【今回深掘りする原理のみ言】

 原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。(『原理講論』p256)

 

 『原理講論』のキリスト論の序文(p251)には、「このような問題(重生と三位一体など、キリスト論に関する諸問題)が未解決であるということによって、これまでキリスト教の教理と信仰生活に、少なからず混乱を引き起こしてきた」とあります。

 ここでは、キリスト教におけるキリスト論探究の方法論や理論形成の歴史的経緯、キリスト教と「統一原理」のキリスト論の違いなどを解説しながら、これまでなぜキリスト論に関連する諸問題が未解決だったのかを深掘りしてみることにします。

 

1.「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」

 (1)「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」の特徴

 キリスト論における方法論(※)には、「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」があります。
(※)欧米の神学や哲学などの専門的な学術書では、必ず冒頭に方法論に関する記述があります。

 「上から」や「下から」というのは、キリストの神性と人性を探究するときに二つの異なるアプローチがあることを意味するもので、両者の優劣を意味するものではありません。
 それぞれの方法論の特徴は下記のとおりです。

 

●「上からのキリスト論」(From Above Christology / High Christology)
 キリストは神の子であり、神の本質から来た神聖な存在として、キリストの神性の側面を重視します。神の子であり、永遠の存在であるキリストの奇跡や救済的な業績が神の御業として解釈されます。

●「下からのキリスト論」(From Below Christology / Low Christology)
 キリストの人間性とその地上での経験を強調し、キリストの人性の側面を重視します。このキリスト論では、キリストの生涯における人間的な苦悩や死に直面する姿が強調され、人性の側面から彼の救済的な役割を理解しようとします。

 

 金永雲(キム・ヨンウン)(※)先生は、キリスト論におけるこの二つの方法論について、御自身の著書『神学概論』(1982年発刊)で次のように説明されています。
(※)1954年に統一教会に入教した梨花女子大学元助教授で神学博士、米国宣教師。

 キリスト論は、キリストの使命と人格の問題を扱う。新約聖書において、信仰の基本的な証言は、「イエスはキリストである」(ヨハネⅠ五・一)あるいは「イエス・キリストは主である」(ピリピ二・一一)であると言われる。イエスが弟子たちに、「人々は人の子をだれと言っているか」と尋ねたとき、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた(マタイ一六・一三~一七)。キリスト論はこの告白から出発する。
 キリスト論的教義の方法論はこれまでに二つあった。すなわち、〈上からの〉キリスト論と〈下からの〉キリスト論がそれである。〈下からのキリスト論〉は、ある特定の時間に生まれ、特定の場所で生きたナザレのイエスにおいて始まる。彼はパレスチナのユダヤ人であり、大工であり、ラビであり、三〇年のポンテオ・ピラト治世の時に、十字架で処刑された。すなわち、それは、イエスが神話的人物でなく一人の人間であったということである。そこでは歴史的なイエスを発見する必要がある。
 第二の方法論は、〈上からのキリスト論〉として、イエス・キリストの特別な意味を強調する。神はキリストにあって、世界を自らと和解させた。新約聖書において史的イエスはさほど重要なものではなかった。使徒パウロ及び福音書は、イエスのなされたその役割、すなわち、イエスがユダヤ民族が待ち焦がれてきたメシヤであったことを強調する。神はイエス・キリストの名によって全人類に救いをもたらされる。イエスに対する信仰によって、我々は新しい被造物となる。イエスに委任することによって、我々の無秩序な生活は、神のかたちとして再創造される。イエスは我々の道であり、真理であり、命である。
 したがって、クリスチャンたちは、人間イエスには何ら関心をおかず、人間の罪を贖い、人間と神の間の仲保となられ、創造主と被造世界を和解させる、救世主イエスに関心を傾けてきた。(『神学概論』「第7章 キリスト論、1、上からのキリスト論か、下からのキリスト論か」より」)

 

 このように、イエスの神性を重視するのが「上からのキリスト論」であり、イエスの人性を重視するのが「下からのキリスト論」です。しかし、「下からのキリスト論」もイエスが神性をもっていることは認めています。

 ただ、「上からのキリスト論」ではイエスが生まれた時点ですでに神性を備えていたと考えるのに対して、「下からのキリスト論」は、イエスが神性をもたない人間として生まれ、あとから神性を受けるようになったと考えます。

 また、その「下からのキリスト論」の中でも、「イエスは徐々に神性を受容するようになった」、あるいは「あとから受けた神性はイエスの人性に吸収された」、「あとから受けた神性はイエスの人性と統一されている」など、様々な見解があります。

 (2)優劣があるのは方法論ではなく私たちの信仰姿勢

 キリスト教は、初代教会の時代から伝統的に「上からのキリスト論」を中心とするメシア観をもち、イエスの神性を重視して、イエスは神御自身であると信じてきました。

 19世紀になると聖書批評学が発展し、聖書の文脈や歴史的背景がより詳細に理解されるようになり、これによってイエスの地上での生涯やその人間性を理解するための新たな情報や視点が提供されるようになりました。このような聖書批評学は、キリスト教神学にも影響を与え、特にイエスの人性を重視する「下からのキリスト論」の発展に寄与しました。

 このような「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」は、キリスト論における異なる二つの方法論ですから、そこに優劣の意味はありません。

 しかし、イエスは一人の人間であるとしてイエスの神性を否定したり、軽視したりすることがあるとすれば、信仰の観点から見て、イエスを神御自身として絶対的に信じる信仰と比較し、そこには信仰の優劣やメシア観の優劣というものがあると言えます。

 キリスト教の信徒たちは、これまで2000年間、イエスを神として信じてきましたが、もし再臨のメシアに侍る成約聖徒たちの中で、再臨のメシアの人間的側面ばかりを見て、その神性やメシア性を見失うことがあった場合、その信仰はキリスト教信徒たちの信仰よりも劣っていると言わざるを得ないでしょう。

 ですから、キリスト論の方法論に優劣があるのではなく、優劣があるとすれば、それは私たちのメシア観であり信仰姿勢です。
 それでは次に、キリスト教のキリスト論について見てみましょう。

2.キリスト教のキリスト論

 (1)アタナシウス派とアリウス派の対立

 キリスト教では、初代教会の時代から、イエスは神か人かという論争がありました。それは現代まで続いています。例えば、4世紀に起こったアタナシウス派とアリウス派の論争があります。それぞれの主張は下記のとおりです。

 

 【アタナシウス派】
 アタナシウスは、キリストの完全な神性を強調し、キリストは神の本質から来た神聖な存在であり、永遠の御子であると主張しました。

 【アリウス派】
 アリウスは、キリストの人性を強調し、キリストは神の創造物であり、神よりも低位の存在であると主張しました。

 

 両派ともイエスをキリスト(救世主)として信じるのですが、アタナシウス派は神と同位置とし、アリウス派は神より低位にあるとしています。両派の論争は、ニカイア公会議(西暦325年)でアタナシウス派が正統、アリウス派が異端とされることで決着がつきました。(ニカイア信条)

 次に、アタナシウス派の主張が正統とされた理由について、当時のキリスト教が置かれた状況から考えてみることにします。

 (2)アタナシウス派が正統とされた時代的背景

 新約聖書の四つの福音書は、イエスがキリストであることを宣べ伝えるために書かれたものです。アリウス派が主張するように「キリストは人である」とすれば、同じ人として罪人の罪を代わりに背負うことはできても、神でもなく、神性をもたないイエスがどうして罪人を救うことができるのかと批判され、イエスをキリスト(救世主)として証し、宣教することが難しくなります。

 また、当時のキリスト教は、グノーシス主義(精神=善、物質=悪とする二元論で、肉身を罪悪視する思想)者たちから、「肉体をもつイエスが救世主になれるはずがない」と批判され、反対されていました。「キリストは人性をもたない神性のみをもつ存在」と主張すれば、グノーシス主義と類似した教えとなり、肉身をもって来られたイエスをキリスト(救世主)として証することができず、グノーシス主義者、すなわち反キリスト勢力の批判を退けることができなくなります。

 『原理講論』には、このグノーシス主義者について、次のように記述されています。

 イエスが十字架で亡くなられたのちにおいても、ユダヤ人たちの中には、地上で肉身をもって生まれたイエスがメシヤになり得るはずはないと言って、反キリスト教運動を起こした者たちもいた(=グノーシス主義者)のであった。それゆえに、使徒ヨハネは彼らを警告するために、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネⅡ7)と言って、肉身誕生をもって現れたイエスを否認する者たちを、反キリストと規定したのである。(『原理講論』p564)

 

 以上のような理由から、ニカイア公会議(西暦325年)で、父なる神、御子、聖霊は同等であり、キリストは神の本質であるとし、「イエスは神でもあり人でもある」と主張するアタナシウス派が正統とされました。

 しかし、「イエスは神でもあり人でもある」というキリスト論は、キリスト教の伝統的な神観や創造観と矛盾する内容を抱えていました。次はこの点について見てみることにしましょう。

 (3)キリスト教の神観とキリスト論との矛盾

  ①キリスト教の伝統的な神観と創造観

 下記の『統一思想要綱』の説明にあるように、キリスト教は、神は質料的要素をもたない純粋な形相だけの存在、すなわち「統一原理」で言う「形状」をもたない「性相」だけの存在と考えています。

 トマス・アクィナス(T.Aquinas,1225-1274)はアリストテレスに従って、同様に純粋形相または思惟の思惟を神と見た。また彼はアウグスティヌス(A.Augustinus,354-430)と同様に、神は無から世界を創造したと主張した。神は質料を含む一切の創造主であり、神には質料的要素がないために、「無からの創造」(creatio ex nihilo)を主張せざるをえなかったのである。(『統一思想要綱』p38)

 

 正統とされたアタナシウス派やアウレリウス・アウグスティヌスも同様に、神を精神的な存在と規定し、創造についても、神の中には質料、つまり「形状」がないと考えているため、「無からの創造」(creatio ex nihilo:クレアチオ・エクス・ニヒロ)を主張しています。

  ②「無からの創造」とは

 「無からの創造」とは、被造物の実体を構成する質料は神から来たのではなく、「無」から創造されたと考える一つの創造説です。金永雲先生は、「無からの創造」について、その長所と短所について、『神学概論』の中で次のように述べられています。

 「無からの創造説」は、存在以前の永遠なる存在(神)から万物が創造されたとせず、空っぽの帽子から一匹のうさぎを引っ張り出す魔術師のように、神が単に語ったとおりに世界が現れたと教える。〈無からの創造〉という言葉は、創世記一章になく、マカベア第二書七章二八節(注19)で初めて発見される。この教義の長点は次のようなものである。
 ①、それは神の超越的な能力を主張する。②、それは被造物から神を分離させ、したがって汎神論を否認する。③、神が世界を創造したために世界は善であると主張する。④、神がこの世界を造られたことにより、神のこの世界を使用し支配する権利を強調し、被造世界は創造主(神)に依存し、それは、〈自足性〉(self-sufficiency)をもっていないことを強調する。
 しかし、「無からの創造説」は次のような深刻な弱点がある。
 ①、この世界がエネルギーによって造られたという科学的な説明に合わない。②、人間と世界に対する神の親近性、すなわち、神の内在を軽視する。③、被造物の神聖を否定し、自然資源を無慈悲に取り扱い、したがって現代の生態学的な問題等を引き起こす傾向をもつ(注20)。(『神学概論』金永雲著「第4章 神論―神に対する教義、4、創造主、神」より」)

(注19)「子供たちよ、願わくは天と地を見よ。その中にあるすべてをみて、神が無からそれらを造られたことを知れ。そして、人間もそのような方法で造られたことを知れ。」(マカベア(※)第2書7章28節)
(※)マカベア書:旧約聖書外典および偽典中の書の総称で、第1書から第4書がある。
(注20)これは天然資源の科学的かつ技術的な利用を可能にした。他の文化が考えるようにこの地は神的な母ではない。人間がそれを監督し支配する権利がある。

 

 このようなキリスト教の「無からの創造」説は、神の超越的な力を主張できると共に、被造物から神を分離させることで「汎神論」(※)を否定することができます。

 一方で、あらゆる存在の第一原因者を神とする因果律が成立せず、神と被造物との関係が隔絶されたものになり、精神と物質の二元論に陥りやすいという問題も抱えています。

(※)「汎神論」とは、自然を神そのものの現れと見て、両者に区別をおかない見方であり、自然のすべてのものを神と見る立場である。これに対して「統一原理」は、「汎神相論」、すなわちあらゆる被造物に神の姿(神相)が現れているという見方であり、被造物は神が現れたものではなく神の姿に似たものと見る立場である。

 また、金永雲先生が指摘されているように、この世界がエネルギーによって成り立っているという科学の見解と合致しません。

 キリスト教では、創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された」を根拠に、神による「無からの創造」を主張していますが、現代の物理学は、真空(無)状態において、一対の粒子と反粒子が突然現れ、その後すぐに消滅する現象が発生することを確認しています。

 この現象は、真空におけるエネルギーの揺らぎの一部と理解されており、真空とは何もない無の状態ではなく、エネルギーの揺らぎによって、絶えず粒子と反粒子のペアが創造と消滅を繰り返す非常に活発な状態と考えられているのです。

  ③伝統的な神観との矛盾から生まれた様々なキリスト論

 神を質料的要素(「形状」)をもたない純粋な形相(「性相」)だけの存在と見て、その神が無から質料をつくり出して世界を創造したという神観と創造観を中心にキリスト論を構築する場合、神と被造物は隔絶されているため、異端とされたアリウス派の「イエスは人である」としてキリストの人性を強調する理論の方が、論理的には伝統的なキリスト教の神観と整合性があることになります。

 一方で、正統とされたアタナシウス派は「イエスは神であり人である」と主張しましたが、神と被造物は隔絶されているのですから、人なるイエスがなぜ神性をもっているのかを説明することができません。そのため、イエスの神性と人性の両性を認める信徒たちの間でも、様々な考え方が生じるようになりました。

 例えば、「キリストは人として生まれた後に神性をまとい、神性と人性は2つの位格に分離して共存する(人性重視)」と主張したネストリウス派(のちに中国に伝わり「景教」と呼ばれるようになる)、「キリストは人として生まれた後に神性をまとい、人性は神性に吸収され、神性だけの存在になった(神性重視)」と主張した単性派などです。

 この両派は、最終的にカルケドン公会議(西暦451年)で異端とされ、アタナシウス派の中のカルケドン派の三位一体説(両性説)がキリスト教唯一の正統な教義(※1)として確定し、「カルケドン信条」として宣言されました。

 「カルケドン信条」とは、「キリストは真に神であり、真に人であること、神性によれば父なる神と同質であり、人性によれば我ら人間と同質である。両性は一つの人格、一つの本質の中に並存する」という教義です。

 さらにその後、カルケドン派は、フィリオクェ問題(聖霊の産出問題)(※2)を発端として、カトリック(西方教会)と正教会(東方教会)に分裂(東西教会の分裂・1054年に確定)しました。

(※1)カトリック教会や正教会では教会が正統と定める「教義」がありますが、プロテスタントでは、「教義」自体の存在は認めても、それを理解できるのは神のみであり、人間は理解できないとし、神学において人間が語り得るものを「教理」としています。ここではカトリック教会のことなので「教義」とします。

(※2)「フィリオクェ(Filioque)」とは、ラテン語で「そして子によって」という意味です。カトリック教会は「聖霊は父と子の両方から等しく発せられる」とし、正教会は「聖霊は父からのみ発せられる」としています。プロテスタントは、フィリオクェ問題、キリストの受肉の理解についてカトリック教会と類似した考え方、すなわち「聖霊は父と子の両方から等しく発せられる」、「キリストが完全な人性と完全な神性を持つ1人の位格である」としています。

 

 以上のように、キリスト教の神観と創造観は、精神と物質を分離する二元論的な要素を抱えているため、キリスト論においても種々様々な解釈が生じるようになりました。したがって、キリスト教教義の中核をなすキリスト論や三位一体論において、多様な解釈が生じる根本原因は、精神と物質を分離する二元論的な神観、創造観にあると言えます。

3.「統一原理」のキリスト論

 (1)二つのキリスト論を統一する「統一原理」のキリスト論

 「統一原理」のキリスト論は、「イエスは神御自身ではない」と主張している点ではアリウス派の主張と共通しています。それと同時に、創造原理の「性相と形状の二性性相」の観点から、神とイエスの関係を心と体の関係ととらえ、「イエスは第二の神である」として、イエスを神御自身とするアタナシウス派の主張をも含む教えになっており、二つのキリスト論をより高い次元で統合したキリスト論になっています。下記の『原理講論』の記述をご覧ください。

 原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。(『原理講論』p256)

 神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。(『原理講論』p258)

 

 「統一原理」は、イエスを神とするアタナシウス派の信仰に異議はないとしています。その理由として、創造原理の「性相と形状の二性性相」の観点から、神とイエスの関係は心と体の関係であり、心と一体になった体を「第二の心」と言えるように、イエスは神と一体であるがゆえに「第二の神」と言えるからであると主張しています。

 また、アリウス派のようにイエスを一人の人間であると主張していますが、その理由は上記と同じように、創造原理の「性相と形状の二性性相」の観点から、心と一体になった体を「第二の心」と言うことはできても心自体ではないのと同じように、神と一体であるイエスも、「第二の神」と言うことができても、神御自身ではないからです。

 このように、「統一原理」は、「性相と形状の二性性相」という一つの原理を中心に、これまで対立していた二つのキリスト論をより高い次元で統合、統一することに成功しているのです。

 次に、キリスト教が「統一原理」を異端の教えとする理由の一つは、アリウス派と同じく「イエスは神御自身ではない」と主張していることにあるので、アリウス派のキリスト論と「統一原理」のキリスト論の違いについて見てみましょう。

 (2)アリウス派のキリスト論と「統一原理」のキリスト論の違い

 異端とされたアリウス派と「統一原理」は、「イエスは神御自身ではない」ということでは同じ立場に立っていますが、次のような相違点があります。

 まず、上で紹介した『原理講論』の一節で、「原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである」とあるように、「統一原理」のキリスト論は、正統とされるアタナシウス派の「イエスは神である」という信仰を支持しています。

 そして、アリウス派と「統一原理」では、神の「創造」に対する概念が異なります。アリウス派は「無からの創造」を主張していますが、「統一原理」は神の「神相(※)」からの創造を主張しています。
(※)神の属性である性相と形状の二性性相、陽性と陰性の二性性相、そして個別相のこと。

 アリウス派は、神は質料的要素をもたない純粋な形相だけの存在、すなわち「統一原理」で言う「形状」をもたない「性相」だけの存在と考えています。神の中に「形状」、つまり被造物の構成素材となる質料がないのですから、無から創造したと主張せざるを得ないわけです。正統とされたアタナシウス派やアウレリウス・アウグスティヌスも同様の神観を主張し、創造についても「無からの創造」を主張しています。

 しかし、このような神観と創造観からは、神と被造物との間に二元論的な隔絶が生じてしまうのです。文鮮明先生は、御自身が執筆された『原理原本』の中で、「無」からは「無」しか生じないと述べられています。

 「有」からのみ「有」が始まる。「無」からは「無」が始まるのであって、「有」にはなり得ないというのが天理である。(『原理原本』p35)

 そのため、「無」から「有」という原理は、もともと我々が立てることはできず、「無」なら「無」なのであって、「有」になるのかというと、なり得ないことは事実である。(『原理原本』p38)

 

 そして、「統一思想」では、神の「神相」からの創造について次のように説明されています。

 すでに「神相」のところで説明したように、本形状は無限応形性の究極的な質料的要素である。質料的要素とは、被造物の有形的要素の根本原因を意味し、無限応形性とは、あたかも水の場合と同じように、いかなる形態でも取ることのできる可能性を意味するのである。
 質料的要素は物質の根本原因であるが、科学の限界を超えた究極的原因なので、統一思想ではこれを前段階エネルギー、または簡単に前エネルギーと呼んでいる。次に述べるように、水が容器に注がれれば容器の形態を取るように、本形状が本性相の構想の鋳型(霊的鋳型)の中に注入されて、現実的な万物として造られるようになるのである。(『統一思想要綱』p127)

 

 「統一原理」の創造観からすれば、イエスは被造物であり、創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、神と一体であり、神と同一の価値をもち、神性をもっているため、神御自身ではなくても、生まれながらにして堕落した人間を救済できる権能をもって降臨されたと言えるのです。

 (3)キリスト教の神観の問題を克服した「統一原理」

 既に説明したように、キリスト教は神の創造を「無からの創造」と考えています。「統一思想」では、この「無からの創造」の問題点を挙げながら、キリスト教の神観の課題を次のように説明しています。

 アウグスティヌスは神を精神と見て、その神が無から質料をつくり出し、世界を創造したと主張した。アリストテレスの形相と質料の原理を継承したトマス・アクィナスは、質料をもたない純粋形相の中で最高のものを神とした。アウグティヌスと同様に、トマスも神は世界を無から創造したと見た。
 このような神に対する理解は、現実問題といかに連結するのであろうか。このような神観は、精神を根源的なもの、物質を二次的なものと見るから、物質的な現実世界を二次的なものとして軽視し、精神の世界、霊的な世界のみを重要視する傾向があった。そして、死後の世界における救いのみを重要視する救援観が長くキリスト教を支配してきたのである。
 ところが現実には、物質を無視した生活は不可能である。そのためにキリスト教徒の生活は、信仰上では物質生活を軽視しながら、現実的には物質生活を追求せざるをえないという相互矛盾の立場に立たざるをえなかった。そのように、キリスト教の神観では地上の現実問題の解決は初めから不可能であったのである。地上の問題は、大部分が物質問題と関係しているからである。
 キリスト教の神観が現実問題の解決に失敗せざるをえなかった根本原因は、第一に、神を精神だけの存在と見て、物質の根源を無としたことにあり、第二に、創造の動機と目的が不明なことにあった。(『統一思想要綱』p152~153)

 

 文鮮明先生は、「歴史的にキリスト教の世界であるヨーロッパの土壌に近世以降、唯物論、無神論が発生し、今日の世界を席巻しているのは、その根本原因が実にこの本体論(絶対者に関する理論)の曖昧性にあるのです」(『御言選集』122-303 1982.11.25)と語られ、現代において宗教がその説得力を失い、共産主義思想が蔓延し、物質中心主義的な価値観が横行している根本的な原因は明確な本体論の欠如にあると喝破しておられます。

 そして、神が人間を中心とする被造世界を創造された動機と目的も、正しい神観、正しい本体論を立てることによって明確になると語れています。

 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するようにつくられたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的を明らかにするためには、絶対者がどのような方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。このように正しい神観が立てられることによって、絶対者の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、それによって平和のために絶対愛を実践しなければならないその理由も明白になるのです。(『御言選集』110-253 1980.11.27)

 

 このような正しい神観、正しい本体論を提示しているのが「統一原理」です。「統一原理」では、神について次のように定義しています。

 神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(『原理講論』p47)

 

 ①神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体

 ②神は本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体

 ③神は被造世界に対しては、性相的な男性格主体

 

 キリスト教の神観の課題と曖昧性を克服するものとしては、特に①の「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体」が刮目に値します。この点について「統一思想」は次のように説明しています。

 聖書には、被造物を通じて神の性質を知ることができると記録されている(ローマ一・二〇)。被造物を見れば、心と体、本能と肉身、生命と細胞・組織などの両面性があるから、絶対原因者である神の属性にも両面性があると帰納法的に見ることができる。これを「神の二性性相」と呼ぶ。しかしすでに述べたように、神において二性性相は、実は一つに統一されているのである。この事実を『原理講論』では、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」と表現している。(『統一思想要綱』p37)

 デカルト(R.Descartes, 1596-1650)は、神と精神と物体(物質)を三つの実体と見た。究極的には神が唯一なる実体であるが、被造世界における精神と物体は神に依存しながらも相互に完全に独立している実体であるとして二元論を主張した。その結果、精神と物体はいかにして相互作用をするのか、説明が困難になった。(中略)
 このように西洋思想がとらえた形相と質料、または精神と物質の概念には、説明の困難な問題があったのである。このような難点を解決したのが統一思想の性相と形状の概念、すなわち「本性相と本形状は同一なる本質的要素の二つの表現態である」という理論である。(『統一思想要綱』p39)

 

 以上のように、キリスト教の神観が抱えている問題、すなわち神を精神だけの存在と見て物質の根源を無としたことによって二元論的な神観となっていることを、「統一原理」は、精神と物質の根源は神の中に二つの属性として内在し、一つに統一されていることを明らかにしたのです。

■文鮮明先生のみ言資料

【キリスト論に関するみ言】

 神様を中心とする三位一体が崩れたので、これを再び探し立てなければなりません。それで、アダムの代身として立てられた存在がイエス様です。アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるためにイエス様が来られたのです。
 ところが、このような内容も知らずに「イエス様は神様だ」と言っています。神様が神様に祈るのですか。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ福音書14章36節)と祈ることができるのですか。では、神様が2人いるのですか。それではイエス様が十字架にかけられて亡くなったとき、神様御自身が十字架にかかられたということになってしまうのです。(『御言選集』22-283, 1969.5.4)

 ヨハネによる福音書の14章を見ると、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」とあります。神様とイエス様自身が一つだということです。それは何かというと、愛を中心として語った言葉です。愛を抜かしてどうして、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言うことができますか。そのような言葉は、とてもこっけいであり、話にならない言葉です。ですから、愛を中心として、神様と完全に一つになれる資格をもった方がイエス様です。(『御言選集』94-39, 1977.6.26)

 テモテへの第一の手紙2章5節を見ると、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」とあります。彼は罪のない人であり、堕落した人間は罪のある人です。これが違うところです。ですからイエス様は、神様の愛と交流することができ、生命と交流することができ、理想と交流することができる方です。(『御言選集』69-79, 1973.10.20)

【神観の重要性と「本体論」の必要性に関するみ言】

 宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は「主なる神」であり、キリスト教の絶対者は「ゴット」、すなわち「神様」であり、回回教(イスラーム)の絶対者は「アッラー」です。
 儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結するので、「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化しており、真理は諸法の背後にある「真如」から見出すことができるとしているので、「真如」が仏教の絶対者と見ることができます。
 ところが、このような絶対者に関する説明がはなはだしく曖昧なのです。絶対者の属性がどのようなものであり、なぜ創造をなされ、創造の動機は何であり、どのような方法によって創造され、神様(絶対者)が実際に存在するのか等に関する解明が、宗教ごとに明確になっていません。したがって、各宗教の徳目が成立する根拠が明確ではないので、今日の宗教の説得力が弱まっているのです。
 すべての宗教の教えである徳目、すなわち実践要目がきちんと守られるためには、その宗教の本体である絶対者の属性と創造の目的、その絶対者の実存性等が十分に明らかにされなければならないのです。(『御言選集』122-300~2 1982.11.25)

 新しい宗教のための新しい「本体論」は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同じ一つの神様だということを明らかにしなければなりません。それと同時に、その神様の属性の一部を把握したものが各宗教の神観だったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は一つの神様から立てられた兄弟的宗教だということを明らかにしなければなりません。
 それだけでなく、その「本体論」は、神様の属性と共に創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙の万物の運動を支配していることと、人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致するということを解明しなければならないのです。宇宙の日月星辰の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系が形成されているのと同じように、家庭においても、祖父母、父母、子女によって形成される縦的秩序と、兄弟姉妹によって形成される横的秩序の体系が立てられると同時に、相応する価値観、すなわち規範が成立することを明らかにしなければならないのです。
 さらにこの「本体論」は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても肯定されなければならず、歴史の中に「逆天者は亡び、順天者は存続する」という命題が適用されてきたことが証明されなければなりません。(『御言選集』122-303 1982.11.25)

 新しい「本体論」によって、神様に関するすべてのことが解明され、すべての宗教の神様が、結局唯一の絶対神として、すべて同じ一つの神様だということが明らかにされれば、ここにすべての宗教は、各自の看板をそのまま維持しながらも、実質的な宗教の統一が成され、神様の創造理想である地上天国を実現することに共同歩調をとるようになるのです。
 そして、すべての宗教の教理における不備な点、未解決点が新しい「本体論」によって補完され、実質的な教理の一致化までも実現されるようになるのです。かくしてすべての宗教は、神様が宗教を立てられた目的を完全に達成するようになるでしょう。
 以上のように、今日の世界的な大混乱を収拾できる絶対的価値観に関する諸問題点を解決するために、新しい宗教として登場したのが統一教会であり、その内容は、広大で、理論的で、知性人までも洗脳するということで有名な「統一原理」と「統一思想」なのです。(『御言選集』122-304 1982.11.25)

 

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