【今回深掘りする原理のみ言】
洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。(『原理講論』p200~1)

 

【前編】では、洗礼ヨハネの立場と使命を確認し、「統一原理」の観点から見た「霊的な摂理が切れる」ことの意味について解説しました。

そして、洗礼ヨハネがつくった堕落性の四位基台に言及しましたが、今回はこれをさらに深掘りしながら、洗礼ヨハネから霊的な摂理が切れた理由を探っていきたいと思います。

み言の伝達経路から見た洗礼ヨハネの不信

ヨハネ福音書1章33節を見ると、洗礼ヨハネは、「ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」というみ言を神様から直接受けていることが分かります。

その後、実際にイエス様に御霊が下るのを見たため、イエス様に洗礼を授け、「神の子である」(ヨハネ福音書1章34節)と証したことによって、証人としての使命を一度は果たしました。

もし弟子たちが洗礼ヨハネを通して神様のみ言を伝え聞き、その証を信じていたとすれば、イエス様に出会ったとき、「あなたこそ神のひとり子、メシヤです」と言っていたでしょう。

ところが、実際に弟子たちがイエス様に言ったことは「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ一一・3)というものでした。

洗礼ヨハネは、「逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカ福音書1章17節)という本来の責任を果たせず、弟子たちを自分と同じ不信の立場に立たせてしまいました。

これは、洗礼ヨハネが本来のみ言の伝達経路を逆に展開してしまったことを意味しています。

本来のみ言の伝達経路と、アダム家庭で起きたことを『原理講論』では次のように記述されています。

善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。(『原理講論』p295)

 

4番目の堕落性は、サタンから受けた不義の言葉を他の人に伝える過程で生じてしまいます。

ですから、洗礼ヨハネは、弟子たちに「あなたが来るべき方なのか、他に誰かを待つべきか、尋ねてきなさい」と指示したとき、「罪を繁殖する堕落性」が生じ、堕落性の四位基台をつくってしまったのです。

善のみ言の伝達経路:神様 ⇒ 人間 ⇒ 天使長

不義の言葉の伝達経路:天使長 ⇒ エバ ⇒ アダム

不信の言葉の伝達経路:洗礼ヨハネ ⇒ 弟子 ⇒ イエス様

それでは次に、堕落性の四位基台をつくってしまった洗礼ヨハネが、いつから、どうしてイエス様を不信するようになったのかを調べてみましょう。

いつ何の問題でイエス様に対する疑念をもつようになったのか?

(1)イエス様に対する疑念の発端

イエス様に対する洗礼ヨハネの疑いの思いは、いつ、どのような問題から大きくなっていったのかについて、『原理講論』には次のように記述されています。

 エリヤが再臨するということは、既に、マラキ預言者が預言したことであって(マラキ四・5)、洗礼ヨハネが、正に再臨したエリヤであるということは、イエスの証言であったのである(マタイ一一・14、マタイ一七・13)。
 ところが、洗礼ヨハネがエリヤの再臨者であったということは、一般ユダヤ人はもちろん、洗礼ヨハネ自身も知らなかったので(ヨハネ一・21)、このときから、イエスに対する洗礼ヨハネの疑惑(マタイ一一・3)と、これに伴うユダヤ人たちの不信は日増しに深くなって、ついにはイエスが十字架の道を行かなければならなくなったのである。(『原理講論』p193)

 

このように、自分がエリヤの再臨者であるか否かという問題が、イエス様に対する疑念の発端になったことが分かります。

それでは、自分がエリヤの再臨者であることを知らなかった洗礼ヨハネは、どのように行動すべきだったのでしょうか?

(2)本然のみ言伝達経路を確立すべきだった洗礼ヨハネ

たとえ、洗礼ヨハネがその事実をまだ自覚できなかったとしても、既に、天からイエスがメシヤであるという証を受けて知っていた上に(ヨハネ一・33、34)、イエスが親しく自分をエリヤであると証言なさったのであるから、そのみ言に従い、私こそ、まさしくエリヤであると、遅ればせながらでも宣布するのが、当然の道理であった。(『原理講論』p199)

 

上述したように、本然のみ言伝達経路は、神様から人間、人間から天使長という順序です。

この観点から考えると、イエス様から「エリヤである」というみ言を伝え聞いた洗礼ヨハネは、ユダヤ人たちに対して「私こそ、まさしくエリヤである」と語るべきだったことになります。

もし洗礼ヨハネがイエス様の証言どおりに「私がエリヤである」と宣言していればこのようになっていたはずです。

もし洗礼ヨハネが、イエスが証言されたとおり、自分が正にそのエリヤであると宣布したならば、メシヤを迎えるためにまずエリヤを待ち望んでいた全ユダヤ人たちは、当然、その洗礼ヨハネの証言を信じるようになり、みな、イエスの前に出たに相違ない。(『原理講論』p198)

 

ところが、実際に洗礼ヨハネがユダヤ人たちに語ったことは、「エリヤではない」(ヨハネ福音書1章21節)という不信の言葉でした。

これは、天使長が不義の言葉をエバに語って、アダムに対して不信感をもたせた構造と同じです。

天使長の不義の言葉 ⇒ エバ ⇒ アダムに対する不信感

洗礼ヨハネの不信の言葉 ⇒ ユダヤ人 ⇒ イエス様に対する不信感

天使長の使命がエバとアダムを一つにすることだったように、洗礼ヨハネの使命は、「逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備える」(ルカ福音書1章17節)ことでした。

しかし、エリヤであることを否定したことが、ユダヤ人たちがイエス様の前に出る道をふさいでしまう主要な原因になってしまったのです。

それでは、どうして洗礼ヨハネはエリヤであるというイエス様の証言を否定してしまったのかについて、さらに探ってみることにしましょう。

なぜ霊的な摂理が切れたのか?

(1)洗礼ヨハネのメシヤ観

まず、洗礼ヨハネがどのようなメシヤ観をもっていたのかを調べてみたいと思います。

こちらの記事(神様の心情の観点から見た原罪【前編】)でお伝えしたように、ユダヤ教には原罪という概念がありません。

そのため、当時のユダヤ人たちは、神様が送ってくださるメシヤは自分たちをローマから解放してくれる指導者のようなイメージをもっていたのです。

これは洗礼ヨハネも同様で、彼のメシヤ観について文鮮明先生は次のように語られています。

洗礼ヨハネは30年間、彼の生涯の大部分を捧げて主のための道を準備しながら、多くの人々が思い描くように、主はすばらしく見える人であり、外的に劣ることがない人だと期待しました。様々な面においてこの人は実際の自分よりはるかに優れていなければならず、はるかに崇高でなければならず、はるかに立派な人でなければならないと考えていました。(『文鮮明先生御言選集』52-120 1971.12.25)

 

このように洗礼ヨハネは、「メシヤは自分よりはるかに立派な人でなければならない」と考えていたわけです。

(2)洗礼ヨハネから霊的な摂理が切れた理由

洗礼ヨハネは、自分が抱いていたメシヤ観とは異なる現実のイエス様の姿を見たとき、その信仰が揺らぎ始めたと考えることができます。

そして、このことが洗礼ヨハネがイエス様と行動を共にできなかった理由だと文鮮明先生は語られています。

 ヨハネのメシヤ観は、自分の国のためのメシヤ観でした。ですから、メシヤがイスラエル民族を救うために来られるだろうと夢見ていました。彼はイエス様がイスラエル民族の規則であったモーセの律法を守ることを期待しましたが、イエス様がそれを守るのではなく、むしろ、それを犯していることを知りました。
 しかし、イエス様は全世界を救おうとされたのでした。イエス様の視野はもっと広く、ヨハネとは違いました。イエス様の視野には、一つの国家というものはありませんでした。そのことが彼らを、互いに違う道に行くようにさせたのでした。ですから洗礼ヨハネは、イエス様に反対していたイスラエル民族の側に立つようになり、そのため自ら死を招くようになったのです。(『文鮮明先生御言選集』52-54 1971.12.14)

 

このときの洗礼ヨハネの立場と状況は、堕落する前のアダムの立場と同じです。

アダムの神様に対する信仰が揺らぎはじめたのは、神様のみ言と現実が違うと思ったところからです。

信仰者が不信しやすくなるときは、神様のみ言と現実が一致しないときです。

※参考記事:アダムとエバの堕落③アダムはなぜ堕落したのか? 

 

そして、一致していないと思ってしまう原因は、自分なりの考えやイメージで神様のみ言を判断してしまうからです。

 

【アダムのケース】

神様のみ言:「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創2/17)
アダムの死に対するイメージ:肉体の死
実際の現象:取って食べたエバは死んでいない

 

神様が語られた死は霊的な死のことで、取って食べてしまったエバは、み言どおり霊的に死んだ状態でした。

しかし、肉的な死と考えていたアダムは、まだ肉的に生きているエバを見たとき、神様とそのみ言に対する絶対信仰が揺らいでしまったわけです。

洗礼ヨハネもこれと同じ状況だったと考えることができます。

 

【洗礼ヨハネのケース】

神様のみ言:「その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかた」(ヨハネ1/33)
洗礼ヨハネのメシヤに対するイメージ:自分よりはるかに立派な人
実際のイエス様:律法を守らないイエス様

 

このときから洗礼ヨハネにサタンが侵入しはじめ、霊的な摂理が切れてしまったと考えることができます。

(3)神様に祈るべきだった洗礼ヨハネ

エバにしても、アダムにしても、洗礼ヨハネにしても、まだ成長期間にいたので、神様と完全に同じ認識をもつことは難しかったでしょう。

しかし、だからこそ神様に対する絶対信仰が必要ですし、それがあれば神様に祈って正しい道を行くこともできたはずです。

アダムとエバが堕落を防ぐためにはどうすればよかったのか、文鮮明先生は次のように語られています。

 アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。
 この、尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。(『文鮮明先生御言選集』33-241 1970.8.16)

 

同じように洗礼ヨハネも、イエス様に対して疑いの心をもったとき、神様に祈り尋ねてみるべきでした。

それをせずに、イエス様とは関係のないヘロデ王の結婚問題を批判したことで、獄中に入ることになってしまったのです。

 

~【後編】partⅡにつづく~

 

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