正統なキリスト教では、ヨハネによる福音書の1章1節から3節、そして17章5節などの聖句を根拠として、イエス様は天地創造の前から神と共におられたとしています。

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ福音書1章1~3節)

 父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。(ヨハネ福音書17章5節)

 今回は、「神による創造の二段階過程」の観点から、これらの聖句の意味を考察します。

1.ヨハネによる福音書1章の解明

 ①ヨハネ福音書1章1節「言は神と共にあった」

 1)ロゴスとは何か―創造の第一段階における「生きた構想」

 「統一思想」では、ヨハネによる福音書の1章にある「言(ことば)」を「生きた新生体(=発展的四位基台により新たに産出された結果物)」であるとしています。

 神が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのである。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ一・一―四)。(『統一思想要綱』p113)

 

 「神による創造の二段階過程」の観点から見たとき、神と共にあった「言」とは「生きた構想」であり、創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された」で始まる天地創造の前、すなわち創造の第一段階において、内的発展的四位基台によって形成されたものです。

 したがって、イエス様が天地創造の前から神と共にあったというのは、創造の第一段階の後期に、神の本性相内のロゴス(構想)、すなわち「ロゴスとしてのアダム」として存在していたという意味になります。

 2)原文(ギリシャ語)から見た「言は神であった」の意味

この理解は、原文のギリシャ語の表現から見ても一つの重要な示唆を与えています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(口語訳・新共同訳共通)

 原文のギリシャ語では、「神(theos)」に冠詞がついていません。

 kai theos ēn ho logos
(そして神であった、その言は)

 ここで注目すべき点は、主語である「言(ho logos)」には定冠詞が付いているのに対し、述語である「神(theos)」には定冠詞が付いていないという点です。

 一般にギリシャ語において、述語名詞に冠詞が付かない場合、それは対象の同一性を断定するというよりも、その性質・本質を表す用法として理解されることが多く、特にこのように述語が前に出る語順の場合、その傾向が強いと指摘されています。

 すなわち、この表現は「言が神そのものと完全に同一である」という意味に限定されるのではなく、「言が神的性質を持つ存在である」ことを示す表現として読む余地があるのです。

 この点については、正統神学においても、単純に「同一存在」と断定するのではなく、「神と同質(神性を有する)」という意味で理解する立場が広く知られています。

 したがって、この箇所を神とロゴスの完全な同一性を示す根拠とすることはできず、むしろ両者の区別を前提とした表現として理解することができます。

 3)ロゴスの「神性」は何を意味するか

 統一思想の立場から見るならば、この「神的性質」という表現は、神の本性相の中にあるロゴス、すなわち神の内的構想としての存在を指すものと理解することができます。

 ロゴスは神と分離した独立存在ではなく、神の内において形成される創造の設計原理であり、その意味で「神的」であると同時に、まだ実体化していない段階の存在です。

 したがって、この箇所は「ロゴスが被造物であるか否か」を直接断定するものではなく、むしろロゴスが神の内に属しつつ、神そのものとは区別される位相にあることを示していると理解することができます。

 4)三位一体理解との関係と解釈上の注意点

 ここでしばしば想定される反論は、「冠詞がないからといって、神と同一でないとは言えない」というものです。この指摘自体は正しく、文法的事実だけで結論を一義的に決定することはできません。

 しかし同時に、この構文が「同一性の絶対的断定」ではなく、「性質の叙述」を含む表現であることもまた否定できません。

 したがって重要なのは、この文法的特徴を、聖句全体の文脈、すなわち「神と共にあった」という前段の表現と合わせて理解することです。

 「共にあった」という表現が関係性と区別を前提としている以上、「言は神であった」という句もまた、無差別な同一ではなく、関係の中における神性の表現として読むことが自然になります。

 このように見ると、ヨハネ福音書のこの一節は、三位一体の神学的定式をそのまま述べたものというよりも、むしろ神の内におけるロゴスの位置と性格を示す根源的な表現として理解することができ、その理解は、ロゴスを神の本性相内の構想として捉える見方とも整合的に理解することが可能であると言えます。

 ②ヨハネ福音書1章14節「言は肉体となり」

 ヨハネによる福音書1章14節に「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とあります。これと同じ意味のことが旧約聖書の創世記2章7節に記録されています。

 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記2章7節)

 この2つの聖句は、神による命の創造という観点で密接に関連する聖句であり、創世記2章7節が最初の創造、ヨハネ福音書1章14節はそれを再び行う再創造の役事とも言えます。ですから、創世記の命の「息」とヨハネ福音書の「言」は、共に霊的な命を意味していると考えることができます。それは次の聖句からも分かります。

 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。(テサロニケⅡ2章8節)

 この聖句にある「口の息」のギリシャ語原文は「πνεύματι(プネウマティ)」、すなわち「πνεῦμα(プネウマ)」の変化形であり、「霊」「息」「風」などを意味します。

 ただし注意すべきは、創世記2章7節の「命の息」はギリシャ語訳聖書(LXX)では「πνοή(プノエー)」という別の語が使われており、両者は厳密には異なる語です。

 しかし、どちらも「神から授けられる生命の息吹」という文脈で用いられており、旧約・新約を通じた聖書の用語として、広義に「霊的な命の息」を意味するものとして読むことができます。

 したがって、「言」は「息(霊)」であり、「言」は「生きた構想」、すなわち「ロゴスとしてのアダム」なので、「息(霊)」もまた「ロゴスとしてのアダム」を意味していることになります。

 この「言」と「霊(息)」の一体性については、イエス様自身の言葉にも示されています。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ福音書6章63節)。ここでイエス様は、「言葉」と「霊」と「命」を一体のものとして語っており、「言(ロゴス)」が同時に「霊(プネウマ)」であるという理解と符合します。

 「言」=「息(霊)」=「生きた構想」=「ロゴスとしてのアダム」

 このことから、「命の息をその鼻に吹きいれられた」とは、土で造られたアダムの体に「ロゴスとしてのアダム」を吹きいれたということであり、それをヨハネによる福音書1章14節では「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と表現しているのです。

2.キリストによって「生きた者」となる人類

 ①ひとり子イエスに宿った「ロゴスとしてのアダム」

 もしアダムが堕落していなければ、「ロゴスとしてのアダム」はそのままアダムの中に存在しつづけ、創造目的(喜び)を中心に外的発展的四位基台を造成することによって、アダムは神の完全なる喜びの対象になるはずでした。
 しかし、アダムの堕落により、「ロゴスとしてのアダム」はその場に留まることができず、再び神のもとに戻っていきました。そのため、霊的に「生きた者」から「死んだ者」となったアダムから生まれた子孫は、「命の息」すなわち「ロゴスとしてのアダム」を受けることができず、霊的に死んだ状態にあるわけです。ヨハネの黙示録3章1節に「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」とあるとおりです。
 そして、再び「ロゴスとしてのアダム」が宿った方として降臨されたのが「ひとり子」のイエス様でした。このことについて文鮮明先生は、『原理原本』で次にように説明されています。

 アダムとエバが罪を犯すと、本来、アダムとエバに注入して授けた神の根本の基、すなわち生心を中心に成長し、神が臨在できる基となるべきだったアダムの霊人体(霊)は、悪に犯された自らの体にいることができず、神が引き取られたのである。そして、罪を犯す前の霊が神の右側に座し、第二アダム格として送られたのである。その方が正にひとり子イエスであった。「ひとり子」という名詞の意味もここで明白になる。つまり、罪を犯す前のアダムの霊がイエスの霊に注入され、再び来られたということである。(『原理原本』p89)

 

 そして、マタイによる福音書1章18節には、「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」とあります。ここで言われている「聖霊」は「ロゴスとしてのアダム」を意味していると考えることができます。
 また、マタイによる福音書3章16節では、「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった」とあり、鳩にたとえられている「神の御霊」も、同じく「ロゴスとしてのアダム」を意味していると考えることができます。(※韓国語聖書(改訳改定版)では「성령」<ソンニョン:聖霊>)
 このように、創造の第一段階で造られた「ロゴスとしてのアダム」が神の御霊として降臨し、宿った方がイエス様なので、イエス様は「世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光」(ヨハネ福音書17章5節)と言われ、「アブラハムの生れる前からわたしは、いる」(ヨハネ福音書8章58節)と言われたのです。

 ②「命の息」を授けるキリスト

 ヨハネによる福音書の20章22節から23節に、復活されたイエス様が弟子たちに息を吹きかけられ、再び「生きた者」にされる場面が描写されています。

 彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。(ヨハネ福音書20章22~23節)

 このことについて文鮮明先生は次のように語られ、私たちの日常生活における重要な伝統を定めてくださっています。

 イエス様が復活したのち、「ふーっ」と吹きながら「聖霊を受けなさい」と言ったのと同じです。アダムを造っておいて鼻に息を吹きかけて実体の新生命を誕生させたのと同じように、これからは皆さんも生命の実体を身代わりして、水を飲み、ご飯を食べる時には息をかけてから食べなければならないというのです。(中略)
 私たちは3時代、蘇生、長成、完成、6000年の長い時代を3時代として経ながら、汚れたものを聖別するために3回息を吹きかけて食べなければならないというのです。(『天聖経』「礼節と儀式」p1073)

 

 さらに、コリント人への第一の手紙15章45節にも「最後のアダムは命を与える霊となった」とあります。
 このことから、神から直接「命の息」、すなわち「ロゴスとしてのアダム」を吹きいれられて「生きた者」になるのは、アダム、イエス、そして再臨主であり、それ以外の人類は、キリストなるイエス、そして再臨主を通して「命の息」が与えられ、「生きた者」になるということになります。
 この点がキリストと他の人類の違いであり、またイエスと再臨主が父母として降臨される理由です。そして、キリストから「命の息」を受けたとき、私たち人類ははじめて神と父子の関係が結ばれ、その血統を受け継ぐことができるということです。

 

※参考①
「私は夜の神様の管理を受け、お前たちは昼の神様の管理を受けている」と説明してくださいました。(文亨進様のみ言、2012年陽暦1月29日)

※参考②
 男の子どもを「息子」あるいは「子息」と書きます。これは日本独自の漢字表現ですが、旧約聖書の創世記2章7節と共通するところがあるのはとても興味深いです。

3.創造目的から見た創造の二段階過程

 神の創造は二段階に渡って展開されたわけですが、ここでなぜ第一段階で終わらずに第二段階まで展開したのか、言い換えると、なぜ内的発展的四位基台で終わらずに外的発展的四位基台まで進んだのかを考えてみたいと思います。
 結論を先に言えば、それは、人間を始めとする被造世界を創造された神の目的が「喜び」にあったからです。
 それでは、まず神の二性性相とロゴス(言)の二性性相の違いから確認しましょう。

 ①神の二性性相とロゴスの二性性相の違い

 こちらは神の二性性相とロゴスの二性性相に関する『原理講論』の一節です。

 ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった。(『原理講論』p265)

 

 そして、上記の箇所について、「統一思想」では次のように解説されています。

 これは被造物の二性性相はロゴスの二性性相に似ており、ロゴスの二性性相は神の二性性相に似ているということを意味する。したがってロゴスの二性性相と神の二性性相が完全に同一なものであるかのような印象を受ける。
 しかし統一思想から見るとき、神の二性性相は本性相と本形状であるが、ロゴスの二性性相は内的性相と内的形状である。すなわち神の二性性相とロゴスの二性性相は同じではない。したがって被造物が神の二性性相に似るというのは、神の本性相と本形状に似るという意味であり、ロゴスの二性性相に似るということは、ロゴスの内的性相と内的形状に似るという意味なのである。(『統一思想要綱』p132~134)

 

 このように、「統一思想」によれば、神の二性性相は本性相と本形状ですが、ロゴスの二性性相は、神の本性相内の内的性相と内的形状と同じということです。ですから、ロゴスの二性性相に似ただけでは、神の本性相に似ただけなので、神の完全かつ実体的な喜びの対象にはなり得ないのです。
 つまり、ロゴスは「生きた構想」であり、それが対象になった場合は実体的な喜びを感じることができず、その「生きた構想」が実体化し、一定の成長期間を経て神の本性相と本形状の似姿となり、それが対象になったときに、初めて神は実体的な喜びを感じることができるということです。このことについて解説している箇所を『原理講論』から引用します。

 喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。
 ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。(『原理講論』p65)

 

 以上のように、神の創造目的である喜びという観点から見たとき、神の本性相の内的性相と内的形状の二性性相に似た「ロゴスとしてのアダム」は、実体的な喜びの対象になることができません。神の本性相と本形状の二性性相に似た「実体のアダム」になって、初めてその喜びが実体的なものになるということです。そのため、創造の第二段階では次のような過程を通してロゴスが実体化していくようになっています。

 それでは、いかにすれば神の本性相と本形状に似るようになるのであろうか。それは外的授受作用によって、本形状である質料的要素(前エネルギー)が本性相である生きた鋳型の緻密な空間の中へ浸透することによって、似るようになるのである。そのような授受作用を通じて、動く映像が物質的な体を備えるようになり、現実的な実体となるのである。そしてそのとき被造物は、神の二性性相に似た被造物となるのである。(『統一思想要綱』p133)

 

 このことから、私たちは神の本性相(心)に似ると同時に、神の本形状(体)に似ること、すなわち神と同じ心情と喜怒哀楽、物事の見方、考え方に似ると同時に、その実体、行動、そして生き方や生活も似なければならないというこです。

 ②「統一原理」の三位一体は「実体の三位一体」

 創造の第一段階では、神様の本性相にある内的性相と内的形状が授受作用をすることによって、新生体としてのアダムとエバのロゴスが創造され、内的発展的四位基台が造成されています。そして、創造の第二段階でそのロゴスが実体となって外的発展的四位基台が造成されます。
 「統一原理」で言う三位一体は、この創造の第二段階で外的発展的四位基台が造成され、一体になった神と実体のアダムとエバのことを意味しています。

 元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。(『原理講論』p267)

 

 「1.ヨハネによる福音書1章の解明」で解説したヨハネによる福音書の1章1節と1章14節は、それぞれ創造の第一段階におけるロゴスの二性性相に似た新生体、創造の第二段階における神の二性性相に似るべき新生体のことを意味しています。
 では、「実体の三位一体」について語られている文鮮明先生のみ言をご紹介します。

 もしアダムとエバが堕落していなければ、どのようになったでしょうか? 神様の基準に上がっていき、神様を中心として三位一体になっていたでしょう。そして、ここから生まれた子女たちは、すべて天国に行くことができる息子、娘になるのです。(中略)
 神様を中心とする三位一体が崩れたので、これを再び探し立てなければなりません。それで、アダムの代身として立てられた存在がイエス様です。アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるためにイエス様が来られたのです。(『御言選集』22-283, 1969.5.4)

 

 イエス様が再臨される理由も、この「実体の三位一体」を完成するためであり、私たちは、その歩みと生き方を見て、その似姿になることで、神の完全なる喜びの対象になることができるのです。

 

 原理は神様に会える道を教えてくれたが、神様と共に生活することについては教えてくれなかった。ゆえに先生が必要なのである。(『御旨の道』「み言・人格・心情について」より)

 

つづく