【今回深掘りする原理のみ言】
 マタイ福音書の冒頭を見れば、イエスの先祖には四人の淫婦があったということを知ることができる。これは万民の救い主が、罪悪の血統を通じて、罪のない人間として来られてから、罪悪の血統を受け継いだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記録されたのである。(『原理講論』p573)
 
 
 先回は、マタイとルカの福音書に記録されているイエス様の系図を比較しながら、神様がどのような啓示を下さったのかを深掘りしてみました。
 
 特に「マタイによる福音書」の系図に4人の女性たちが記録されていることの原理的な意義について解説しました。
 
 今回は、その4人の女性たちが立てた信仰について、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の観点から考察してみました。
 
 

(1)神様ご自身が立てられた絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 
 神様の人類救済の復帰摂理歴史では、召命された中心人物たちに対して、天とそのみ旨、そしてみ言に絶対信仰、絶対愛、絶対服従することが求められてきました。
 
 なぜなら、神様ご自身が最初にこの絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てられたからです。
 
 神様は、ご自身の子女として人間を創造するとき、そのための環境として天宙の創造を始めたのですが、そのときからその基準を立てられたのです。
 
 このことについて語られている文鮮明先生のみ言を見てみましょう。
 
 神様は、真の愛の主人としてすべての創造物の表題である絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準の上で、人間をご自身の子女として創造されました。絶対肯定の立場で絶対投入をされたのが神様の創造歴史だというのです。対象の人間が主体の天に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を捧げなければならないという論理が、まさにここから創出されるのです。(『文鮮明先生御言選集』 487-140 2005.2.14)
 
 創造の三大原則が何かというと、絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。神様はその上でこの世界をつくったのです。その基準に立たなければ、完成してこの地に着陸できないので、神様の摂理を代表するすべての人たちに願うことはいつも同じです。
 アブラハムもそうです。アブラハムに必要なのも絶対信仰、絶対愛、絶対服従であり、モーセに必要なのも絶対信仰、絶対愛、絶対服従だったのです。イスラエル民族も、やはりそれと一つにならなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 292-181 1998.4.12)
 
 
 神様ご自身が人類の創造に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てられたので、創造されたアダムは神様に対して、そしてエバは神様とアダムに対して、同じ基準を立てることによって完成するようになっていました。
 
 そのために神様がアダムとエバに与えたのが「取って食べるな」と言われた戒めのみ言です。
 
 このみ言を絶対信仰、絶対愛、絶対服従することで、アダムとエバは成長期間を経て完成するはずでした。
 
 ところが、アダムとエバは戒めのみ言を破り堕落してしまいました。
 
 このときにエバが果たせなかった絶対信仰、絶対愛、絶対服従を蕩減復帰する路程を歩んだのが、イエス様の系図に記録された4人の女性たちだったわけです。
 
 では、この絶対信仰、絶対愛、絶対服従の観点から4人の女性たちが立てた信仰について見てみましょう。
 
 

(2)4人の女性たちが立てた絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 

 ①タマルの絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 
 文鮮明先生は、「タマルについて研究すれば原理のすべてが分かる」(『文鮮明先生御言選集』 35-168 1970.10.13)と言われました。
 
 では、カナン人のタマルという女性がどのような女性だったのか、み言で確認してみましょう。
 
 タマルという女性がどのような女性かと言えば、天の祝福を受けた血統を残すことを何よりも重要視した女性です。タマルという女性は神様の血統、すなわち祝福というものを重要視した人なのです。それで彼女は神様の代を継ぐことにおいては、どのような冒険でもしようとする歴史的な代表的女性です。(『文鮮明先生御言選集』 58-53 1972.6.6)
 
 サタンの子孫としての血統ではなく、神様から祝福された血統を残すというみ旨から見るとき、タマルにとって自分の命が犠牲になることは問題になりませんでした。自分の体面と威信と生死の問題までも、すべて超越するほど神様の血統を尊重したのです。これが貴いのです。それで、新しい血統を継承できる母になったというのです。(『文鮮明先生御言選集』 36-252 1970.12.6)
 
 
 タマルは、神様が祝福された血統がどれほど価値があるか、誰よりも知っていたということです。
 
 もしタマルがいなければ、ユダの血統は途絶えていたかもしれません。
 
 さらに、堕落したエバの立場を蕩減復帰するという観点から、文鮮明先生はタマルが果たした役割を次のように説明されています。
 
 エバは、人類の母として神様の直系の伝統を引き継がなければならないにもかかわらず、これを等閑視して破綻させました。これを復帰するためには、エバよりも優れた女性が現れなければならないのです。死んで滅びることを意に介さず、神様が祝福された血統を継ぐことを、自分の命よりも価値あるものと思う女性が現れなければならないのです。その女性が誰かと言えばタマルです。
 年の幼い義理の弟を通してはその支派の血族を残せないということが分かったタマルは、冒険をしたのです。自分は死んで消え去ろうとも、祝福を受けたユダ支派を残さなければならない責任を切実に感じていたタマルは、義理の父をあざむいて関係を結んだのです。それはちょうどエバが神様をあざむき、天使長と関係を結んだことと同じ立場です。タマルは神様のみ旨を成すために、自分の義理の父をあざむきました。そのようにして、天の道を復帰したのです。
 それはエバと正反対です。エバは天をあざむいて誤った愛の道を行き、天地を滅ぼしましたが、タマルはこの過ちを犯して滅びた世の中を正すために、神様をあざむいたエバと同じように、自分の義理の父をあざむいて神様の代を受け継ごうとしたのです。エバと正反対の立場に立ったのがタマルでした。(『文鮮明先生御言選集』 58-53 1972.6.6)
 どうしてタマルは、このような非合法的な愛の関係を結んだにもかかわらず、天の祝福を受けることのできる第一代の母になったのですか? 堕落したエバは、父なる神様をあざむき、非合法的な愛の関係を結んで滅びましたが、タマルはそれとは反対に、非合法的な愛を通して滅びたのではなく、神様を尋ねもとめ、神様の代を継ぐことを誰よりも尊重したのです。このようにして蕩減復帰がなされたために、天がタマルを通して役事をするので、それが罪にならないのです。原理に立脚した位置になります。そのような立場はエバとは正反対の立場です。(『文鮮明先生御言選集』 58-53 1972.6.6)
 
 
 堕落したエバとは反対に、神様に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てたのがタマルでした。
 
 このようなタマルの信仰ゆえに、神様に祝福された血統が残されたわけです。
 
参考記事:「救援摂理史の原理観」全文
 
 

 ②ラハブの絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 
 次に、カナン人のラハブがどのような信仰を立てたのかを見てみましょう。
 
 新約聖書には、下記の二ヶ所にラハブについて記録されています。
 
 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。(ヘブル人への手紙11章31節)
 
 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。(ヤコブの手紙2章25節)
 
 
 そして、文鮮明先生はラハブについて次のように語られています。
 
 ラハブは街娼なのに、どうしてイエス様の族譜に先祖として入っているのかというのです。それは、彼女がエリコ城を偵察するために来ていたイスラエルの斥候をかくまってあげたからです。そのときラハブは酒場の女性でしたが、命懸けで彼らをかくまってあげたのです。自分の国と自分の国の男性たちのためよりも、命懸けで彼らを保護しました。それが復帰していく今後の世界において、女性たちがとるべき態度だというのです。そのような立場にいたために、ラハブが天の代を受け継ぐことができたのです。
 ラハブは志のある女性だったためそのようにしたのですが、斥候に対して、本心において「どんな男性たちより、命を懸けて彼らを助けてあげなければならない」という心が強かったのです。自分の立場と境遇から顔をそむけ、そのあらゆることを越えて、「唯一の希望のみ旨の前に必要とされる女性にならなければならない」という心の姿勢を、心の奥底で大切にもっていました。
 彼女は異邦の女性として、イスラエル民族の怨讐であるにもかかわらず、その民族が祝福された民族であることを知り、彼らのために協助し、同調する心があったというのは、彼女の生涯路程で、常に何かが共にあったと考えることができるのです。(『文鮮明先生御言選集』 40-97 1971.1.24)
 
 
 ラハブはカナン人ですから、イスラエル民族とは敵対関係にありますし、カナン人の信仰は偶像崇拝でした。
 
 そのようなラハブは、どうしてイスラエル民族が祝福された民族だということを信じていたのでしょうか?
 
 それは、イスラエル民族が出エジプトするとき、紅海が二つに裂かれ、追ってくるエジプトの軍勢が全滅した奇蹟を聞き、それを信じていたからです。
 
 ヨシュア記の2章を見ると、ラハブが次のように告白している場面が記録されています。
 
 主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。
 あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。(ヨシュア記2章9~10節)
 
 
 そして、「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです」(ヨシュア記2章9~10節)と言い、イスラエル民族の神こそ創造主なる神であると信仰告白をしています。
 
 このように、ラハブは異邦の民でしたが、出エジプトのときの奇蹟を聞いてそれを信じ、イスラエル民族の神を受け入れた女性だったのです。
 
 

 ③ルツの絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 
 モアブ人のルツは、姑のナオミに従い、ナオミの遠い親族にあたるボアズの妻になります。
 
 このボアズという人は、さきほどのラハブとイスラエル人のサルモンとの間に生まれた人です。
 
 そして、その後、ルツは息子オベデを生み、このオベデの孫がダビデです。
 
 それでは、ルツについて語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。
 
 ルツは、夫が死んで姑と暮らしていましたが、その姑が「ボアズの妾になりなさい」とすすめてくれました。このような立場でルツは、「義母が私よりももっと高い立場で私の行く道を心配してくださり、私のあらゆることを心配してくださるのだな」と思いながら、姑の言葉に従いました。(『文鮮明先生御言選集』 40-97 1971.1.24)
 
 ルツは異邦の女性です。イスラエル選民圏の姑の命令に絶対服従し、姑が紹介してボアズの妾になりました。妾になる道に無条件に従ったのですが、その血族を通してイエスが生まれたのではないですか?(『文鮮明先生御言選集』 482-223 2005.1.12)
 
 
 ルツは、その後、ボアズの正式な妻になりますが、ルツとナオミの関係は、周囲の人たちにも評判になっていて、ルツがオベデを生んだとき、まわりにいた女性たちが次のように言っています。
 
 そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。
 彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。(ルツ記4章14~15節)
 
 
 姑のナオミに尽くすルツの姿を見ていた女性たちは、「七人のむすこにもまさる」と最大限の賛辞をルツに送っています。
 
 このようなルツのナオミに対する絶対服従、そして異邦人であるにもかかわらずイスラエルの慣習(レビラト婚)に絶対服従したことが、エバの失敗を蕩減復帰する一つの条件になったため、イエス様の系図に記録されることになったのです。
 
※レビラト婚:寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習
 
 

 ④バテシバの絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 
 ダビデの罪と言えば、王の姦淫と殺人の罪として「バテシバ事件」と言われる出来事を思い浮かべる人が多く、クリスチャンの間ではあまり好まれているエピソードではないようです。
 
 このダビデとバテシバの間に生まれたのがソロモンなのですが、そのソロモンがなぜ王になることができたのかについて、文鮮明先生は、次のように説明されました。
 
 ソロモンの母バテシバはどういう女性ですか? ウリヤの妻です。ダビデ王がウリヤの妻を奪い取ったのです。その子女がどうしてソロモン王になるのですか。
 このとき、ダビデとウリヤとバテシバは、堕落前のエデンの園のアダム、天使長、エバの位置に再び戻った立場です。すなわちダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場なので、天使長の妻の立場から復帰しなければならないのがエバの立場に立っていたバテシバでした。
 天使長がアダムの相対者エバを引っ張っていって堕落しました。愛によって占領して盗んでいったのです。それを蕩減するには、三角関係の立場に立って元返ししなければなりません。そういう原理的基準に立った条件を成した基台の上に生まれた子女は、天の愛する子女として、栄光の子女として生まれるのです。ですからソロモンは栄光の子女なのです。(『文鮮明先生御言選集』 35-168 1970.10.13)
 
 
 以上のように、エデンの園で堕落した天使長、エバ、アダムの関係を、ウリヤ、バテシバ、ダビデの三者を通して蕩減復帰したということです。
 
 この条件によってサタンがソロモンに対して所有権を主張できなくなったため、神様がソロモンを王として立てることができたのです。
 
 しかし、それだけでなく、そこにはバテシバの内的な勝利があったことが次のみ言から分かります。
 
 バテシバはソロモンの母ですが、そのバテシバは最後までダビデ王を憎んだでしょうか? もしそうであったなら、彼女はソロモンの母になれません。
 ダビデ王が夫のウリヤを戦場に追い出し、計画的に自分を占領しましたが、そのようになったことを運命と受け取ると同時に、それをかえって天の大いなるみ旨があるものと受け入れたのです。ダビデ王がこのようにするのは、悪い意味でするのではなく、何か大いなるみ旨があったためではないかと受け入れたというのです。また彼女は、自分の夫が犠牲になったとしても、国が栄えることを願い、祈った烈女でした。
 もしバテシバがダビデ王を憎む立場に立っていれば、彼女からソロモンのような王が生まれることは絶対にできません。自分の夫を殺したダビデ王に恨みを晴らそうという心があったなら、絶対にソロモンが出てくることはできないのです。
 しかし、バテシバは、自分の夫が死にましたが、「夫が忠臣になるためには、その一身が滅びるのはもちろん、妻である自分も国王のために捧げられることを喜びとしなければならない」と高い次元で考えたのです。
 それで、バテシバは、「私が国王のために一身を捧げ、精誠と貞節をすべて捧げていくのが、夫に対する義理ではないか」と考えてダビデ王と向き合いました。ですから、ここからソロモン王が生まれることができたのです。(『文鮮明先生御言選集』 40-97 1971.1.24)
 
 
 バテシバについては、わざとダビデに見初められるように行動したという説も一部にあります。
 
 しかし、ソロモンが後に王になったことから見て、み言にあるようにバテシバは、国や国のために戦う夫に忠節を尽くす烈女だったわけです。
 
 

まとめ

 
 上記の4人の女性たちは、エバが果たせなかった絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を取り戻し、その失敗を蕩減復帰するために神様から召命された女性たちでした。
 
 彼女たちは、それぞれ不義、遊女、婚前交渉、姦淫などを行ったことが聖書に記録されているのですが、これはアダムとエバの堕落が、男女の性にかかわる血統問題だったことを示していると言えます。
 
 彼女たちのエピソードは、聖書を読んだ人であれば、多くの人が「どうしてこの話が聖書に記録されているのか?」と思わざるを得ない内容です。
 
 人が書いたものであれば、自分やその一族にとって都合のよくない失敗談や恥ずかしい出来事などは書かないものです。
 
 そのように考えると、聖書は正に神様が人を通して記録された啓示であり、福音書に記録されたイエス様の系図は、間違いなく神様が著者マタイを通して働かれたことを証するものとなっています。
 
 

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