しかし、エリヤの全体的な使命は、全部が全部は成就できなかったので、この使命を完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ四・5)。このように、エリヤが果たし得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ一・23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった。(『原理講論』p405)
このように、洗礼ヨハネは、エリヤが完全には果たせなかったサタン分立の使命を代わりに果たすために召命された人物です。
今回は、この洗礼ヨハネが担っていたサタン分立の使命とは、具体的にどのようなものなのかについて深掘りします。
まず、【前編】では、洗礼ヨハネの立場と使命を確認し、『原理講論』には明示されていないもう一つの使命を、文鮮明先生のみ言で確認してみたいと思います。
洗礼ヨハネの立場と使命
冒頭で紹介した『原理講論』のみ言にあるように、洗礼ヨハネは、預言者エリヤの代わりの立場として召命されました。
そしてもう一つ、『原理講論』には直接的な表現では記述されていない立場があるのですが、それを文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。
ですから、彼は、イエス様を中心として、死のうと生きようと、一つにならなければなりませんでした。彼の命が存続するのは、神様のためであり、イエス・キリスト、すなわち神様の息子のためなのです。
言い換えれば、洗礼ヨハネは、エデンにおいての天使長がアダムのために、神様のために存在していたのと同様の立場です。ですから、洗礼ヨハネは、神様とアダムを代身するイエス・キリストのために生まれ、神様とイエス・キリストのために存続しなければなりませんでした。(『文鮮明先生御言選集』46-198 1971.8.15)
このように、洗礼ヨハネは、エデンの園にいた天使長の代わりの立場で召命された人物でもあったわけです。
ですから、彼は、サタン分立しなければならなかった預言者エリヤの立場であると同時に、エデンの園の天使長の立場に立っているのです。
預言者の使命を果たした洗礼ヨハネ
まず、『原理講論』から洗礼ヨハネにどのような使命があったのかを確認しておきましょう。
彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、生後8日目の洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・76)と、彼の使命を明白に預言したのであった。
それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。(『原理講論』p200)
このみ言から、洗礼ヨハネには「証人」としての使命と、「弟子」として仕えることの二つの使命があったことが分かります。
そして、「ヨハネによる福音書」の1章を見ると、洗礼ヨハネが「証人」としての使命を果たしたことが分かります。
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。(ヨハネ福音書1章29~34節)
そのため、『原理講論』では、「証人」としての使命を果たした洗礼ヨハネを最も偉大な預言者としています。
それゆえに、メシヤを証言することが預言者の使命であるならば、証する立場から見て、メシヤを直接に証した洗礼ヨハネは、間接的に証言をしたいかなる預言者よりも偉大であったのである。(『原理講論』p203)
以上のように、洗礼ヨハネは、預言者として「証人」の使命を果たしました。
天使長の使命を果たせなった洗礼ヨハネ
それでは、もう一つの使命である「弟子」としてイエス様に仕えることはどうだったのでしょうか。
このイエス様に仕えるという使命は、アダムの僕として創造された天使長の使命を蕩減復帰するものと考えることができます。
『原理講論』のp433に「イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれた」とあります。
洗礼ヨハネは、イエス様の弟子の中でも「一番弟子」としての使命を果たさなければなりませんでした。
しかし、次のみ言にあるように、その使命を果たすことができなかったのです。
洗礼ヨハネの「一番弟子」としての使命について、文鮮明先生は次のように語られています。
ところが、ヨハネによる福音書3章30節を見ると、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言っています。ヨルダン川で洗礼を施すイエス様のところに人々が行くのを見て、弟子たちが尋ねるので、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と答えたのです。それはどういうことですか。
今日のキリスト教徒たちは、洗礼ヨハネが謙遜して語ったものと信じてきました。そうではありません。一緒に行動しなかったということです。イエス様が栄えれば自分も栄え、イエス様が滅びれば自分も滅びなければならないのに、ほかの道を行ったということです。(『文鮮明先生御言選集』69-138 1973.10.23)
洗礼ヨハネは、預言者エリヤの立場で「証人」としての使命は果たしました。
しかし、天使長の立場でイエス様の「一番弟子」として仕えるという使命は、果たすことができませんでした。
洗礼ヨハネの第三の使命とは?
洗礼ヨハネにはもう一つ、『原理講論』には直接的な表現では明示されていない重要な使命がありました。
その洗礼ヨハネの第三の使命について、文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。
天使長が堕落させたので、天使長を復帰した立場に立った洗礼ヨハネがイエス様の内外の問題をより分け、復帰の重大な問題、言い換えれば、新婦を復帰する問題までもすべて責任をもたなければならなかったのです。(『文鮮明先生御言選集』46-198 1971.8.15)
このように洗礼ヨハネの第三の使命とは、イエス様の相対を決定する問題に責任をもつことでした。
神様はイエス様を後のアダムとして地上に送られたのですが、その目的について『原理講論』では次のように説明されています。
このように、イエス様が後のアダムとしての使命を果たすためには、真の母を迎えなければなりませんでした。
エデンの園で天使長がアダムからエバを奪ったため、天使長の代わりとして召命された洗礼ヨハネは、イエス様の相対を復帰してさしあげなければならない立場にいたのです。
イエス様の相対者の第一候補
それでは、イエス様の相対者として神様が準備された女性とはどのような方だったのでしょうか。
これについては『原理講論』には記述がありませんので、文鮮明先生のみ言からこのことについて語られたものを引用してみましょう。
ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻さなければならないのです。取り戻してくるとき、どこが最も近いでしょうか? 洗礼ヨハネの妹をイエス様の相対者として結婚させれば、それが最も近いというのです。そのようにしていれば、洗礼ヨハネもイエス様と自然に一つになります。(『文鮮明先生御言選集』243-199 1993.1.10) イエス様が結婚するとき、洗礼ヨハネがカインでイエス様がアベルなのですが、エデンの園の天使長が、カインがアダムのエバを奪っていったので、ここでは、カイン的妹である洗礼ヨハネの妹を妻として迎えなければなりません。
カイン(の立場にいる天使長)がアベル(の立場にいるアダム)の妹エバを奪っていったので、カインの立場にいる洗礼ヨハネの妹をイエス様が復帰しなければならないということです。蕩減復帰です。(『文鮮明先生御言選集』279-227 1996.9.8)
文鮮明先生のみ言によれば、イエス様の相対者として最も相応しいのは「洗礼ヨハネの妹」ということになります。
「洗礼ヨハネの妹」という表現について
「洗礼ヨハネの妹」という言葉ですが、韓国語の原文では「세례 요한 동생」(セレ ヨハン トンセン)となっています。
日本人であれば、「洗礼ヨハネの妹」というと、すぐに「洗礼ヨハネの両親ザカリヤとエリサベツの娘」をイメージすると思います。
それは、日本人にとって「妹」と言えば、一般的に同じ父母から生まれた年下の女性だからです。
しかし、韓国語の「동생」(トンセン)という言葉は、日本語の「妹」と意味が完全には一致していません。
『朝鮮語辞典』(小学館)で「동생」の意味を調べてみると、次のようになっています。
동생【同生】トンセン
1 年下のきょうだいの総称: 弟,妹.
2 同じ行列(항렬)で年下の者.
例文:먼 친척 동생이 된다.遠い親戚の弟[妹]になる
「行列(항렬)」とは、一族間で始祖から数えた男性の世代で、その上下関係を表わす言葉です。
なので、「行列(항렬)」が同じということは、「同世代」と理解してよいと思います。
日本語で「妹」といえば、ほぼ上記の1の意味(年下の女性きょうだいの総称)ですが(注)、韓国語の「동생」は、2の意味(同世代の年下の女性)でもふつうに使われます。
また同じ血族ではなくても、韓国では、女性が交際相手の男性を「오빠」(オッパ:お兄さん)と呼ぶことがよくあります。
親しくなった年上の男性に対して「오빠」と呼ぶこともめずらしくないことです。
このように、韓国語の「동생」(トンセン)という言葉は、日本語の「妹」よりも意味の範囲が広いと言えます。
このことから考えてみると、「세례 요한 동생」とは、洗礼ヨハネの妹も含めた親族間で、洗礼ヨハネと同世代の年下女性という意味になります。
イエス様の相対者に関する文鮮明先生の次のみ言を見ると、このことがよく分かります。
したがって、洗礼ヨハネの妹や親戚の八親等内に娘がいれば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいればその姉の三人が一つになり、イエス様より年の若いその親戚の娘と縁を結ぶようにしなければならなかったのです。イエス様と共に一人の女性を再創造しなければならなかったというのです。(『文鮮明先生御言選集』39-100 1971.1.10)
~【後編】につづく~
※注
『広辞苑 (第七版)』を見ると、日本語の「妹」という言葉には、下記④のような「年少・目下の女性」の意味もあります。
いもうと【妹】
①兄弟から見て、女のきょうだい。古くは年上にも年下にもいう。
②同じ親から生まれた年下の女子。
③義妹。すなわち妻の妹、夫の妹、弟の妻。
④年少・目下の女性。