【今回深掘りする原理のみ言】
心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然の価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。(『原理講論』p82)

 

【前編】では、正しい「本体論」をもつことの重要性と、「本体論」の曖昧性が宗教衰退の原因であることを解説しました。

今回は、従来の「本体論」とその問題点、そして「統一原理」の「本体論」である「統一思想」の「原相論」の要点をご紹介します。

また、なぜ神様が人格的な存在と言えるのかについて説明してくださっている文鮮明先生のみ言を掲載します。

従来の「本体論」とその問題点

宗教の教理や哲学の思想は、人間社会の現実問題を解決できる方法を提示できなければ、ただの机上の空論になってしまいます。

「統一原理」の観点、及び人間社会の現実問題を解決できるか否かという観点から、従来ある主な「本体論」の問題点を探ってみましょう。

(1)精神中心の「本体論」

精神を中心とする「本体論」としては、アウグスティヌス(354~430)とトマス・アクィナス(1224~1274)の神観があります。

アウグスティヌスは、神は人間の精神と同じ非物体的な存在であり、精神的な実体であるとしました。

また、トマス・アクィナスは、神は根本原因だが、それは質料的な意味ではなく、最高の作用因(※)という意味においてであるとし、神は最高の作用因、最高の現実態であり、したがって完全な存在であると考えました。

※作用因とは
アリストテレスの区別した四原因の一つ。たとえば家を建てる場合、大工の作業のような、現実に作用する原因をいう。[広辞苑 第七版]

そして、両者とも、神は無から質料を生み出し、この世界を創造したと主張したのです。

このような神観の問題点としては、第一に、神様を精神だけの存在とし、物質の根源を無としたこと、第二に、神様が世界を創造した動機と目的を明らかにしなかったことが挙げられます。

まず第一の問題点として、神様を精神だけの存在としたことから、物質的な現実の世界を軽視し、精神的世界、霊的な世界のみを重視する傾向をもつようになってしまいました。

そのため、キリスト教では、死後の世界での救いを重視する救済観が主流となり、信仰の上では物質生活を軽視するようになっていきます。

ところが、実際のキリスト教徒たちの生活は、現実の物質問題を追求せざるをえないため、信仰生活と現実生活の間に矛盾性を抱えるようになってしまったのです。

このようなところに宗教が衰退した主要な原因があるとして、『原理講論』には次のように説明されています。

 心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。
 しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へとひきずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。
 このような矛盾性を内包した修道生活の破壊、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。(『原理講論』p28)

 

第二の問題点としては、完全で善の存在である神様がつくった世界になぜ悪が存在するのか、という批判に対して明確な反論ができないことが挙げられます。

それは、神様が人間を中心とする被造世界を創造した動機と目的を明らかにしなかったからです。

「善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉」(『原理講論』p118)ですから、神様の創造目的が解明されなければ、なぜ悪が存在するのかについて、明確に説明できないのです。

(2)法則中心の「本体論」

法則を中心のとする「本体論」としては、南宋の朱子によって大成された理気説があります。

理気説とは、万物の生成を陰陽の気の働きによるとしながら、その働きの根拠に太極としての理があるとする理気二元論のことです。

そして、朱子は、理と気のうち、理がより本質的なものであるとし、理は天地の法則であると主張しました。

そのため、現実の生活では、この天地の法則に合わせることを重視し、社会の調和や秩序の維持を最優先させるようになりました。

しかし、すべてを天地の法則にゆだねようとするあまり、自然や社会の変化や混乱に対して傍観する態度をとる傾向が生じたのです。

このように理気説は、社会の現状を維持しようとし、改革や発展といった人間の創造的、主管的な行いを軽視するので、現実の問題を解決できないという問題点があります。

「統一原理」の観点から言うと、理気説は神様の責任分担と人間の責任分担が合わさって物事が成就することが分からなかったのです。

(3)概念(ロゴス)中心の「本体論」

概念(ロゴス)を中心とする「本体論」としては、ヘーゲルが提唱した「絶対精神」という思想があります。

ヘーゲルは、宇宙の根源である「絶対精神」は概念(ロゴス)であり、この概念が矛盾を媒介して正反合の弁証法的発展形式に従って自己発展していくと考えました。

つまり、概念が自己発展して理念の段階へ、そして理念が自己否定して自然として現われ、さらに人間として現われるようになり、この人間を通して理念が最終的に「絶対精神」として自己実現するという考え方です。

そして、人類の歴史は、この「絶対精神」が自己実現していく過程であると主張しました。

このヘーゲルの「本体論」によれば、人間の社会は弁証法的発展形式に従って必然的に合理的な姿になるはずです。

ですから、現実の社会に矛盾や非合理があっても、すべて必然の法則に任せて傍観してしまう立場に立ちやすいという傾向があるのです。

この点では、人間の責任分担という観点が欠けている理気説と同様の問題点があると言えます。

そして、自然を理念が自己否定して現われたものとみるヘーゲルの自然観は、一つの汎神論(自然を神そのものの現れとして両者を区別しない見方)です。

このような思想は、無神論的なヒューマニズムや唯物論にたやすく転化しやすい素地をもっているのです。

さらに、創造を正反合の弁証法による自己発展と見るヘーゲルの思想は、矛盾を発展の契機と考えるため、マルクス主義のような闘争理論を生み出す素地があると言えます。

ヘーゲルがこのように考えた理由の一つとして、ヨハネ福音書の聖句解釈があるといわれていますが、その聖句がこちらです。

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ福音書12章24節)

この聖句にある一粒の麦の死をヘーゲルは自己否定ととらえ、それによって発展すると考えるようになったというわけです。

このようなヘーゲルの思想がどうして生まれるようになったのかについて、文鮮明先生は次のように語られています。

 ヘーゲルの弁証法は間違っています。ヘーゲルの弁証法に出てくる「闘争」という概念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が闘っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神様が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。
 人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることが分かりますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが「堕落」を考えられなかったことが根本的な過ちです。(中略)
 元来ヘーゲルの弁証法は現在の人間を堕落していない立場で考えました。しかし事実は正反対です。人間が堕落したことによって良心と肉心の対立と闘争が始まったのです。元来創造本然の人間の内部には矛盾性はなかったのです。
 ヘーゲルは「生活の場」が矛盾を懐胎していると見ました。それが日常のことにすべて適応して、宗教は異常なものであると考えたのです。しかし、ヘーゲルの考えと彼が立てた理論は根本的に間違っています。堕落した結果の人間を中心として、それが創造本然の人間であるとして考えた点が間違いだったのです。(『み旨と世界』「信仰の三子女と本然の家庭基盤」より 1983.5.13)

 

このように、人間が堕落したという観点がなかったことから、ヘーゲルは容易に無神論に陥りやすい思想をもつようになったということです。

人類始祖アダムとエバが堕落した結果、その子孫たちは原罪をもって生まれるようになったという教えがあるのは、あらゆる宗教の中でキリスト教だけです。

これは、原罪のないメシヤとして降臨されたイエス様だったからこそ、神様が人間の父であり、その関係を失った堕落人間に原罪があることを明らかにできたのです。

ですから、原罪を認識したり、人間の内部の矛盾性を堕落の結果と認識することは、堕落した人間にはとても難しいと言えます。

(4)意志中心の「本体論」

意志を中心とする「本体論」としては、ショーペンハウアーの「盲目的な生への意志」やニーチェの「権力への意志」といった思想があります。

両者の思想はどちらも世界の本質を意志としていますが、ショーペンハウアーは生に対して悲観的態度をとり、逆にニーチェは生に対して肯定的態度をとりました。

ショーペンハウアーの思想から必然的に厭世主義(ペシミズム)が生まれるようになりました。

そして、ニーチェの思想からは、力によって現実の問題を解決する考え方が生まれました。

この思想は、のちにヒットラーやムッソリーニなどから、権力維持のために利用されることになったのです。

ショーペンハウアーもニーチェも、この世界は本質的に「苦の世界」であるとし、ニーチェは「神は死んだ」と宣言してキリスト教を完全に否定しました。

このような思想の問題点は、この苦悩の世界が創造本然の世界ではなく、偽りの神が支配する世界であることが分からず、真の神まで否定してしまったことにあります。

彼らがこのような思想をもつようになったのは、ヘーゲルと同じように堕落観念の欠如にあると言うことができます。

(5)物質中心の「本体論」

物質を中心とする「本体論」としては、カール・マルクスの「弁証法的唯物論」があります。

「弁証法的唯物論」は、世界の本質は物資であり、事物の中にある矛盾の闘争によって世界が発展するとしています。

そのため、人間社会の発展や変革は、階級闘争によって暴力的かつ物質的な生産関係を変革することで実現されると主張するのです。

他の「本体論」と同じく、「弁証法的唯物論」も人間社会の現実問題を解決するための一つの方案でした。

しかし、マルクス主義に基づいて立てられた共産主義の国々は崩壊したため、「弁証法的唯物論」による現実問題の解決は失敗してしまいました。

『原理講論』には、マルクスの「弁証法的唯物論」について次のように記述されています。

 神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。(中略)
 なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。(『原理講論』p554)

 

「弁証法的唯物論」は、無条件に神様の存在を否定し、暴力による革命を主張したところに問題点があると言えます。

それでは次に、「統一思想」が提唱する「本体論」について確認してみることにしましょう。

「統一思想」の「本体論」

「統一思想」の「本体論」は「原相論」と称し、神様の最も核心となる属性は「心情」であるとしています。

「心情」とは、愛することによって喜ぼうとする情的な衝動のことを言います。

この喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする情的な衝動によって支えられ、愛の衝動は愛さずにはいられない抑えがたい願望を意味します。

そのため、心情の神様は、愛する対象として人間を中心とする被造世界を創造せざるを得なかったのです。

ここにこれまでの宗教や哲学が明確に解明できなかった神様の創造の動機と目的があります。

その「心情」を中心として内的性相(知・情・意)と内的形状(観念・概念・原則・数理)が授受作用し、さらに性相と形状(質料)が授受作用を行うことで神様は存在しています。

そして、「心情」によって目的が立てられることにより、その目的を中心に内的性相と内的形状、さらに性相と形状が授受作用することによって創造が行われるのです。

このような「統一思想」の「原相論」により、従来の「本体論」には以下のような問題点があることが明確になりました。

■神様の属性の実相を正しく把握できていないこと

■属性相互間の関係性を正確にとらえることができていないこと

従来の「本体論」は、「統一思想」の「原相論」で明らかにされた神様の属性の一部をとらえ、それを宇宙の根本としていたのです。

したがって、「統一原理」と「統一思想」により、あらゆる宗教の教理と哲学の思想が統合されうると言うことができます。

それでは最後に、なぜ神様が人格的な存在と言えるのかについて説明された文鮮明先生のみ言を紹介します。

第一原因である神様が人格的な存在だと言える理由

(1)成長、発展のためには力が加えられなければならない

 今日、皆さんは進化論を適用しますが、アメーバならアメーバが繁殖するのに、アメーバよりも大きいものが生じるためには、つまり現在のものよりも大きくなるためには、別の力が加えられなければなりません。
 それでは、アメーバ自体が力をプラスしながら発展させることができますか。アメーバ自体が、そのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかということです。少しでも上がっていき、もっと大きなものになれるとすれば、ここにもっと大きな力をプラスしなければならないのです。
 それでは、これ自体に力を創造してプラスできる能力がないのに、どこからどうやって(力が)来るのですか。そのような論理が成立しますか。
 ミスター・金ならばミスター・金、ミスター・朴ならばミスター・朴がいる時、「私が、モハメッド・アリのような人を問題なく倒せる」と言うことができますか。そのようにしようとすれば、ここにもっと大きな力が加わらなくてはなりません。そうでなくては、どんなにやってみても限界線を越えられないのです。ミスター・朴が「突然変異によって私の力が強くなれば、モハメッド・アリを倒せる」と考えたからといって、それができますか。
 そこには、何か注射を打つとか、人参エキスを飲むとかして、力を加えることのできる動機を整えておいてこそ、爆発できるダイナマイトを仕掛けておいてこそ、ドカンと粉砕できますが、それ自体としては、より大きな力をプラスさせることができないので不可能なのです。ですから、それ自体はより次元の高い前進ができないという結論は、理論的な結論です。(『文鮮明先生御言選集』89-73 1976.7.11)

(2)一つの方向性があるのは目的があるため

 その次には、これが発展するとき、低いところに向かってもいいのに、なぜ高いところにだけ向かうのですか。どうして方向性をもっているのかというのです。東西南北の360度があるのに、一つの高い次元に向かう方向性をどのようにしてもつようになったのかということです。方向は誰が提示するのですか? 「私が方向も定め、力も加えることができる」と言える存在が物質にあるでしょうか。物質がそのようにすることは不可能です。
 そして、存在するために生じるところには、目的なしに生じるということはないのです。目的なしに生じるということはあり得ません。なぜ方向があるのかと言えば、目的があるところに方向性があるのであって、目的のないところには方向性がないという結論が出るのです。
 皆さんはけさ、明け方にベルベディアに向かって来たのですが、なぜベルベディアに来たのでしょうか。「ただその方向に行くから行くのだ」、そうですか。先生のみ言を聞くという目的があったために、ベルベディアに訪ねて来ました。方向があるということは、目的があるからだという、そのような結論を知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』89-73 1976.7.11)

(3)目的を提示する原因的な存在が神様

 さあそれでは、アメーバにアメーバ自身が持っている以上の力を投入させることのできる能力と、方向をもつことのできる能力、そして目的を提示する能力があったか、なかったかというのです。どうですか。それは不可能です。目的のないそのような方向性を提示する弁証法的論理はあり得ないのです。目的観がなければ、その論理は完全に崩壊します。
 ですから、それはそれ自体ではできないので、それは何かが加えられた存在であり、投入された存在です。このような観点から見る時、このような動機的存在がいるという理論は妥当な理論であり、そのような理論を立てることは科学的であると言うことができるのです。(中略)
 このようなあらゆる作用の原因的な存在であり、このような力を加える原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在がいるということは、不可避の結論です。我々はその方を人格的な神様であると言うのです。人格的な神様です。
 それはなぜかと言えば、必ず動機を中心として方向をもって目的を提示するために、それが一つの確実な立場であるので、人格的な神様であると言うのです。ですから、原因を通して方向を経て、目的の世界に出て行くのです。そのような観点から見るとき、このような全体の原因的な存在が神様だということです。(『文鮮明先生御言選集』89-73~75 1976.7.11)
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