私には、信仰生活を始めた初期のころから抱いていた一つの信念と確信があります。
それは、「全体の復帰摂理は個人が成長した分しか発展しない」というものです。
「統一原理」に「全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない」(『原理講論』p65)とあるように、天国を実現することと、一人ひとりが成長、完成することとは、常に同時進行で調和しているべきです。
全体の摂理が進展したとしても、個々人の成長がそれに伴っていなければ、それは非原理的なので、その勝利基盤は再びサタンに奪われてしまうのではないでしょうか。
ですから、神様のみ旨である地上天国を実現するためには、全体目的として天国をつくると同時に、個体目的としてその天国に入れるような自分になっていなければなりません。
神様の心情から考えても、天国をつくることに大きく貢献した人が、その天国に入れないことほど神様を悲しませることはありません。
人間が神様の喜びの対象としてつくられている以上、自分で自分自身の復帰摂理を進め、成長完成させることも、地上天国をつくることと同じくらい大切なことです。
今回は、神中心の動機の復帰から見た個性完成と、それに至る成長段階について掘り下げてみたいと思います。
神様の喜びの対象として完成するには?
最初に、人間が神様の喜びの対象になるには、どのようになればよいのか『原理講論』で確認してみましょう。
しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通して、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志の通り生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである(マタイ七・21)。
それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。(『原理講論』p134)
このみ言での一つのポイントは「自ら努力し」という箇所で、この点が人間が万物と最も異なるところの一つです。
万物は神様の創造理想のとおりに成長、完成すれば、それで神様の喜びの対象になることができます。
しかし、人間の場合は、自らの自由意志によって神様が喜ばれる自分になり、神様が喜ばれる行いをして、初めて神様の喜びの対象になることができるようにつくられています。
少し言い換えると、他の誰かから指示されて行動するのではなく、その前に自ら考えて行動し、その行動の結果に対して自ら責任をもつこと、と言うこともできます。
これができるようになった状態について『原理講論』には次のように書かれています。
この個性を完成することについて、さらにいくつか『原理講論』から引用してみましょう。
それ故、コリントI三章16節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書一四章20節には、「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。
このように、個性を完成して神の宮となることによって、聖霊が、その内に宿るようになり、神と一体となった人間は神性を帯びるようになるため、罪を犯そうとしても、犯すことができず、したがって堕落することができないのである。(『原理講論』p135)
また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。
そして、個性を完成した人間は、神から何か特別の啓示を受けなくても、理知と理性によって神のみ旨を悟り、生活するように創造されているので、人間は本性的に理知と理性を追求するようになる。(『原理講論』p515)
このように、もし人間が個性を完成すれば、絶対に堕落することはありませんし、神様と一体となってその心情を完全に体恤できるので、神様に尋ねなくても自らの自由意志によって神様が喜ばれるように行動できるということが分かります。
それでは、次に人間の堕落という結果を発生させたその動機の所在について確認してみましょう。
人間の堕落を招いた動機の所在
こちらの記事「人間の堕落が長成期完成級で起きたといえる理由①」でも解説しましたが、人間の堕落がたとえ未完成段階の成長期間に起きたことだとしても、人間自身に堕落の動機が生じたとすれば、それは善悪二元論に陥ってしまいます。
ですから、『原理講論』のp106には「人間の堕落した動機は天使にあった」とありますし、具体的にどのような動機だったのかについて次のように書かれています。
このように、「自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたい」ということが天使長が抱いた堕落の動機だったのです。
この天使長が抱いていた動機から人間の堕落という結果が生じてしまったのであって、人間自身に最初から堕落の動機があったわけではありません。
ですから、動機という観点から人間の堕落を見た場合、人間が本来もっていた創造本然の主体性を失い、天使長が抱いていた堕落の動機を中心に行動してしまったのが堕落だと言うことができます。
この結果、神様が分からなくなったアダムとエバは、自分の中にあった神様を中心とする動機を失い、サタンを中心とする動機に従って行動するようになってしまったわけです。
このように、堕落することによって創造本然の主体的な自由意志を失ってしまった人間に対して、神様は復帰摂理を通してそれを取り戻すみ業をしてこられました。
主体性と動機の復帰から見た復帰摂理の教訓
自分自身の中から創造本然の主体性と動機、そして自由意志を失っているのが私たちです。
その結果、自分の良心の声を聞くことができず、自己主管力を失い、常に人や環境からの影響を受け、それに左右されて行動するようになってしまいました。
「自分は人から影響されていない、すべて自分で決めてる」という人でも、神様とつながっていない以上、無意識のうちにまわりからの影響を受けているはずです。
『原理講論』のp21に「欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きている」とあるように、このままの状態では神様の創造目的は実現されません。
そのために復帰摂理では、創造本然の主体性と動機、自由意志を取り戻せるよう、神様は人間に対して試練してこられました。
今回は、その中からノア家庭のハムとアブラハムの象徴献祭を例として、その教訓を紹介します。
(1)ハムの失敗
まず、こちらの記事「イエス様の荒野での三大試練④サタンはいつ試練してくるのか?」でも言及したノア家庭のハムの失敗について考えてみましょう。
このとき、彼らもハムの扇動に雷同して、その父親の裸体を恥ずかしく思い、後ろ向きに歩み寄って、父の裸を着物で覆い、顔を背けて父の裸を見なかった。ところが、これが罪となり、ノアはハムを呪って、その兄弟の僕となるであろうと言ったのである。(『原理講論』p310)
ハムの扇動に兄や弟が同調したことから見ると、次男のハムは兄弟の中で、よりリーダー的な立場にいただろうと推測できます。
これは、「荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきものであった」(『原理講論』p182)というイエス様の時代の洗礼ヨハネと同じ立場です。
ですから、ハムが失敗せずに実体基台のアベルの位置に立つことができていれば、他の兄弟たちはカインとしてハムと一体化し、メシヤのための基台をつくることができていたでしょう。
そのハムに神様はなぜノアが裸で寝ている姿を見せたのか、その理由を主体性と動機の復帰という観点から考えてみましょう。
ハムは、誰も信じなかった洪水審判が実際に起きたのを見て、ノアのことを信じるようになったはずです。
しかし、そのハムのノアに対する信仰は、あくまで洪水審判という外的な現象が動機となって生じたもので、ハム自身の中にノアを信じようとする主体的な動機が明確にあったわけではなかったと考えられます。
それで神様は、あえて裸で寝ているノアを見せることで、外的な現象を動機としてノアを信じるのではなく、ハム自身が主体的に自らノアを信じるように摂理されたのです。
私たちの信仰生活でも、今まで信頼していた人の欠点や堕落性などを見せられることがあります。
それは、私に創造本然の主体性と動機を復帰させるための神様の試練であり、私に対する神様の愛です。
ですから、そういうときこそ、自分自身を成長させる絶好の機会なのですが、残念ながらハムは、このような好機を逸してしまいました。
(2)アブラハムの象徴献祭失敗
次に、アブラハムの象徴献祭の失敗を、主体的信仰と動機という観点から見てみましょう。
神はその日、日の入るころ、アブラハムに現れて、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう」(創一五・13)と言われた。アブラハムは裂くべき鳩を裂かなかったので、その上に荒い鳥が降り、それによって、イスラエル民族はエジプトに入り、四〇〇年間苦役するようになったのである。(『原理講論』p322)
アブラハムは他の牛や羊のような大きな供え物は裂いたのに、なぜ小さな鳩だけは裂かなかったのでしょうか?
このことについて文鮮明先生は次のように語られています。
このみ言に「小さな祭物を軽んじた」とあるように、アブラハムは供え物の大きさの違いによって自分の行動を決めたことになります。
つまり、自分の行動の動機が、自分自身にあったのではなく、自分以外のものにあったということです。
もしアブラハムの中にきちんとした動機があれば、供え物が大きかろうと小さかろうと、同じように裂いて神様に捧げたはずです。
ところが、そうしなかったということは、アブラハムの中に自分の主体的な動機がなく、それが鳩を裂かないという行動に現われたということになります。
先ほども書きましたが、私たちは、自分から何か情報を求めなくても、自然とあらゆる方向からいろんな情報が届いてしまう生活環境に生きています。
そして、見た目や上辺だけの情報に惑わされやすいですし、無意識のうちにそれらの情報に影響されて行動しがちですが、このような状態のままでいると個性完成への道が遠ざかるばかりです。
人から何か指示があろうとなかろうと、人が見ていようと見ていまいと、自分自身の良心の声を聞き、それに従って行動できるようにならなければならないでしょう。
そういう意味で、小さな供え物を軽んじて象徴献祭に失敗したアブラハムの行動は、私たちにとって生きた教訓と言えます。
「守・破・離」と縦的八段階の復帰
このように、信仰生活で主体的な動機を復帰しなければならないことは間違いないですが、かといって堕落した人間の場合は、最初から自分を主体としてしまうと、自己中心的な動機になりがちです。
武道や茶道の修業段階に「守・破・離」というものがあるように、原理軌道を外れてしまった堕落人間は、まず原理軌道に復帰する過程が必要です。
この「守・破・離」の意味を辞書で調べてみると、次のようになっています。
剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(「大辞泉」小学館)
これは「統一原理」の発展法則-三段階原則にも通じるもので、堕落した人間が創造本然の位置と状態に復帰する過程でも、やはり「守・破・離」があると考えることができます。
「公転と自転から見た全体目的と個体目的」の記事でも、地球の公転と自転で例えたように、「守」を飛ばして「破」、「離」に行ってしまうと、それは我流になり、本来の技能を修得することはできないでしょう。
同じように、復帰摂理でも、すぐにアベルの立場に立つのではなく、長子権復帰という過程を経ながら段階的に上がっていくようになっています。
また、『原理講論』では、次のように成長期間の3段階と直接主管圏を合わせて4段階としています。
これに成長期間前の堕落圏の段階を一つ加えて、主体的な動機を復帰する成長段階を、以下のように5段階に区分してみました。
主体的動機の復帰から見た成長の5段階
①非原理圏段階・僕の僕の立場
この段階は、天(アベル的存在)から言われたことをやったりやらなかったりする段階です。
例えば、天(アベル的存在)の指示を一部だけやる、自分なりにアレンジしてやってしまう、完全に無視してしまう、最後までやり遂げられない、といった状態です。
②蘇生旧約段階・僕の立場
この段階は、天(アベル的存在)から言われたとおりにだけやる段階です。
この段階になると、やる気がなくても、心情が伴わなくても、義務感や使命感できちんと言われたとおりに最後までやり遂げるようになります。
③長成新約段階・養子の立場
この段階は、天(アベル的存在)から言われたことを喜んでやる段階です。
この段階になると、天(アベル的存在)の指示を喜んで主体的に、それが自分の天命と思って最後まできちんとやるようになります。
④完成成約段階・庶子の立場
この段階は、天(アベル的存在)から言われたこと以上のことをやる段階です。
この段階になると、天の指示を喜んで主体的にやりつつ、それにプラスしてやり遂げるようになります。
例えば、指定納期を早める、よりよいものに仕上げる、目標数値以上の実績をあげるなど、指示されたこと以上のことを自分で考えて行うようになります。
⑤直接主管圏段階・実子の立場
この段階は、天(アベル的存在)から言われる前にそれ以上のことをやる段階です。
この段階になると、天(アベル的存在)が何か指示を出そうとするときには、すでにすべて終えている状態になるので、誰からも指示を受ける必要すらなくなります。
この状態について『原理講論』では次のように記述されています。
私たちが目指すべき成長段階は、正にこのような状態ではないかと思います。
この5段階を「守・破・離」に当てはめると、僕の僕から養子までの3段階が「守」、庶子の段階が「破」、そして実子の段階が「離」になります。
「統一原理」は、神様の心情を完全に体恤できる個性完成に至るため、私たちに神様の心情と事情を教え、体感させてくれるものなのです。
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