【今回深掘りする原理のみ言】
主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。(『原理講論』p73)

 

『原理講論』では、善と悪の定義をこのように説明していますが、神様にとっての善悪と私たちにとっての一般的な善悪とはどのように違うのでしょうか?

私たちがよく陥りがちなのが、光と影ということで善悪と陽陰を混同してしまうことです。

今回は、「統一原理」から見た善と悪について深掘りし、三大祝福と善悪の基準について解説します。

創造本然の価値の基準は神様

最初に、創造本然の価値は何を基準として決まるのか、一般的な価値基準とどのように違うのかを確認しておきましょう。

 創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。
 それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない。(『原理講論』p70)

 

このように、「統一原理」では価値の基準は神様であり、絶対者である神様を中心とする価値基準も絶対的なものになるとしています。

これに対して一般的な価値観は、人や国、時代によって異なる相対的なものですよね。

『原理講論』では、創造本然の価値の例として花を挙げていますが、ここに赤いバラがあるとしましょう。

赤い色が好きな人やバラが好きな人はこれを見てきれいだと思いますが、赤やバラが好きでも嫌いでもない人は何も感じませんし、反対に嫌いな人は見向きもしないでしょう。

このように、人によってある対象の価値が異なるというのが一般的な価値観です。このことを『原理講論』では次のように説明しています。

今まで、ある対象の価値が絶対的なものとならず、相対的であったのは、その対象と、それに対する堕落人間との間になされる授受の関係が、神の創造理想を中心としたものでなく、サタン的な目的と欲望を中心としたものであったからである。 (『原理講論』p71)

「サタン的な目的と欲望」とは自分を中心とした目的と欲望のことで、神様以外のものを中心とする目的と欲望のことです。

創造本然の価値観は神様を中心とするものですから、創造本然の価値観をもつ人間は、この赤いバラを見るときも、自分の好みや価値観ではなく、神様を中心に見つめるようになります。

『原理講論』のp134に「人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造された」とあるように、完成した人間は神様の心情が分かります。

ですから、この赤いバラが私を喜ばせるためにこれ以上ないほどの精誠と時間をかけて造られたものだということが実感として分かるのです。

このように、神様を中心とすることによってある対象の価値が誰もが喜ぶことができる絶対的なものになる、というのが創造本然の価値観です。

「統一原理」から見た善悪と陽陰

何が善で何が悪かということも、神様を中心とする創造本然の価値基準によって決まります。

ここで一つ明確にしておかなければならないことがあるのですが、それは、善悪と陽陰の関係についてです。

よくあるのが光と影に例えて善と悪の関係性を語ることで、光があれば影があるというように、善があるから悪がある、天国があれば地獄もあると言う人もいます。

しかし、善と悪も、天国と地獄も、陽と陰の関係ではありません。では、善悪と陽陰はどのように違うのでしょうか?

それは、善と悪が対立関係なのに対して、陽と陰は相対関係であり、調和する関係だということです。

善悪と陽陰を同一視する考え方はいわゆる善悪二元論ですが、「統一原理」は絶対善のみの一元論であり、唯一論です。

「統一原理」で言う陽性と陰性の二性性相は、対立関係にあるのではなく、相対関係をもって一体化するものです。

つまり、同一の存在の中で共存できるのが陽陰なのに対して、同一の存在の中で共存できないのが善悪です。

言い換えると、陽と陰は一つの目的を共有することができますが、善と悪は異なる目的を指向するものです。

この善と悪の関係について、文鮮明先生は次のように語られています。

善と悪は、同時に出発することはできません。悪が東に行けば、善は西に行かなければならず、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはいけないのです。善と悪は反対です。(『文鮮明先生御言選集』47-247 1971.8.29)

 

『原理講論』では、目的性から見た善と悪について、以下のように説明されています。

アダムとエバが、彼らに賦与された愛をもって、神を中心として四位基台を造成したなら、彼らは善の世界をつくることができたはずである。しかし、彼らはこの目的に反する愛をもって、サタンを中心とする四位基台を造成したので、悪の世界をつくってしまったのである。それゆえに、善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。(『原理講論』p118)

 

1台のバスが同時に前方と後方に進むことができるでしょうか?

方向が違う所に行こうとする人たちが同じバスに乗っていたら、争いが起きてしまいます。

目的地が同じ方向であれば、男性でも女性でも、おとなでも子供でも、一緒に同じバスに乗ることができます。

この同じバスに行き先が異なる人が乗っているような状態にいるのが堕落した人間であるとして、『原理講論』では次のように説明しています。

善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。(『原理講論』p22)

 

ですから、この人間の矛盾性を嘆いた使徒パウロは、次のように語っているのです。

わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。(ロマ七・22~24)

 

もしこの人間の矛盾性をもともとあったものだと考えてしまうと、今の世の中の争いやさまざまな葛藤や矛盾は、いつまでたってもなくならないことになってしまいます。

文鮮明先生は、善悪二元論について次のように語られています。

サタンが神様と同じように最初から存在していたとすれば、今日、堕落した私たち人間が、そのサタンに勝利して天国に行くということは、これ以上ないほど難しいことです。そのような立場に立てば、二元論になるのです。そのようになれば、目的が二つになります。相反する目的が二つになるので、一つに統一するということは、いつまでたっても不可能です。(『文鮮明先生御言選集』53-328 1972.3.6)

 

ですから、「統一原理」では、もともと善の存在だった人間が堕落して悪が存在するようになったとしているのです。

三大祝福は善悪の基準になる

善と悪は目的によって決まるということは、私たち人間の行いとその結果の善悪も、神様が人間を創造された目的を基準として決まるということになります。

神様の創造目的は人間が三大祝福を完成し、幸福に暮らす姿を見て喜ぶことですから、三大祝福を完成するための行為が善となり、それを妨げる行為を悪というわけです。

【第一祝福:個性完成】

神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。(『原理講論』p73~4)

【第二祝福:子女繁殖】
神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。(『原理講論』p74)

【第三祝福:万物主管】
個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。(『原理講論』p74)

このように、私たち人間の行動の善悪は、神様を中心とする三大祝福を実現する方向に進むのか否かによって決まるのです。

絶対者である神様は独裁者なのか?

『原理講論』のp541には「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである」とあります。

人間が堕落することによって、神様にとっての善悪と人間にとっての善悪が異なるようになってしまいました。

ですから、三大祝福を知らない人にとって、神様の創造目的を中心として善悪を判断することは大変難しいと言えます。

さらに、サタンおよびその勢力が判断を惑わそうと常に攻撃してくるのですから、なおさらです。

それでは、ここで善と悪に関する文鮮明先生のみ言を一つ紹介します。

 「信仰する人は絶対的に神様を信じよ! 絶対的に神様に帰依せよ! 神様を中心として完全に立ちなさい!」というのが信仰の第一条です。いかなる宗教でも、これが信仰する人にとっての第一条です。その次に何かというと、神様が立てた法度と完全に一つになりなさいということです。このような観点から見れば、神様は独裁者のようだという思いがすぐに出てきます。しかし、そうではないということを知らなければなりません。
 それでは、神様を中心として完全に一つになりなさいということ、原理と一つになりなさいということは誰のためなのでしょうか。それは神様のためではなく、私のためです。観点が違うのです。
 今日の世の中で「独裁者」と言えば、国民をすべて掌握し、自分を中心として一つになれと言いながら、自分のために国民を利用する人のことです。自国の国民の目的のためではなく、自分の目的のために国民を利用し、自分の目的のために国民に苦痛を与えるとき、そこにおいて独裁というものが成立するのです。
 しかし、いくら強く主管したとしても、彼をより立派にし、輝かせるために自分が加担して苦労させればさせるほど、それは条件になるというのです。
 例えば、父母が愛する子供の生活に朝も夜もすべて干渉し、勉強をしなければ、勉強しなさいとむち打って強制的にさせたとしても、それは父母の道のためではありません。子供の将来のために父母自身が困難に耐え、犠牲になりながらそのようなことをするのです。その時は分かりませんが、いつかそれが自分の栄光のためのものとなり、祝福の起源になることが分かるようになります。子供が成功したとき、「ああ、私の両親は独裁者だった」と言うでしょうか。「ああ、本当に私のためによくしてくださった」と言うのです。
 それでは悪とは何でしょうか。善と悪はどこで分かれるのですか。行動は同じようでも内容が違うときは天地の差です。むち打つとしても、誰のために打つのかが問題です。彼らのために、彼らの将来と彼らの祝福のために打つときは善になりますが、自分のために、自分の利益のために打つときは悪になるというのです。(『文鮮明先生御言選集』87-122 1976.5.23)

 

神様の創造目的である三大祝福を中心として善悪が決定するのは、どこまでも私たち人間のためであり、私たちが真の幸福を享受するためなのです。

 

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