【今回深掘りする原理のみ言】
イエスが荒野で四十日の断食を終えられたとき、サタンがその前に現れて、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・3)と試練してきた。(『原理講論』p412)

 

私たち一人ひとりに対してサタンは、1日24時間、1年365日、常に侵入する機会をうかがっています。

ただ、サタンも無条件に侵入することはできず、私たちに非原理的な条件が成立したときに侵入してきます。

その非原理的な条件を成立させようとサタンは試練してくるのですが、どんなときにサタンが試練してくるのでしょうか?

復帰摂理歴史をみると、サタンが試練してくるタイミングは主に三つあることが分かります。

サタンが試練してくる三つのタイミング

サタンが試練してくるタイミングは、新たに摂理路程を出発する時、その摂理路程の長成期完成級の時、そしてその摂理路程が終った直後、この三つです。

1新たに摂理路程を出発する時

 アブラハムはこのようにイサクを再び神の側に分立させるための新たな摂理路程を出発するために、モリヤ山上で彼を燔祭としてささげるまで、三日期間を費やした。ゆえに、この三日期間は、その後も引き続いて新しい摂理路程を出発するとき、サタン分立に必要な期間となったのである。
 ヤコブもハランからその家族を率いて、家庭的カナン復帰路程を出発するとき、サタン分立の三日期間があった(創三一・20~22)。モーセも、エジプトからイスラエル民族を率いて民族的カナン復帰路程を出発するとき、サタン分立の三日期間を過ぎたのちに、紅海に向かって出発した(出エ八・27~29)。イエスも霊的な世界的カナン復帰路程を出発されるとき、サタン分立の墓中の三日期間があった。(『原理講論』p327~8)

 

このサタン分立の三日期間は、いわゆる「出発のための三日路程」と言われるものです。

この三日期間にサタンはさまざまな迷いや不安の思いをもたせ、摂理路程を出発させないように試練してきます。

アブラハムがイサクを燔祭として捧げるまで、相当な葛藤や迷いがあったことは容易に推測できます。

「これは本当に神様のご命令なのか? 他の方法はないだろうか?」と迷いに迷ったはずです。

このように、何か新しく出発するとき、誰しも心に不安や迷いをもつので、そこにサタンが「だからやめたほうがよい。このままでよい」と試練してきます。

2摂理路程の長成期完成級の時

善悪二つの主権の歴史路程が交差するときを終末という。そしてさらにこのときは、アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期を、蕩減復帰するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきかを知らずに、混沌の中に陥っていったように、いかなる人間も思想の混乱を起こして、彷徨するようになるのである。(『原理講論』p164)

 

アダムとエバが長成期完成級で堕落してしまったため、この時期にサタンが試練してくるようになっています。

この時期になると、現実の壁にぶつかるなどして思うにようにいかず、出発当初の目的や意欲を忘れてしまうことがあります。

そうなると、このまま続けていいのだろうかといった不安や迷いをもつようになるので、そこにサタンが試練してきます。

3摂理路程が終った直後

そして最後は、イエス様の三大試練のように、一つの摂理路程が終った直後にサタンは試練してきます。

イエス様の路程以外でも、復帰摂理歴史ではこの実例がありますので、紹介しておきます。

それでは、からすを箱舟から放って、水が乾ききるまで飛びまわらせたのは(創八・6、7)、いったい何を予示しようとされたものであろうか。これはあたかも、人間の創造直後に、天使長がエバの愛を犯そうとし、(『原理講論』p306)
ノアのときにも、審判直後に、サタンがノアの家庭に侵入する機会をねらっていたということを、からすによって表示してくださった(創八・7)。このようにアブラハムが象徴献祭をするときにも、その供え物に侵入する機会だけをねらっていたサタンは、彼が鳩を裂かないのを見て、すぐその供え物に侵入した。(『原理講論』p324)

 

このように、一つの摂理路程が終った直後に、サタンが侵入する機会をねらっていることが分かります。

やはり知恵深いサタンは、摂理路程が終ったあとは人間がほっとして油断してしまうことを知っているのでしょう。

このときにサタンの試練を受け、それまでに立てた条件を台無しにしてしまうケースがとても多いのです。

特に注意すべきは一つの摂理路程が終った直後

長成期完成級の試練も要注意なのは間違いないのですが、それでも最後まで歩みきろうとすることは可能です。

最も油断しやすいのが、三つめのタイミングである一つの摂理路程が終った直後の試練です。

それでは、なぜ摂理路程が終った直後に私たちはサタンの試練を受けなければならないのでしょうか?

それは自由意志による主体的な信仰が復帰されなければならないからです。『原理講論』には、人間の自由意志について以下のように記述されています。

神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。(『原理講論』p117)

 

人類始祖のアダムとエバは、天使長の誘惑の言葉に従って堕落することにより、創造本然の主体性を失い、真の自由を拘束されてしまいました。

ですから、復帰摂理においては、この失った主体性と真の自由を取り戻さなければならないのです。

例えば、もし40日断食をやっている最中に、石をパンにかえて飢えをしのげとサタンに試練されたらどうでしょうか?

そのときに「断食期間中だからパンは食べられない」という理由でその試練を退けたとしても、それは外的な要因によって勝利したことになってしまいます。

しかし、断食が終ったあとは、パンを食べたとしても条件にひっかからないので、石でもパンでもどちらも選ぶことができる状況です。

そういった状況で、「断食は終ったから食べてもいいだろう」と考えるのか、それともイエス様のようにパンより神様のみ言を優先するのか、これが問われているわけです。

もし「断食は終ったから食べてもいいだろう」と考えてサタンの言葉に従えば、その40日断食はただ外的に行っただけで、内的な価値転換はできていないことになってしまいます。

そうなれば「石」を取り戻すという目的は果たされず、40日断食の条件はサタンに奪われてしまうのです。

このように、私たちが自分の自由意志により善の方向にも悪の方向にも選択できる状況で、サタンは悪の方向に行動するよう試練してくるわけです。

それはちょうど、アダムとエバが神様の戒めに従うのか、天使長の偽りの言葉に従うのかを選べる状況だったのと同じです。

このときに失敗した讒訴条件があるため、復帰摂理においてはこの状況が再現されるようになるわけです。

復帰摂理の勝敗は私たちの自由意志による選択にかかっている

復帰摂理においては、人間の自由意志による主体的な信仰を復帰するため、あえてその人が信じてきたもの不信させるような摂理が行われることがあります。

例えば、ノア家庭においてハムは、父ノアが言ったとおりに洪水審判が起き、そのノアによって自分が救われたため、ノアを信じるようになりました。

しかし、それはあくまで洪水審判という外的な要因による信仰だったため、それをハム自身の主体的な信仰にしなければなりませんでした。

それを目的として起きたのがノアが裸で寝ている姿をハムに見せるという摂理でした。

このように、神様の復帰摂理は、その人の信仰を本人の自由意志による主体的なものにするための出来事が起きるのです。

しかし、サタンも原理を無視して私たちをいつでも試練できるわけではなく、今回紹介した三つのタイミングで試練してきます。

ですから、いつ新しい摂理路程が始まり、いつ長成期完成級になり、いつ摂理路程が終るのかを知らなければなりません。

ここに私たちが「統一原理」を詳細に学び、実生活に応用できなければならない理由があります。

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