【今回深掘りする原理のみ言】
 イスラエル民族は、常に不信仰の道を歩むようになり、将来来られようとするイエスの前に、サタンが侵入し得る条件を成立させてきたので、このような条件を防いで新しい摂理をするために、預言者エリヤが来て、バアルの預言者とアシラの預言者とを合わせて、八五〇名を滅ぼすなど(列王上一八・19)、サタン分立の役割をして昇天したのであった(列王下二・11)。
 しかし、エリヤの全体的な使命は、全部が全部は成就できなかったので、この使命を完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ四・5)。このように、エリヤが果たし得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ一・23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった。(『原理講論』p405)

 

このように、洗礼ヨハネは、エリヤが完全には果たせなかったサタン分立の使命を代わりに果たすために召命された人物です。

今回は、この洗礼ヨハネが担っていたサタン分立の使命とは、具体的にどのようなものなのかについて深掘りします。

まず、【前編】では、洗礼ヨハネの立場と使命を確認し、『原理講論』には明示されていないもう一つの使命を、文鮮明先生のみ言で確認してみたいと思います。

洗礼ヨハネの立場と使命

冒頭で紹介した『原理講論』のみ言にあるように、洗礼ヨハネは、預言者エリヤの代わりの立場として召命されました。

そしてもう一つ、『原理講論』には直接的な表現では記述されていない立場があるのですが、それを文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。

 洗礼ヨハネはどのような使命をもっている人かというと、数多くの宗教圏で神様が世界的に選択した代表的な天使長型の人物として、天使長の使命を完結しなければならない人です。
 ですから、彼は、イエス様を中心として、死のうと生きようと、一つにならなければなりませんでした。彼の命が存続するのは、神様のためであり、イエス・キリスト、すなわち神様の息子のためなのです。
 言い換えれば、洗礼ヨハネは、エデンにおいての天使長がアダムのために、神様のために存在していたのと同様の立場です。ですから、洗礼ヨハネは、神様とアダムを代身するイエス・キリストのために生まれ、神様とイエス・キリストのために存続しなければなりませんでした。(『文鮮明先生御言選集』46-198 1971.8.15)

 

このように、洗礼ヨハネは、エデンの園にいた天使長の代わりの立場で召命された人物でもあったわけです。

ですから、彼は、サタン分立しなければならなかった預言者エリヤの立場であると同時に、エデンの園の天使長の立場に立っているのです。

預言者の使命を果たした洗礼ヨハネ

まず、『原理講論』から洗礼ヨハネにどのような使命があったのかを確認しておきましょう。

 洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった。では、その後における彼の使命は何であったのだろうか。
 彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、生後8日目の洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・76)と、彼の使命を明白に預言したのであった。
 それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。(『原理講論』p200)

 

このみ言から、洗礼ヨハネには「証人」としての使命と、「弟子」として仕えることの二つの使命があったことが分かります。

そして、「ヨハネによる福音書」の1章を見ると、洗礼ヨハネが「証人」としての使命を果たしたことが分かります。

 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。(ヨハネ福音書1章29~34節)

 

そのため、『原理講論』では、「証人」としての使命を果たした洗礼ヨハネを最も偉大な預言者としています。

 昔の多くの預言者たちは、将来来られるメシヤを、時間的に遠い距離において、間接的にこれを証したのであった。しかし、洗礼ヨハネは、メシヤを直接的に証言する使命を帯びて来たのであった。
 それゆえに、メシヤを証言することが預言者の使命であるならば、証する立場から見て、メシヤを直接に証した洗礼ヨハネは、間接的に証言をしたいかなる預言者よりも偉大であったのである。(『原理講論』p203)

 

以上のように、洗礼ヨハネは、預言者として「証人」の使命を果たしました。

天使長の使命を果たせなった洗礼ヨハネ

それでは、もう一つの使命である「弟子」としてイエス様に仕えることはどうだったのでしょうか。

このイエス様に仕えるという使命は、アダムの僕として創造された天使長の使命を蕩減復帰するものと考えることができます。

『原理講論』のp433に「イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれた」とあります。

洗礼ヨハネは、イエス様の弟子の中でも「一番弟子」としての使命を果たさなければなりませんでした。

しかし、次のみ言にあるように、その使命を果たすことができなかったのです。

メシヤに仕えるために胎内より選ばれ、荒野でそれほど難しい修道生活をしてきた洗礼ヨハネが、イエスによく仕えたならば、彼は必然的に、イエスの一番弟子になるはずであった。しかし、その使命を果たさなかったので、イエスの一番弟子の位置はペテロに奪われてしまった。(『原理講論』p203~4)

 

洗礼ヨハネの「一番弟子」としての使命について、文鮮明先生は次のように語られています。

 もし洗礼ヨハネがイエス様を信じていれば、誰が一番弟子になったのですか。間違いなく洗礼ヨハネがなるのです。12弟子と70門徒は、すべて洗礼ヨハネの一党がならなければならないのです。そうすれば、ユダヤ教と直結で通じ、祭司長と書記官をすべて一つにまとめることができました。
 ところが、ヨハネによる福音書3章30節を見ると、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言っています。ヨルダン川で洗礼を施すイエス様のところに人々が行くのを見て、弟子たちが尋ねるので、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と答えたのです。それはどういうことですか。
 今日のキリスト教徒たちは、洗礼ヨハネが謙遜して語ったものと信じてきました。そうではありません。一緒に行動しなかったということです。イエス様が栄えれば自分も栄え、イエス様が滅びれば自分も滅びなければならないのに、ほかの道を行ったということです。(『文鮮明先生御言選集』69-138 1973.10.23)

 

洗礼ヨハネは、預言者エリヤの立場で「証人」としての使命は果たしました。

しかし、天使長の立場でイエス様の「一番弟子」として仕えるという使命は、果たすことができませんでした。

洗礼ヨハネの第三の使命とは?

洗礼ヨハネにはもう一つ、『原理講論』には直接的な表現では明示されていない重要な使命がありました。

その洗礼ヨハネの第三の使命について、文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。

 天使長が堕落させたので、天使長の立場だった洗礼ヨハネは、イエス様の前にある内外のあらゆる事情に対して代わりに責任をもち、イエス様が復帰の使命を果たすことに協助してあげなければなりませんでした。イエス様の相対を決定する問題においても、やはりイエス様自身が主導的にやってはいけないようになっていました。
 天使長が堕落させたので、天使長を復帰した立場に立った洗礼ヨハネがイエス様の内外の問題をより分け、復帰の重大な問題、言い換えれば、新婦を復帰する問題までもすべて責任をもたなければならなかったのです。(『文鮮明先生御言選集』46-198 1971.8.15)

 

このように洗礼ヨハネの第三の使命とは、イエス様の相対を決定する問題に責任をもつことでした。

神様はイエス様を後のアダムとして地上に送られたのですが、その目的について『原理講論』では次のように説明されています。

堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリントI一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・14)、当然いなければならないということになる。(『原理講論』p265~6)

 

このように、イエス様が後のアダムとしての使命を果たすためには、真の母を迎えなければなりませんでした。

エデンの園で天使長がアダムからエバを奪ったため、天使長の代わりとして召命された洗礼ヨハネは、イエス様の相対を復帰してさしあげなければならない立場にいたのです。

イエス様の相対者の第一候補

それでは、イエス様の相対者として神様が準備された女性とはどのような方だったのでしょうか。

これについては『原理講論』には記述がありませんので、文鮮明先生のみ言からこのことについて語られたものを引用してみましょう。

 天の側の女性がいないので、カイン側の女性を取り戻してこなければなりません。天の側には女性がいないのです。イエス様がアダムの代表者として生まれましたが、女性がいませんでした。
 ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻さなければならないのです。取り戻してくるとき、どこが最も近いでしょうか? 洗礼ヨハネの妹をイエス様の相対者として結婚させれば、それが最も近いというのです。そのようにしていれば、洗礼ヨハネもイエス様と自然に一つになります。(『文鮮明先生御言選集』243-199 1993.1.10)  イエス様が結婚するとき、洗礼ヨハネがカインでイエス様がアベルなのですが、エデンの園の天使長が、カインがアダムのエバを奪っていったので、ここでは、カイン的妹である洗礼ヨハネの妹を妻として迎えなければなりません。
 カイン(の立場にいる天使長)がアベル(の立場にいるアダム)の妹エバを奪っていったので、カインの立場にいる洗礼ヨハネの妹をイエス様が復帰しなければならないということです。蕩減復帰です。(『文鮮明先生御言選集』279-227 1996.9.8)

 

文鮮明先生のみ言によれば、イエス様の相対者として最も相応しいのは「洗礼ヨハネの妹」ということになります。

「洗礼ヨハネの妹」という表現について

「洗礼ヨハネの妹」という言葉ですが、韓国語の原文では「세례 요한 동생」(セレ ヨハン トンセン)となっています。

예수님이 결혼하는 데는 이것이 가인이고 예수님은 아벨인데 에덴동산의 천사장이, 가인이 아담의 해와를 빼앗아 갔으니 여기서는 가인적 누이동생인 세례 요한 동생을 아내로 맞이해야 된다 이거예요. 가인이 아벨의 동생 해와를 빼앗아 갔으니 가인 입장에 있는 세례 요한의 동생을 예수가 찾아가야 된다 이거예요. 탕감복귀입니다. (『文鮮明先生御言選集』279-227 1996.9.8)

 

日本人であれば、「洗礼ヨハネの妹」というと、すぐに「洗礼ヨハネの両親ザカリヤとエリサベツの娘」をイメージすると思います。

それは、日本人にとって「妹」と言えば、一般的に同じ父母から生まれた年下の女性だからです。

しかし、韓国語の「동생」(トンセン)という言葉は、日本語の「妹」と意味が完全には一致していません。

『朝鮮語辞典』(小学館)で「동생」の意味を調べてみると、次のようになっています。

 

동생【同生】トンセン

1 年下のきょうだいの総称: 弟,妹.
2 同じ行列(항렬)で年下の者.

例文:먼 친척 동생이 된다.遠い親戚の弟[妹]になる

 

「行列(항렬)」とは、一族間で始祖から数えた男性の世代で、その上下関係を表わす言葉です。

なので、「行列(항렬)」が同じということは、「同世代」と理解してよいと思います。

日本語で「妹」といえば、ほぼ上記の1の意味(年下の女性きょうだいの総称)ですが(注)、韓国語の「동생」は、2の意味(同世代の年下の女性)でもふつうに使われます。

また同じ血族ではなくても、韓国では、女性が交際相手の男性を「오빠」(オッパ:お兄さん)と呼ぶことがよくあります。

親しくなった年上の男性に対して「오빠」と呼ぶこともめずらしくないことです。

このように、韓国語の「동생」(トンセン)という言葉は、日本語の「妹」よりも意味の範囲が広いと言えます。

このことから考えてみると、「세례 요한 동생」とは、洗礼ヨハネの妹も含めた親族間で、洗礼ヨハネと同世代の年下女性という意味になります。

イエス様の相対者に関する文鮮明先生の次のみ言を見ると、このことがよく分かります。

 イエス様の親戚の中に娘がいるか探してみて、そのような娘がいれば、彼女たちを集めて基台をつくらなければならなかったのですが、それができなかったのです。イエス様の親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいれば、どれほどよかったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリアがイエス様を宿したあと世話をしてくれました。イエス様が腹中にいるときから歓迎したのです。
 したがって、洗礼ヨハネの妹や親戚の八親等内に娘がいれば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいればその姉の三人が一つになり、イエス様より年の若いその親戚の娘と縁を結ぶようにしなければならなかったのです。イエス様と共に一人の女性を再創造しなければならなかったというのです。(『文鮮明先生御言選集』39-100 1971.1.10)

 

~【後編】につづく~

 

※注
『広辞苑 (第七版)』を見ると、日本語の「妹」という言葉には、下記④のような「年少・目下の女性」の意味もあります。

いもうと【妹】
①兄弟から見て、女のきょうだい。古くは年上にも年下にもいう。
②同じ親から生まれた年下の女子。
③義妹。すなわち妻の妹、夫の妹、弟の妻。
④年少・目下の女性。

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