」とは、神様と心情を中心として一体となっている存在のことです。
ですから、『原理講論』で言う「主体」は、神様との関係なしでは存在しえないものだということになります。
3「中和的主体」の意味
先ほど「中和」とは中心的調和、あるいは中心的平和を意味すると説明しましたが、その「中心」とは何かについて、今度はこちらのみ言をご覧ください。
このみ言から、「中和的主体」とは真の愛の主体を意味していることが分かります。さらに、「和」について文鮮明先生は次のように語られています。
韓国語で「食口(식구 シック)」は家族を意味するので、「中和的主体」とは、真の愛を中心として家族が一つになる、その主体に位置している存在のことを意味し、それが正に神様だということになります。
『原理講論』の3種類の言葉
ここまで、「中和的主体」の意味を調べてみましたが、「中和」も「主体」も、一般的に使われる意味に加えて「統一原理」独自の概念が含まれている言葉だということが分かりました。
『原理講論』に書かれている言葉を、大きく3種類に分けてみると、次のように分類できます。
1韓国語にも日本語にもない「統一原理」独自の言葉
例:二性性相 四位基台 信仰基台
2韓国語にはあるが日本語にはない言葉
例:탕감(タンガム 蕩減) 역사(ヨクサ 役事:日本語『原理講論』では「働き」と表記) 대신(デシン 代身:日本語『原理講論』では「身代わり」と表記)
3韓国語にも日本語にもある言葉
例:中和 主体 対象 相対
「統一原理」を理解する上で、より注意した方がよいのは上記の3で、すでに日本語にある言葉です。
私たちはこれらの言葉について、自分の中にある一定の概念やイメージをもっています。
この概念が「統一原理」と一致していればよいのですが、一致していない場合は、「統一原理」を正しく理解するのに妨げになるかもしれません。
例えば、「対象」という言葉について考えてみましょう。「対象」の一般的な意味は次のようになっています。
意識・感覚・行動などの作用が向かうもの。主体の作用に対してその目標や相関者となる実在。客体(客観)とほぼ同義。
それでは、『原理講論』で言う「対象」の概念を理解するために、「相対」と「対象」の違いについて語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。
このみ言によると、主体とただ向き合っているのが「相対」、主体と相対基準を結んで授受作用しているのが「対象」ということが分かります。
一般社会では「授受作用」という概念がないので、この点が一般的な意味で使われる「対象」と『原理講論』の「対象」が異なるところです。
『原理講論』に出てくるすべての言葉が一般的な意味と異なるわけではないのですが、「主体」や「相対」、「対象」など、「統一原理」の骨子となる重要な言葉については、「統一原理」独自の概念が含まれていることが多いのです。
それでは次に、その独自の概念とはどういうものか、創造本然の人間と堕落した人間の思考を比べながら考えてみることにしましょう。
堕落した人間の思考は横的で平面的
まず、神様の第一祝福である個性を完成した人間はどのような人間なのか、『原理講論』から該当するところをいくつか引用してみましょう。
個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。(『原理講論』p67)
個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。(『原理講論』p135)
個性を完成した人間は、神から何か特別の啓示を受けなくても、理知と理性によって神のみ旨を悟り、生活するように創造されているので、人間は本性的に理知と理性を追求するようになる。(『原理講論』p515)
このように、個性を完成した人間というのは、いつも神様の心情とそのみ旨を中心として考え、生活するようになっているわけです。
これに対して、堕落することによって神様が分からなくなってしまった人間は、どのようになったのでしょうか?
この堕落性の第一番目が「神と同じ立場に立てない」(『原理講論』p123)というものです。
ですから、神様との縦的な関係が切れてしまった人間たちの物の見方や考え方は、神様との縦的な観点が欠けた横的かつ平面的なものになってしまったわけです。
自分の立場と自分の経験を基準に考える堕落後の人間
例えば、「背が高いほど学力が高いという統計データがある」と言われたら、あなたはどう思いますか?
大概の人たちは、「そんなバカな!背の高さと学力に何の関係があるの?」と考えるのではないでしょうか。
それは、私たちの物の見つめ方や考え方には、自分の立場と自分の経験を基準に考える傾向があるからです。
「背が高いほど学力が高い」と聞いたとき、自分と同じ年代の人たちを中心に考えたり、自分の学生時代の経験から「学生時代、背の低い順で並んでいたけど、それは学力の低い順ではなかった」と考える人が多いのではないでしょうか。
実は「背が高いほど学力が高い」という話は、小学生から大学生を対象にした統計データなんです。つまり年代を超えた範囲の人たちを対象として出てきたものです。
これなら「背が高いほど学力が高い」というのは、当然のこととして受け入れることができますよね。
ところが、私たちは、自分と同年代の人たちを中心に考え、また自分の経験を中心に考えてしまう傾向があるため、「そんなバカな!」と思ってしまうわけです。
このように、年代を越えて考えたり、全体を俯瞰して考えることができず、自分が経験していないことを受け入れたりするのが苦手なのが私たちです。
ヨハネによる福音書14章8~9節を見ると、ピリポが「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」とイエス様に言っている場面が出てきます。
それに対してイエス様は、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」と答えられています。
ピリポは十二使徒の一人ですが、この逸話も堕落後の人間が、自分が見たものしか信じないという、自分の経験を中心に考える傾向があることの一つの例でしょう。
このような傾向は、人間が堕落したことによって、神様と同じ立場に立てないという堕落性をもつようになってしまったからです。
神様を中心に物事を考えたり、神様の立場や神様の心情を中心に物事を見つめ、考え、行動できなくなってしまっているのが今の私たちです。
地獄の人間達は、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、従って、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいまま行なうようになってしまったのである。(『原理講論』p137)
ここまで堕落後の人間の思考について、個人の観点から見てきましたが、今度は全体の観点から、グローバリズムと「統一原理」の違いを確認しておきましょう。
「統一原理」とグローバリズムの違い
ご存知のように、グローバリズムとは、地球を一つの共同体と見なし、世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想のことです。
超宗教超国家という観点から、「統一原理」の世界観とグローバリズムは一見すると同じように見えますが、中身はまったくの別物です。
むしろ反グローバリズムの人たちの考え方のほうが、「統一原理」の世界観に近いと言えます。
まず、文鮮明先生が「一和」という言葉について説明されたこちらのみ言をご覧ください。
「一和」は「一」という字に「和」と書きますが、「化」ではなく「和」という字です(注)。皆さんそれぞれ個性が違いますが、個性が違う人たちが一つになるのと同じように、個性が違う民族、個性が違う国家が一つにならなければならないという意味が内包されているのです。ここに統一的な理念が入っていることを皆さんは知っておかなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』68-232 1973.8.3)(注:韓国語で「化」と「和」は発音が同じ)
ここに約千人がいますが、千人がすべてそれぞれ違います。個性をもっているのです。その個性を中心として一つになるのです。「和合」と言えば、個性が変わって一つになることですが、「成和」は個性をもったまま一つになることです。「成和」とは、あらゆる個性が一つになって成し遂げたという意味です。その成し遂げたことを統一教会では「統一」と言うのです。
各自の個性が連結されて完成すれば、完全な一体化を成し遂げるようになるのです。「統一」が成し遂げられるということです。「一和」というのは、「成和」の意味と「統一」の意味が連結したものです。(『文鮮明先生御言選集』253-129 1994.1.23 )
化学の「化」という字は、本質が変わっていきながら和合することです。しかし、一和という言葉の「和」は、本質が変わっていきながら和合するのではありません。男性なら男性が、女性なら女性が、変わらずに和合するのです。どちらが貴いかというと、本質が変わって和合するよりも、そのまま和合することが貴いのです。(『文鮮明先生御言選集』173-241 1988.2.21 )
グローバリストが目指しているのは「一化」で、各民族・国家の個性を否定して、自分たちの意のままにできる世界をつくろうとしているので、文鮮明先生のおっしゃる「一和」とは真逆です。
一方、反グローバリストは、この各民族や国家の個性を守ろうとしていますので、お父様のおっしゃる「一和」と方向性は一致していますから、グローバリストよりは「一和」に近いと言えます。
ただし、反グローバリストたちが他の民族や他国の個性を否定し始めると、「一和」とは方向性がずれていくことになります。
以上のように、「統一原理」とグローバリズムは内容が全く異なるものであり、サタン勢力が非原理的な立場で原理型の思想として現われてきたのがグローバリズムです。
このようなグローバリズムが現われて世界を席巻する理由を『原理講論』では次のように説明しています。
したがって、人類歴史の終末においては、神が地上天国を復帰される前に、サタンを中心とする、それと同じ型の非原理世界が、先につくられるようになっているのである。これが、すなわち、共産主義世界なのである。
サタンは、このように、神が成就されようとなさる目的を、常に先立って、非原理的に成就してきているので、復帰摂理路程においては、真なるものが現れる前に、必ず偽なるものが先に、真なるものと同じ姿をもって現れるようになるのである。(『原理講論』p487)
まとめ
これまで説明してきたように、『原理講論』に書かれている重要な言葉は、すべて神様を中心とする概念で構築されている言葉です。
ですから、私たちが『原理講論』を読むときにも、このことを意識して読み解く必要があると思います。
そして、「統一原理」を正しく習得することによってはじめて、あらゆる方向から常に私たちに侵入してこようとする非原理的な思想を見抜くことができるようになるのです。