【今回深掘りする原理のみ言】
すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。(『原理講論』p65)

 

私見ですが、全体目的と個体目的の関係は、公転と自転の関係と同様の関係性にあると考えています。

地球の公転と自転のどちらが欠けても地球上で正常な生命活動ができなくなるように、全体目的と個体目的のどちらが欠けても、私たちの霊的な命は正常な成長ができなくなります。

今回は、全体目的と個体目的について、地球の公転と自転の観点から深掘りしてみたいと思います。

地球の公転と自転に支えられている生命活動

最初に、『原理講論』の中で、惑星の公転と自転について記述されている箇所を確認してみましょう。

太陽を主体とするすべての惑星は、太陽の対象となり、それと相対基準を造成して、太陽を中心として、それと対応して、遠心力と求心力による授受作用をするがゆえに、それらはみな、公転の円形運動をするようになる。このような円形運動をする太陽と惑星などは、合性一体化して太陽系をつくるのである。しかるに、二性性相の複合体である地球が自転するだけでなく、太陽や、太陽を中心とした他の惑星なども、また二性性相の複合体であるので、絶え間なく自転している。(『原理講論』p56)

 

この箇所は、「統一原理」の四位基台という概念が、被造世界の中で具体的にどのような状態で展開されているのか、その例の一つとして太陽系が紹介されているところです。

この主体を中心に対象が円形運動をしつつ、対象自体も回転するという原則は、素粒子の世界でも同様です。

地球も太陽の周りを公転しながら、同時に地軸を中心に自転しているわけですが、地球が公転と自転をしていなければ、地球上で生物が生きていくのはとても難しいでしょう。

もし地球が太陽を中心とする公転軌道から外れて、太陽系の外に出てしまったらどうなるでしょうか?

光も熱もない、真っ暗闇で極寒の地球になってしまい、あらゆる生物は死滅するか、活動を停止してしまうでしょう。

また、地球の自転が止まってしまったら、地球の半分はずっと昼で酷暑、半分はずっと夜で極寒という状態になります。

生物は昼と夜の温度差によって生命エネルギーのバイオリズムを維持しているところがありますから、このような環境では正常な生命活動はできないでしょう。

このように、地球が公転と自転をしているからこそ、地球上の生物は生きていくことができるわけです。

公転と自転から見た堕落と復帰

それでは、次に公転と自転という観点から、人間の堕落と復帰について考えてみましょう。

文鮮明先生は、太陽と地球の関係を心と体の関係に例えて次のように説明されています。

 今日私たちが生きている被造世界を見てみてください。そこには二種類の軸があります。それは見える軸と見えない軸を意味します。地球が太陽の周囲を公転しながらも、自転を継続するのと同じように、一つの主体を中心として回っている対象も自転しているということです。
 心と体の関係を考えてみれば簡単に理解することができます。体が心の命令に従って動く公転をしながら、体自体も、自ら存在して作用するための自転運動をしているのです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同じように、今日の堕落人間を救う復帰の道においても、この原則は例外なく適用されるのです。(『文鮮明先生御言選集』502-190 2005.7.29)

 

それでは、太陽を神様、地球を人間に例えて、人間の堕落と復帰について見てみましょう。

堕落というのは神様との心情関係が切れ、神様の心情はもちろん、その存在さえも分からなくなってしまったことです。

ちょうど地球が太陽を中心とする公転軌道を外れ、宇宙空間を自転だけしながらさ迷っているような状態です。

次に、堕落した状態から本然の位置と状態に復帰するというのは、宇宙空間をさ迷っていた地球が、太陽系に戻って再び太陽を中心として公転し、地軸を中心として自転し始めるのと同じです。

この場合、本然の位置に復帰するのが公転軌道に戻ること、本然の状態に復帰するのが自転することになります。

公転と自転から見た全体目的と個体目的

『原理講論』に「全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない」(p65)とあるように、本来この全体目的と個体目的は、矛盾することなく調和するようになっています。

それは、公転と自転の関係と同じように、どちらが欠けてもいけませんし、どちらかに偏りすぎてもいけません。

文鮮明先生は、全体目的と個体目的の二重目的について、次のような例えで説明されています。

人間ならば自分一個人としての目的があります。結婚もしなければならないし、子供ももたなければならないし、御飯も食べなければなりません。それが必要です。しかし、その他に全体的な目的もあるのです。例えば、日本の国民なら国のための目的もあります。そして日本の国ならば、日本自体のための目的と世界のための目的という二重目的があるのです。(1965.2.8)

 

このように、人間を含めてすべての存在は二重目的をもっていて、地球の公転に相当するのが全体的な目的で、地球の自転に相当するのが個体的な目的です。

そして、「統一原理」で言う被造世界の全体目的とは、創造目的にあるように、神様とそのみ旨を中心として生き、神様の喜びの対象になることです。

さきほど、地球が公転と自転をしているからこそ、地球上の生物が生きていくことができると言いました。

それと同じように、私たちも神様を中心とする全体目的と、自分を中心とする個体目的が調和するように生きて、はじめて神様の愛を体感することができ、そこからあらゆる生命力を得ることができるのです。

例えば、地球上にいる人間から見ると、太陽の方が私たちの周りをまわっているように見えるのは、地球が公転と自転をしているからですよね。

そして、太陽から光と熱でエネルギーを供給され、そのエネルギーが何段階にも渡って変換されながら、私たちの生命と生活が維持されています。

神様と人間の関係も同じで、私たちが神様のみ旨に従って歩み、かつそれを中心として心と体が一つになって生きるようになると、神様が私たちを愛してくださっていることが実感できるようになるのです。

それは、実際には地球にいる私たちの方が太陽の周りをまわっているのに、太陽の方が私たちの周りをまわっているように見えるのと似ています。

神様のみ旨のために生き、同時に自分の成長と復帰にも努力してみると、いろいろな出会い、出来事を通じて、神様と霊界が私を協助してくださっていることが分かるようになります。

もし全体目的ばかりに偏ってしまったら?

堕落した人間は全体目的を忘れ、個体目的を中心としてだけ生きているので、神様の愛を体恤することができません。

しかし、たとえ神様を中心とする本然の位置に復帰して全体目的を中心に生きるようになったとしても、もし個体目的に対して何もしなければ、それはちょうど公転だけして自転していない地球と同じ状態です。

つまり、自転していない地球上では正常な生命活動ができず、生命が繁殖することもできないように、神様の愛と生命が宿ることのできない私になってしまいます。

それは、心は神様の光と暖かさに満たされているのに、体は暗闇と寒気で覆われたままの状態です。

この状態は「統一原理」で言えば霊的に救われただけの立場で、このことをパウロは次のように語って嘆いています。

わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。(ロマ七・22~24)

 

私たちは、全体目的として地上に理想天国をつくることに貢献しなければなりません。

それと同じように大切なことは、個体目的としてその理想天国に入ることができる自分になることです。

全体目的として天国をつくると同時に、個体目的としてその天国に入れる自分になっていなければなりません。

なぜなら、天国をつくることに大きく貢献した人が、その天国に入れないことほど、神様を悲しませることはないからです。

このことについて文鮮明先生は、次のように明言されています。

明らかなことは、天国は私から成し遂げられるのです。いくら相対的天国が完備されていたとしても、その天国に招かれたときに応じることができる私自身になることができていなければ、その天国とは関係がなくなるのです。(『文鮮明先生御言選集』46-74 1971.7.25)

 

自分を中心とした私的な動機と目的は悪ですが、自分自身を成長させることは神様のみ旨であり善です。

自分の成長と完成を私的なものと考えるのは、善悪二元論から来る間違った考え方です。

自分の成長と完成に対しても、神様と同じ立場に立って公的なものと考え、きちんと自分自身で責任をもっていく必要があるのです。

私はアベルの立場か、カインの立場か

私が伝道され信仰生活を始めた初期のころ、とても悩んでいたことを一つ紹介します。

それはどんな悩みだったかというと、自分はアベルの立場なのか、カインの立場なのか、という問題でした。

というのは、教会では自分が所属する部署の責任者がアベルで、自分がカインの立場と言われました。

しかし、『原理講論』や聖書では、カインは兄でアベルは弟です。それで、「年長の責任者がアベルで、年下の私がカインなのはなぜだろう?」と思ったわけです。

これはいわゆるみ言と現実が不一致の状況で、こちらの「アダムはなぜ堕落したのか?」の記事でも説明しましたが、信仰が大きく揺らいでしまう状態です。

かなり長い期間にわたって、悶々としながら答えを祈り求めていたのですが、最終的に与えられた答えは、「全体目的と個体目的の違いである」ということでした。

どういうことかというと、全体目的を中心とすれば私はカインの立場で、個体目的を中心とすれば私はアベルの立場だということです。

どこかの組織に所属していれば、その組織の目的があり、これは全体目的ですし、同時に私個人の目的もあってこれは個体目的です。

組織においては、その責任者のアベルに対して、私はカインとして一つになり、その全体目的を達成しなければなりません。

一方で、私個人の復帰摂理においては、自分がアベルの立場であり、カインから長子権復帰してサタンを分別し、自分の個体目的を達成しなければなりません。

ですから、私個人の復帰摂理から見れば、組織上のアベルが長子権復帰すべきカインになります。

組織のアベルは、所属する組織が変われば違う人になりますが、自分の復帰路程では、自分自身が生涯ずっとアベルの立場になるのです。

以上のことから、信仰生活では、全体目的でカインとして堕落性を脱ぐための条件を立てつつ、同時に個体目的でアベルとして長子権復帰路程を歩んでいるというわけです。

全体目的と個体目的の二重目的のように、復帰摂理路程を歩む私には、アベルとカインの両方の立場があるということですね。

家庭での所有形態は全体目的と個体目的が調和

人間が堕落することによって全体目的と個体目的の調和がくずれ、どちらかが犠牲になってしまっているのが、今私たちが生きている世界です。

そんな中でも、全体目的と個体目的が調和している例があるのですが、それは家庭での所有形態です。

文鮮明先生は、この全体目的と個体目的の調和について、家庭を例にあげて次のように語られています。

家庭におけるすべての財産は、たとえ法的には父母の名義になっていたとしても、実質的には父母と子女、すなわち家族全員の共同所有になっています。それと同時に、家族の個々人は、各々部屋と衣類、小遣いをもつようになります。このように、家庭においては、全体目的と個体目的が調和を成すようになっています。このような愛が基盤となった家庭の理想的な所有形態が社会、国家、世界へ拡大されたものが、理想社会の所有形態です。(『文鮮明先生御言選集』271-76 1995.8.22)

 

さらに、愛を中心とした家庭の所有形態が社会全体に広がった本然の理想世界の実像を説明してくださっています。

 神様の愛を完成した人間が成し遂げる理想世界においては、全体目的と個体目的が自然に調和します。人間は、欲望もあり、愛の自律性ももっているので、個人所有、個体目的が許されています。だからといって、無限定な個人所有、または全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって自己の分限に合った所有量をもつようになるのです。
 特に、真の愛を中心として、万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺としているため、過分な欲望と不正はあり得ません。同時に、全体目的に反する地域や国家利益が強調されることもなく、また経済活動の目標が利潤の追求ではなく全体の福祉に焦点が集まるのです。(『文鮮明先生御言選集』271-76 1995.8.22)

 

さきほどの「天国は私から成し遂げられるのです」(『文鮮明先生御言選集』46-74 1971.7.25)という文鮮明先生のみ言のように、まず私自身が全体目的と個体目的を調和させ、それを家庭、氏族へと広げていかなければなりません。

※この記事の音声動画はこちら

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