【今回深掘りする原理のみ言】
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。(『原理講論』p52)

 

こちらの記事(アダムとエバの堕落④堕落の責任は人間と天使のどちらにあるのか)で、天使は自力で愛の減少感を克服できないが人間にはそれができることをお伝えしました。

今回は、良心と脳科学の観点から、人間が自力で愛の減少感を克服できる理由を探ってみたいと思います。

堕落した天使長の要素を受け継いでいる私たち

『原理講論』のp73には、「神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである」とあります。

この「根本的な力」をエネルギーと考えると、愛の減少感を抱いている状態は、エネルギーが減少して枯渇しそうな状態と考えることができます。

ちょうど電子機器の充電メモリーが赤くなったり、点滅したりするような状態ですね。

そうなると、太陽光などから充電するような装置でもついていないかぎり、他のところから充電してもらうしかありません。

天使長ルーシェルが愛の減少感を抱いたときもこれと同じ状態だったので、その愛の減少感を満たすためにエバを誘惑したわけです。

エバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。(『原理講論』p109)

 

このように、愛の減少感を抱いていたルーシェルは、エバから愛の刺激、つまりエネルギーを受けることができたので、もっと満たされたいという思いからますますエバを誘惑していきました。

エバはこの誘惑にひかれて霊的に堕落し、今度はエバが天使長と同じ立場でアダムを誘惑するようになり、アダムまで堕落してしまいました。

その結果、どのようになったのかについて『原理講論』から引用してみましょう。

アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。(『原理講論』p111)

 

こうして私たちは堕落した天使長の要素を受け継ぐようになったわけですが、その一つが他者から愛、つまりエネルギーを奪おうとすることです。

堕落した人間は、エネルギーが枯渇すると、ルーシェルと同じようにエネルギーバンパイアになって、いろんな人たちからエネルギーを奪おうとしてしまうのです。

エネルギーバンパイア状態になった人たちは、時空を超越してどこにエネルギーがあるのかを瞬時に見つけ出します。

そして、認めてほしい、褒められたい、うらやましがられたいという承認欲求を満たそうとして行動します。

これは身の回りの日常生活でも見られることですが、ネット上でもこれが常におきています。

例えば、エネルギーバンパイア状態の人たちがfacebookやインスタグラムで「いいね!」をもらったとき、とても満たされて快感を覚えます。

そして、もっとそれが欲しくなり、「いいね!」をもらうために、あるいは「いいね!」をもらえるような投稿ばかりをするようになっていきます。

もしあなたがその人に「いいね!」を送ると、その瞬間にあなたからエネルギーがごっそりとその人に移動してしまうんですね。

しかし、もし自分自身でエネルギーチャージができるのなら、承認欲求を満たすために誰かからエネルギーをもらう必要がありません。

実は、これからお伝えする良心や脳の内側前頭前野の働きにより、私たちは他者からエネルギーをもらわなくても、幸福感や満足感を得ることができるようにつくられているのです。

人間に与えられた良心

良心の一般的な意味を辞書で確認してみると、次のようになっています。

1人間が生来もっていて、物事の是非・善悪を判別する統一的意識。
2自己の行為の善悪・正邪を識別する理性。
3生来ではなく、教育によって育てられた善悪、正不正を判定する人間の能力。

また、『原理講論』には良心について次のような記述があります。

不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。(『原理講論』p21~2)

 

このように人間なら誰でも良心というものがあり、自分の考えや行いに対して、きちんと良し悪しを判別できるようになっています。

そして、良心について文鮮明先生は、「良心とは何ですか。第二の神様です」(『文鮮明先生御言選集』254-242 1994.2.13)と語られ、次のように説明されています。

 人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏を抜け出すことはできません。
 そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割という機能です。言い換えれば、良心は、私たちが生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私たちの生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私たちの一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。
 ですから、良心は、私たちのすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。(『文鮮明先生御言選集』567-258 2007.7.4)

 

良心というのは、神様が私たちに下さった最高、最善の贈り物なんですね。

良心作用を司る脳の領域は内側前頭前野

人間の脳については、まだまだ分かっていないことが多いのですが、それでも、科学技術の進歩により、1990年代以降、脳科学の分野は急速に進歩していて、いくつもの大発見が続いているそうです。

そのうちの一つは、「脳細胞は成人したらあとは減るだけ」と思われていましたが、大人になっても脳細胞が毎日新しく生まれていることが分かってきています。

その脳科学から見たとき人間の脳は、人から褒められたり、高い評価を受けると、快感を生み出すのに関係している「線条体」という回路が活性化します。

この回路は、金銭的報酬を得たときにも活性化するそうですが、人から認められ、褒められるといった、いわゆる社会的報酬を得たときにも活性化することが分かっています。

ところが、最近の脳科学によれば、人が何か利他的な行いをしたとき、誰かから褒められたりしなくても、同様の快感を得ることができるようになっているそうなのです。

つまり、自分が良いことをしたとき、他者からの称賛がなくても幸福や満足を感じられるということです。

その仕組みがどうなっているかというと、脳には内側前頭前野という領域があり、ここでは常に自分の行動を監視しています。

そして、内側前頭前野が自分の行動に対して「良いことをした」と評価すると、大きな快感が得られるようになっているというのです。

脳科学で「良心」を司っている領域と考えられているのがこの内側前頭前野で、前頭前野の内側にある領域です。

人間の脳は、この領域で自分の行動が正しいか間違いか、善なのか悪なのか、それを識別していると考えられています。

人間には良心と共に、脳内にその機能を発揮するための領域が備わっているので、たとえ人から評価されたり、称賛されたりしなくても、幸福感を得ることができるようになっているわけです。

天使長から誘惑されたときエバはどうすべきだったか

堕落する前のアダムとエバのようすについて文鮮明先生は次のように語られています。

アダムとエバの生活というのは男性と女性の生活です。女性は日陰に座って休もうとし、男性は動物などの万物を主管する主人にならなければならないので、春の季節になると野山を駆け回り、あらゆるものを探索しようとします。エバはついていけません。ですから、兄に当たるアダムについていこうとして、「お兄ちゃん、私も連れていって!」と言いながら毎日たくさん泣いていたのです。(『文鮮明先生御言選集』272-297 1995.10.13)

 

このときのエバは、アダムを慕い、一緒にいたいと思っていましたが、相手にしてもらえませんでした。

そこにエバと同じように、神様から見放されたような思いを抱いていたルーシェルが来て、エバを通して愛の減少感を満たそうとしたわけです。

このときにエバがどうすればよかったのかについて『原理講論』には次のように記述されています。

天使長の非原理的な愛の力がいかに強くとも、アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手にせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な愛の力は作用することができず、彼らは決して堕落するはずがなかった。(『原理講論』p113)

 

この内容を良心作用と脳科学の観点からみると、エバがルーシェルと相対基準を合わすことなく、アダムから聞いた神様の戒めのみ言を守っていれば、脳の内側前頭前野の働きによって充分に幸福感を得ることができたはずです。

そして、それによって満たされたエバは、神様を中心とした真の愛で誘惑してきたルーシェルを主管することができていたでしょう。

まとめ

『原理講論』の冒頭には、「幸福はいかにしたら得られるのであろうか」(p21)という一文があります。

これに対する解答を良心と脳科学の観点から考えてみると、「人間は、自らの良心の声に従って行動すれば、真の幸福を得ることができる」ということになります。

これが正に人間が自力で愛の減少感を克服できる理由にもなるというわけです。

一方で、僕として創造され、肉身をもたない天使には、人間のような良心やその機能は発揮する脳がないため、自力で愛の減少感を克服することはできません。

また、人間の心の構造について『原理講論』は次のように説明しています。

生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。(『原理講論』p88)

 

そして、「生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である」(『原理講論』p86)とあります。

堕落することによって良心の声を聞くことができなくなった私たちが「統一原理」を学ぶ理由もここにあります。

 

※【宗教と科学の統一に関する参考書籍】

『原理講論』のp29に「宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである」とあります。

当ブログ管理者の知る限りですが、「脳科学」と「量子論」の分野で、これまでの宗教の教えを裏付ける研究成果が、発表されてきているようです。

 

■脳科学からみた「祈り」

 

 

 

■医者が学んだ祈りの力

 

 

 

■量子論から解き明かす神の心の発見

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