【今回深掘りする原理のみ言】
 イエスが荒野で四十日の断食を終えられたとき、サタンがその前に現れて、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・3)と試練してきた。ここにはいかなる事情があるのだろうか。
 まずモーセが荒野で「四十日サタン分立基台」の上におかれていた石板を壊し、磐石を二度打ったという行動、および、洗礼ヨハネの不信の結果、その石をサタンが所有するようになったので、これを再び取り戻すため、イエスは荒野に出ていかれ、四十日間断食してサタンを分立しなければならなかった。サタンは、イエスがこのように石を取り戻すために、荒野に出てこられたということをよく知っていたのである。
 したがって、その昔、民族的なカナン復帰のための荒野路程において、イスラエルの祖先たちが飢餓に打ち勝つことができず、不信に陥って、石をサタンがもつようになったのと同じく、今、世界的カナン復帰のための荒野路程におかれているイエスも、彼らと同様、飢餓の中にいるのであるから、次第に不信に陥って、その石を取り戻そうとする代わりに、それをパンに変えて飢えをしのぐようになれば、その石はサタンが永遠に所有しつづけることができるという意味だったのである。(『原理講論』p412~13)

 

イエス様が受けられた最初の試練は、石をパンにかえて飢えをしのぎなさいというものでした。

石はメシヤの象徴ですから、み言の実体であるメシヤの立場よりも肉身の命を優先して飢えをしのぎなさいという試練です。

今回は、なぜ三大試練の最初の試練がこの飢えの問題だったのかを深掘りし、私たちの生活とどう関わっているのかを探っていきたいと思います。

神様の三大祝福と三大試練

まず『原理講論』から、サタンがイエス様に三大試練をしてきた目的を確認してみましょう。
 初めに神は人間を創造し給い、その個性の完成、子女の繁殖、および被造世界に対する主管など、三つの祝福をされた(創一・28)。それゆえに、人間がこれを完成することが、すなわち、神の創造目的なのである。
 ところが、サタンが人間を堕落させて、この三つの祝福を成就することができなかったために、神の創造目的は達成されなかったのである。
 それに対してイエスは神が約束されたこの三つの祝福を復帰することによって、神の創造目的を成就するために来られたのであるから、サタンは祝福復帰への道をふさぐため、その三つの試練をもって、創造目的が達成できないように妨げようとしたのであった。(『原理講論』p411~12)

 

サタンが人間を試練する究極の目的は、神様の創造目的である三大祝福の完成を達成できないようにすることです。

神様の三大祝福を知らない人に、わざわざ直接サタンが出てきて試練する必要はないですね。

神様のみ旨をご存知で、三大祝福を復帰するために荒野に行かれたイエス様だったからこそ、サタンが自ら現われて試練してきたわけです。

その三大試練において最初の試練が「石をパンにかえよ」という飢えに関する問題でした。

この最初の試練は第一祝福の個性完成を象徴的に蕩減復帰するための条件で、この試練に勝利しなければ三大祝福を完成する道が塞がれてしまいます。

なぜこの飢えに関する問題が最初の試練になったのかを知るため、まずサタンがどのような経路で私たち人間に侵入してくるのかを確認してみます。

サタンが侵入してくる経路

サタンがイエス様に対して試練したように、サタンはありとあらゆる手段をもちいて私たちが三大祝福を完成しないように妨害してきます。

実際にどのような経路からサタンが侵入してくるのかについて『原理講論』には次のように記述されています。

被造世界の主権を握っているサタンが、現実生活を通して、人間に侵入してくる関係上、今までの宗教の道は、現実を見捨てなくては行かれない道であると見なされてきた。(『原理講論』p494)

 

『原理講論』によると、サタンは現実生活を通して侵入してくるということが分かります。

それでは、この現実生活とは具体的にどういうものを意味するのでしょうか?

『原理講論』でいう「現実生活」とは?

サタンが侵入した実例として、『原理講論』に共産主義及び唯物思想が発生した経緯について記述されている箇所があるので紹介します。

初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現われたとしても無理からぬことである。このようにして現われたのが唯物思想であった。(『原理講論』p26)

 

このように、まずサタンは貧富の差をつくりだし、富を独占している人たちを「財欲」によって神様に対する信仰を失うようにさせます。

 

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイによる福音書6:24)

 

イエス様が神と富の両方に仕えることはできないと語られているように、二人の主人に仕える立場は非原理的な立場です。

非原理的な立場はサタンが侵入できる条件になりますから、財欲を満たしながら神様に対する信仰を保つことはとても難しいと言えます。

さらにサタンは、飢餓に苦しむ人たちに対して、「このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうか」と疑心を思いを抱かせ、神様に対する信仰を失わせます。

そして、富める人たとち貧しい人たちとの間に葛藤と対立をもたせ、人間同士が争いあうようにしていきます。

この歴史の実例から『原理講論』でいう「現実生活」とは、まさに私たちの食生活を中心とした「衣食住」の問題を意味していると解釈できます。

イスラエル民族も直面した飢えの問題

かつてモーセと共に荒野路程を歩んだイスラエル民族は、次のように不平不満を言いました。

「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。(民数記11:4~6 )

 

このように衣食住の問題、特に食の問題は、いつも私たちを悩ませ、不信仰へと誘導してきたとても難しい課題になっていることが分かります。

だからこそ、サタンは第一の試練で「石をパンにかえよ」と、40日断食を終えられた直後のイエス様を試練してきたわけです。

イエス様はその試練を見事に勝利されましたが、この衣食住の問題についてこのように語られています。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。(マタイによる福音書6章25節)

 

三大試練に勝利されたイエス様は、現実生活を通して入ってくるサタンに注意するよう信徒たちにうったえられています。

文鮮明先生は、このイエス様のみ言について、以下のように説明してくださっていました。

 イエス様は、見せてあげようとしても見ることができず、手に握らせてあげても理解できない、無知な人々に対されながら、切なく思われました。それでイエス様は、彼らに「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」(マタイによる福音書6章25節)と語られました。それは、自分の生活を否定しなさいというみ言であり、すべての環境を否定しなさいというみ言です。
 イエス様は、それ(食べること・飲むこと・着ること)が、人間が生きていくために備えるべき必然的な条件であることを知らずに、このようなみ言を語られたのではなかったのです。
 堕落した人間は、そのような道を歩み、その道に達してこそ、希望の一日を迎えられることをご存知だったので、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6章31~33節)と語られたのです。
 先に神の国と神の義を成し遂げる人は、この自然的な法度圏内で万物を主管することができ、そのような万物に対する心配は自然とする必要がなくなるために、そのように語られたのです。(『文鮮明先生御言選集』3・121 1957.10.13)

 

神様もイエス様も人間に衣食住が必要なことはご存知でありながら、それよりも神の国と神の義を求めることを願われています。

それに対してサタンは、かつてアダムとエバ、イスラエル民族、イエス様に試練したのと同じように、今の私たちにも、現実の衣食住の問題を優先するよう試練してくるのです。

常に「石をパンにかえよ」と試練されている私たち

創造原理で、既に論じたように、地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ世界である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向を、のぞき見ることができるといわなければならない。(『原理講論』p486)

 

『原理講論』にあるように、堕落した人間一人で人類罪悪史は相似形をなしています。

ですから、キリスト教の懐から共産主義思想を生まれ、発展してきたその歴史過程は、そのまま一人の信仰者が神様に対する信仰を失っていく過程と同じです。

サタンは、私たちを飢えで苦しめことが目的ではなく、それによって神様に対する信仰を失わせ、三大祝福を完成させないことが究極の目的なのです。

現在の日本では飢餓という問題はあまりないのですが、多くの人は衣食住にかかわる問題を解決するために1日の大半の時間を使っています。

こういった「現実生活」からサタンが侵入してくるため、宗教では世俗を離れて出家したり修道生活したりしてきたわけです。

かつて神様はアダムに対して「取って食べてはならない」と言われ、反対にサタンは「取って食べよ」と言いました。

今の私も、常に心の中で「神の国と神の義とを求めよ」という神様の声と、「石をパンにかえよ」というサタンの声が、激しく主導権争いをしています。

そんな私たちにとって、イエス様の第一の試練に対する対応と勝利は、この上ない道しるべとなっています。

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