【今回深掘りする原理のみ言】
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(『原理講論』p47)

 

こちらの記事「神様が人間を創造された目的①宇宙の根本は父子関係」では、神様は人間の父だと説明しました。

心情関係から見たとき神様と人間は父子関係なのですが、さらに『原理講論』では、上記のように神様の定義を三つの属性で示しています。

これはそれぞれ人間の創造目的である三大祝福に該当するものですので、今回は神様の定義と三大祝福について深掘りします。

神様の定義と三大祝福

「中和的主体」の意味

『原理講論』に記載された神様の定義では、神様は次の三つの属性をもっていらっしゃるとしています。

1本性相と本形状の二性性相の中和的主体
2本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体
3被造世界に対しては性相的な男性格主体

ここに出てくる「中和的主体」という言葉について、その意味と概念を確認しておきましょう。

まず「中和」という言葉を国語辞典で調べると、次のような意味になっています。

性格や感情が、かたよらないで、正しいこと。調和のとれていること。程よくおだやかなこと。(国語大辞典 小学館)

 

一般的な意味としては、性格や感情が調和がとれておだやかな状態ということになります。

そして、文鮮明先生は「中和」という言葉の意味について、このように説明されています。

中和とは、中心的調和、あるいは中心的平和を意味します。(『祝福家庭と理想天国Ⅱ』「再会の心情」より 1977年9月11日)

 

この文鮮明先生のみ言から見たとき、『原理講論』で使われている「中和」という言葉には、一般的な意味に加えて「中心」という概念が含まれています。※1

このことから、『原理講論』では、中心で調和している、あるいは調和して中心となっているという意味で「中和的主体」と表現していると言うことができます。

 

※1このように、日本語として一般的に使われている言葉でも、通常の意味と『原理講論』で使われている意味に違いがあることがあります。

そのため、ある言葉に対して私たち日本人がもっている概念で「統一原理」を理解しようとすると、間違った原理観をもってしまうことがあるので注意が必要です。

三大祝福とは?

創造目的の三大祝福とは、人間が個性を完成すること(第一祝福)、子女を繁殖すること(第二祝福)、万物を主管すること(第三祝福)の三つを意味します。

その根拠となる聖句は、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創一・28)です。

これを見ると、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」の第二祝福と、「地を従わせよ」の第三祝福しかないように見えるかもしれません。

詳細はこちらの記事で解説していますが、イエス様は第一祝福の個性完成についてこのように語られています。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(マタイ5・48)

 

このイエス様のみ言について、『原理講論』では次のように説明しています。

マタイ福音書五章48節にイエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子達に言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復帰せよという意味であった。何故なら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性を帯びるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。(『原理講論』p139~40)

 

このように、人間が成長して神様のように完全な者になり、その男性と女性が夫婦となって家庭をつくり、その家庭を中心として万物世界を治めるというのが神様が人間に下さった三大祝福です。

それでは、神様の定義と人間に対する三大祝福の関連性について、順番に見ていきましょう。

本性相と本形状の二性性相の中和的主体と第一祝福

『原理講論』の44ページに「心を性相といい、体を形状と称するのである」とあるように、神様の本性相と本形状とは、人間における心と体のことです。

そして、第一祝福は個性を完成することですから、それは次のことを意味します。

神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。(『原理講論』p66)

 

「合性」という言葉は、一般的には、相性が良いの「相性」と同じような意味で使われますが、『原理講論』ではそれと異なる概念で使われています。

それでは、『原理講論』でいう「合性」とはどのような意味なのか、「合性」について語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

合性は実体が一つになることです、人として。人として一つになり、合徳し、合性して繁殖です。(『文鮮明先生御言選集』468-184 2004.9.14)

 

このみ言には「合徳」(神様を中心として完成した男性と女性が一つになること)という言葉が入っていますので、ここでは第二祝福の意味として「合性」の意味が語られています。

このことから、『原理講論』で言う「合性」とは、一つの性と一つの性が合わさることを意味しています。

「天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界」(『原理講論』p69)とあるように、個性完成とは、人間の性相である心と形状である体が神様を中心として一つになることを意味しているのです。

それでは、個性を完成した人間はどのようになるのか、『原理講論』から引用してみましょう。

神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントI三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。(『原理講論』p66)
個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。(『原理講論』p67)

 

このように、個性を完成した人間は神様の心情が完全に分かるため、罪を犯したり、堕落したりすることが絶対にありません。

このことからも、人間の堕落は未完成段階の成長期間に起きたと言えるわけです。

以上のように、人間が個性を完成することは、本性相と本形状の二性性相の中和的主体であられる神様と似るようになることを意味しています。

本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体と第二祝福

まず「本性相的男性」と「本形状的女性」とは何かを確認してみましょう。

本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。(『原理講論』p46~7)

 

以上のことから、神様の陽性と陰性を男性と女性と称し、また陽性と陰性は性相と形状の関係にあるので、神様の本陽性を「本性相的男性」、本陽性を「本形状的女性」と言うわけです。

そして、この「本性相的男性」と「本形状的女性」の実体として創造されたのが男性と女性であり、アダムとエバです。

このアダムとエバがそれぞれ個性を完成し、神様を中心として夫婦になり、そして子女を繁殖するようになるのです。これが第二祝福です。

神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。(『原理講論』p67)

 

このように、人間が子女を繁殖して家庭を完成することは、本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体であられる神様と似るようになることを意味しています。

被造世界に対しては性相的な男性格主体と第三祝福

『原理講論』では、神様が被造世界を創造された理由として、以下のように説明しています。

被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。(『原理講論』p47)

 

このように、被造世界は形状的な女性格対象として創造されたわけですが、その中で人間はどのような立場にいるのでしょうか?

人間もその被造世界の一部ですが、「被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである」(『原理講論』p72)とありますので、人間は万物に対して主体の立場になります。

このことを『原理講論』では、博物館を例にあげて説明されているので、その箇所を紹介します。

神は人間を創造されたのち、被造世界を主管せよ(創一・28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。つまり、博物館のすべての陳列品は、それらを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいて初めて、歴史的な遺物として存在し得るところの因縁的な関係が、それらの間で結ばれ、各々その存在の価値を表すことができるのである。もしも、そこに、その中心となる人間が存在しないとすれば、それらはいったいいかなる存在意義をもつであろうか。人間を中心とする被造世界の場合も、これと少しも変わるところはない。すなわち、人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類することによって初めて、それらはお互いに、合目的的な関係を結ぶことができるのである。(『原理講論』p59)

 

そして、「神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造された」(『原理講論』p129)となっています。

ですから、人間が万物に対する主管性を完成することによって神様の創造性に似た存在になるのです。これが第三祝福です。

神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない。(『原理講論』p68)

 

このように、人間が万物に対する主管性を完成することは、被造世界に対して性相的な男性格主体であられる神様と似るようになることを意味しています。

神様のように完全な者になることが三大祝福の完成

以上のように、神様の三つの属性と神様が人間に与えた三大祝福は、それぞれ対応しているわけです。

ですから、神様が人間に三大祝福を完成しなさいと言われたのは、「父である私のようになりなさい」ということなのです。

そして、ご自身の姿と似るようになった人間を見て神様は喜ばれるのですが、このことを『原理講論』では次のように説明しています。

神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。(『原理講論』p64)

 

文鮮明先生は、アダムとエバが三大祝福を完成することによってつくられる神の国、すなわち地上天国の様相について次のように語られています。

 アダムとエバが、心の中に神様をお迎えし、一体となって完成した上で、結婚して子女を生んで家庭を築いたならば、アダムとエバは外的で横的な実体の真の父母になり、神様は内的で縦的な実体の真の父母になったことでしょう。そうなれば、アダムとエバは、神様に内外両面で100パーセント立体的に似た立場に立つようになったのです。
 このように、神様に完全に似たアダムとエバが人類の真の父母になったならば、彼らの姿を通して、人類は、日常生活の中で神様の実体を認知して生きるようになっていたでしょう。(『文鮮明先生御言選集』521-11 2006.3.16)

 

神様を中心とする地上天国の人間たちは、三大祝福完成の生きたお手本であるアダムとエバを見ながら暮らしていたということですね。

そうなれば、三大祝福を完成して神様に似た完全な者になることは、容易に実現できることだったでしょう。

以上で、神様の定義と三大祝福の関連性についての説明を終ります。

 

※この記事の音声動画はこちら

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