【今回深掘りする原理のみ言】
 アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は、そのまま肉的堕落となってしまったのである。(『原理講論』p110)

 

先回の記事(アダムとエバの堕落②)では、エバが霊的に堕落する過程について深掘りしました。

今回はアダムとエバの肉的堕落について深掘りするのですが、旧約聖書の「創世記」には、その時の詳細なやり取りが記録されていません。

神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムがなぜ堕落してしまったのか、この点を探っていくと、サタンの戦略が見えてきます。

エバがアダムを誘惑した動機

まず、エバがアダムを誘惑して肉的堕落してしまったその動機から確認してみます。

 既に述べたように、エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。(『原理講論』p110)

 

このように、肉的堕落の動機は「堕落によって生じた恐怖心から逃れたい」というものでした。

人間の第一の創造本性は、神様と同じ立場に立って考えることができるというものです。

しかし、霊的に堕落してしまったエバは、すでに自分を中心として考えるようになっていました。

そのため、霊的堕落に対する罪の意識から生じた恐怖心から、一刻も早く逃れたいという思いで心が一杯になってしまったのです。

この「恐怖心」自体は善でも悪でもないのですが、私たちが本然の立場に復帰するためにとても重要なことですので、次に「恐怖心」について理解しておきましょう。

天使長ルーシェルが抱いていた恐怖心

『原理講論』には、霊的堕落によってエバが天使長から恐怖心を相続したことは記述されているのですが、霊的に堕落する以前の天使長の恐怖心については明記されていません。

しかし、『原理原本』には天使長が抱いていた恐怖心について次のように記述されています。

 エバを神が愛されたため、その愛を奪うため、エバの愛の実体である貞操を所有する工作を始めると、天使長ルーシェルは、神が許諾しない行動を始めたため、それ自体の心には恐怖心と原理的呵責があった。恐怖心をもってエバの愛を所有しようとしてエバの貞操を蹂躙すると、ルーシェルの心にある恐怖心と同時に、天使長の知恵が、エバと愛の一体を成すことによって、エバは天使長の知恵の所有者になると同時に、恐怖の心に刺激を受けたのである。(『原理原本』「堕落論」より 注:翻訳は当ブログ管理者)

 

天使長は、神様に許されていないことを自分がやろうとしていることに対して、すでに恐怖心を抱いていたのです。

この恐怖心を抱いたままエバを誘惑したため、非原理的な愛によって一体となってしまったエバにこの恐怖心が相続されてしまったわけです。

堕落によって否定的な情緒となった恐怖心

しかし、この恐怖心というものは本来、良心作用によって生じるもので、原理軌道から外れないよう警告してくれるものでした。

私たちの日常生活でも、恐怖心があるからこそ、危険な場所を避けたり、命にかかわるような危険な行為を踏みとどまることができます。

もしまったく恐怖心がなければ、私たちはすぐに死んでしまうでしょう。このことについて八大教材教本の『世界経典』の一部を引用します。

 神様への畏れは、肯定的な情緒である。このような情緒が私たちに、悪いことから遠ざけ、正しいことをするように主導するからである。神様を畏れない人は、神様の処罰を恐れないので、簡単に罪を犯す性向をもつようになる。そして、そのような人は、神様の実在を否定し、自分たちの行動を正当化する。 時として彼らは、宗教的道徳規範は個人の自由のために除去されなければならない足かせと同じだという現代理論を論じながら、自分たちを合理化する。しかし、文鮮明先生は、堕落によって恐怖自体が否定的な情緒として定着したのであり、恐怖が人間の考えを支配し始めるとき、人間はあらゆる種類の自己中心的行動を表すようになると語られる。(『世界経典』p1050「神様に対する畏れ」序文より)

 

このように、本来は肯定的な情緒であった恐怖心が、堕落によって否定的な情緒になってしまったのです。

エバに誘惑されたときのアダムの状況

それでは、天使長から恐怖心を相続し、その恐怖心から逃れたいという思いで心が一杯だったエバから見て、アダムはどのような存在に見えたのでしょうか?

 不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。(『原理講論』p110~11)

 

しかし、いくらエバから誘惑されても、アダムは神様から直接戒めのみ言を聞いていたはずです。

罪のない純真無垢だったアダムがどうして神様のみ言に背いてしまったのか、そのときの状況について文鮮明先生は次のように説明されています。

 堕落したエバはアダムに対して、「善悪の実を取って食べなさい、取って食べなさい」と言いました。それはどういうことですか。「愛し合おう、愛し合おう」ということです。
それでは、神様の「取って食べてはいけない」という戒めを知っているアダムは、エバが「取って食べなさい」と言ってきたときに何と言ったでしょうか。「ああ、それはいけない!」と言いましたが、そのように言いながらも取って食べてしまったのです。
 エバは目を見開いて「取って食べなさい」と言い、アダムは「嫌だ、嫌だ」と言ったのですが、エバがすがりついて哀願してくるので、見るに見かねてしかたなく「好きなようにしなさい」と言ってしまったのです。(『文鮮明先生御言選集』265-36 1994.11.20)

 

あまりにしつこくエバが哀願してきたため、しかたなくアダムはエバの言うとおりにしてしまったということですが、この点をさらに深掘りしてみましょう。

アダムはなぜ堕落してしまったのか?

それでは、なぜアダムは誘惑してくるエバに「好きなようにしなさい」と言ってしまったのでしょうか?

先ほど紹介した文鮮明先生のみ言の続きには、次のようにあります。

 アダムは「嫌だ」と言い、エバは「食べましょう」と言い合いながら争いが起きました。そこから争いが起き、そこで争いの種を受けたので、その血統を受け継いだその子孫たちも争いを起こさざるを得ません。心と体が争うようになった動機とその出所も、それが起源です。(『文鮮明先生御言選集』265-36 1994.11.20)

 

肉的堕落のさいに展開したアダムとエバの争いが、今の私たちの心と体の争いの起源になったとあります。

この観点から霊的堕落と肉的堕落における神様、アダムとエバ、そして天使長の関係性を整理してみます。

霊的堕落:神様 → アダム  → 分裂 ← エバ   ← 天使長
肉的堕落:神様 → アダムの心 → 分裂 ← アダムの体 ← 堕落エバ

天使長の誘惑によってアダムとエバが分断されたように、エバの誘惑によってアダムの心と体が分断されたということになります。

このことから洞察できることは、「取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)と神様から直接聞いていたアダムの心に疑問が生じたということです。

どういうことかというと、実際に取って食べたエバが、死なずに自分にも取って食べるように誘惑してきたということです。

このときアダムは、「あれ? 神様は取って食べると死ぬと言われたのに、エバは死んでいないぞ。どういうことだろう?」と思ったはずです。

この瞬間、アダムの神様のみ言に対する絶対信仰が揺らぎ、そのため執拗に誘惑してくるエバの力を跳ね除けることができなくなってしまったのです。

このように、心の力が弱くなったことからアダムの心と体に隙間が生じ、その隙をつかれてエバはアダムの体を奪ってしまいました。

神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムが堕落するとすれば、そのみ言に対する信仰が弱くなるとき以外には考えられません。

堕落による死とは?

それでは、神様は取って食べても死なないのに、「取って食べたら死ぬ」と間違ったことを言われたのでしょうか?

この堕落における死について、『原理講論』では次のように説明しています。

 堕落による死とは、すなわち、人間始祖が善悪の果を取って食べることによって招来した、正にその死を意味するのである。ところで、その死は、いかなる死であったのだろうか。
 創世記二章17節(文語訳)を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善悪の果について「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」と言われた。それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。
 しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我々と同じく、依然として地上で肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである。
 このような事実から見て、堕落によって招来したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管圏から、サタンの主管圏に落ちるという意味での死をいうのであることを、我々は明確に知ることができる。(『原理講論』p212)

 

聖書には生死の概念が2種類あり、一つは肉身の生死であり、もう一つは神の主管圏にいるかサタンの主管圏にいるかによって区別される生死の概念です。

堕落による死とは、まさにこのサタンの主管圏内に落ちてしまうという意味の死だったのです。

このようなアダムの堕落から分かることは、神様を信じている人が、その信仰を失うのは、み言と現実が一致しないときだということになります。

霊的に堕落したエバは、取って食べても死んでいない自分を見せることでアダムのみ言に対する信仰を揺らがせ、そのすきをついてアダムの体を奪ったのです。

この肉的堕落によって、本来は心が主体、体が対象の関係だったのですが、体が主体となり、ここから人間の心と体の闘いが始まるようになりました。

 

※「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」について
 『原理講論』のこの箇所は、韓国語の聖書の創世記2章17節に「날에는(ナレヌン:日には)」と表記されているため、その表記に合わせるために文語訳を引用している。「日」という言葉が「…した日には」の形で使われるとき、通常は「…した場合には」という意味である。しかし、「날(ナル:日)」という言葉が記録されているところに神の啓示性を見ることができる。すなわち、善悪を知る木の実を食べたその日、その瞬間に霊的に死ぬ(神の主管圏内から離脱することを意味する)ことをこのような表現で伝えているのである。

み言と現実が一致しないときに信仰が揺らぐ

こちらの記事(イエス様の荒野での三大試練③第一試練「石をパンにかえよ」の意味)で、共産主義がキリスト教の懐から生まれたことを紹介しました。

その理由の一つに、この「み言と現実の不一致」というものがあると考えられます。

聖書には「神は愛である」(ヨハネⅠ4:8)とあるのに、現実には貧富の格差で多くの人が苦しんでいるという現実がありました。

そして、さらにキリスト教の信仰問題として、イエス様の再臨があります。

黙示録22:20に「『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」とあります。

しかし、聖書に「すぐに」とはありますが、あす来るとか来週来るなど、その時期については明言されていません。

イエス様も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ二四・36)と語られています。

そこで、少し観点を変えて考えてみると、地球の誕生から現在までの46億年を1年に換算した場合、人類の誕生は12月31日の午後11時37分だそうです。

ですから、たとえ数千年後にイエス様が再臨されたとしても、宇宙レベルの時間なら「すぐに」でも間違いではないでしょう。

ところが、堕落した人間は自分を中心に考える習性があり、恐怖心によってどうしても視野が狭くなってしまいます。

そのため、自分の生きているときに再臨が実現することを期待してしまいます。このことについて『原理講論』には次のように記述されています。

 マタイ福音書一〇章23節を見れば、イエスはその弟子達に、「あなたがたがイスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るであろう」と言われており、また、マタイ福音書一六章28節には、「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と、言われたのである。
 このようなみ言によって、イエスの弟子達もそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒達は、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼等は、常に終末であるという切迫感からのがれることができなかったのである。(『原理講論』p157)

 

イエス様の再臨を待望する思いが強ければ強いほど、それが実現しなかったときの失望感は強くなり、そこから信仰が揺らいでしまうことは多いにありえることです。

実際、19世紀末までイエス様の再臨は実現していなかったわけですから、堕落した人間の観点から見ると、キリスト教徒にとって「み言と現実の不一致」状態にあったと言えます。

このように、信仰者にとって、み言と現実が一致していないという状況に直面したとき、信仰の危機を迎えると言うことができるでしょう。

アダムとエバの堕落に見る3つの教訓

それでは、アダムとエバの堕落から見えてくる教訓を3つにまとめて紹介します。

教訓①霊的堕落は相手を、肉的堕落は時を間違えた

 最初の堕落行為は、神と同じように目が開けるようになりたいと願う、すなわち、時ならぬ時に時のことを望む過分な欲望が動機となり(創三・5)、非原理的な相対である天使長と関係を結んだことから生じたものであるのに対して、二番目の堕落行為は、最初の行為が不倫なものであったことを悟って、再び神の側に戻りたいと願う心情が動機となって、ただ、まだ神が許諾し得ない、時ならぬ時に、原理的な相対であるアダムと関係を結んだことから起こったものだからである(前編第二章第二節(二))。(『原理講論』p291)

成長期間にいたエバが本来相対すべきはアダムで、またアダムは成長期間を終えるまで戒めのみ言を守るべきでした。

したがって、私たちの中には、知的に迷い、情的に混沌となったとき相対すべき相手を間違え、み言と現実が違ったときに時を間違えて、神様のみ旨から外れてしまいやすい堕落性があるということになります。

教訓②天使長とエバの霊的堕落の相対基準は過分な欲望

 愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。(『原理講論』p109)

欲望自体は本然のものなので必要なのですが、それが自分を中心として過分な欲望になったとき、サタンと相対基準が結ばれて悪の勢力に侵入されてしまうということです。

教訓③サタンは主体と対象を分断させようとしてくる

 善悪の実を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。(『原理講論』p296)

サタンは、こうした本然の秩序を崩そうとして、アダムとエバ、そしてアダムの心と体など、主体と対象の関係を分断させようとします。

最初は霊的堕落のように、対象的存在に侵入して主体的存在に対して不信させ、次にその対象的存在を通して主体的存在の体に侵入しようとしてくるのです。

まとめ

アダムが堕落していなければエバの復帰は容易だったのですから、神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムまで堕落してしまったことが、現在に至るまで全人類をサタンの支配下においてしまうことになりました。

アダムが堕落してしまった要因の一つに「み言と現実の不一致」という状況があり、このときをサタンは狙ってくるので、み言のとおりになっていない現実に直面したときは要注意です。

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