【今回深掘りする原理のみ言】
第四は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。(『原理講論』p124)

 

こちらの記事「アダムとエバの堕落③アダムはなぜ堕落したのか?」で、み言と現実が一致していないときに信仰が揺らぐという話をしました。

自分が信じているみ言と実際の現実に矛盾があると、精神的にとても不安定でストレスがかかる状態になります。

今回はこのような状態になったアダムとエバの心理を「認知的不協和」の観点から深掘りしてみたいと思います。

「すっぱいブドウ」の話

イソップ童話の「すっぱいブドウ」の話をご存知でしょうか?どんな話なのか、あらすじを紹介しますね。

 お腹を空かせたキツネが、たわわに実ったおいしそうなブドウをみつけました。キツネは、それを食べようとして一生懸命に跳び上がるのですが、どのブドウも高い所にあって届きません。
 何回跳び上がっても届かないので、キツネは、怒りと悔しさから「どうせこんなブドウは酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか!」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていきました。

 

キツネは、本当はブドウが食べたくてしかたないのに、食べることができないので、「あれは酸っぱくてまずいブドウだ」と考え、食べることをやめて去っていくという話です。

この話は、フロイトの心理学では防衛機制および合理化の例、社会心理学では認知的不協和の例として紹介されたりするそうです。

このように、人間の心には、努力しても到底かなわない対象があるとき、その対象を「価値の無いもの」や「自分にふさわしくないもの」と見なし、それをあきらめの理由として納得して、心の平安を得ようとする性質があるということになります。

それでは、次に社会心理学で言う認知的不協和の観点から、「すっぱいブドウ」の話をもう少し詳しく考えてみましょう。

認知的不協和の観点から見た「すっぱいブドウ」の話

ウィキペディアを見ると、認知的不協和について以下のように説明されています。

認知的不協和(にんちてきふきょうわ、英: cognitive dissonance)とは、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

 

人がこのような認知的不協和の状態になると、とても不快でストレスを受けるので、その状態から逃れるために、二つの矛盾するもののうち、どちらか一方を無理矢理変えて心の平穏を保とうとするんですね。

「すっぱいブドウ」のキツネについて考えてみると、

【認識】おいしそうなあのブドウが食べたい
【現実】ブドウに届かないので食べられない

この認識と現実の不一致状態が、キツネにとってはとっても不快なので、どちらかを変えて一致させなければならない状況です。

おいしそうなブドウが食べたいという思いを何らかの理由で変えるか、自分よりジャンプ力のあるキツネに頼むなどして現実を打開するか、このどちらかです。

現実を変えるより、「あのブドウは酸っぱくてまずいだろう」と考えて現実と一致させる方が簡単なので、キツネはそちらを選択したわけです。

もしキツネが何が何でも食べたいと強烈な願望をもっていれば、現実を打開する方法を探したでしょう。

しかし、キツネはそこまでは食べたいと思っていなかったので、変えやすい方を変えて心の平穏をキープしたんですね。

このように、人が認知的不協和の状態になったとき、基本的には変えやすい方を変えて心のバランスを保つ傾向があるということです。

よくあるのが、電車とかバスに乗っていて、目の前のお年寄りに席を譲れなかったときです。

「お年寄りには席を譲るべき」という認識と、「席を譲っていない自分」という現実が一致せず、認知的不協和の状態になっています。

そのとき、「どうぞ」と言って席を譲って現実を変えるか、あるいは「きょうは疲れているから」と席を譲れない理由づけをして認識を変えるか、どちらかを選択して心の安定をキープするわけです。

もちろん現実を変えるという選択をした方が、心がはるかに平安になることは言うまでもありません。

過去に起きた出来事は変えることができないので、その場合は認識を変えるしかありませんね。

ですから、変えやすい認識の方を変えること自体は、心に過度なダメージを受けないための防御策にもなるので、一概に悪いこととは言えません。

現在や未来のことについては、まだ現実を変えるチャンスがあるのでそちらを選択し、過去のことについては認識を変えることで認知的不協和の状態から脱することができます。

ただし、過去の災害や犯罪などの場合、被害者と加害者では立場が異なり、加害者であれば認識を変えるのではなく、現実に犯した罪に対して償わなければなりません。

では、堕落する前のアダムは、この認知的不協和の観点から見た場合、どうだったのかを考えてみましょう。

アダムとエバの認知的不協和

(1)アダムのケース

アダムは、神様から「善悪の実を取って食べると死ぬ」という戒めのみ言を直接聞いていました。

ところが、その善悪の実を取って食べたエバが、実際には死んでいないという現実に直面します。

このときのアダムは、

【認識】神様の戒めのみ言を信じるべき
【現実】善悪の実を取って食べたエバが死んでいない

この認識と現実の狭間で、認知的不協和の状態になり、精神的にとても不安定だったと考えられます。

そんな状態のアダムに対して、エバがどのようにしてきたのか文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

エバは目を見開いて「取って食べなさい」と言い、アダムは「嫌だ、嫌だ」と言ったのですが、エバがすがりついて哀願してくるので、見るに見かねてしかたなく「好きなようにしなさい」と言ってしまったのです。(『文鮮明先生御言選集』265-36 1994.11.20)

 

もしアダムが神様のみ言に対する絶対的な信仰をもっていれば、死んでいないエバを見ても、「食べたら死ぬ」というのは何か別の意味があるのかもしれないと考え、神様に尋ねてみたはずです。

実際には、神様のみ言を尊重するのではなく、善悪の実を食べても死んでいないエバに妥協してその言うとおりにして行動してしまいました。

(2)エバのケース

今度はエバについて考えてみましょう。堕落前のアダムとエバについて文鮮明先生は次のように語られています。

アダムとエバの生活というのは男性と女性の生活です。女性は日陰に座って休もうとし、男性は動物などの万物を主管する主人にならなければならないので、春の季節になると野山を駆け回り、あらゆるものを探索しようとします。エバはついていけません。ですから、兄に当たるアダムについていこうとして、「お兄ちゃん、私も連れていって!」と言いながら毎日たくさん泣いていたのです。(『文鮮明先生御言選集』272-297 1995.10.13)

 

このときのエバは、

【認識】アダムと一緒にいたい
【現実】アダムと一緒にいられない

この認識と現実の狭間で認知的不協和の状態にいたと考えられます。

そんなときに天使長のルーシェルが、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(創世記3:1)と言って、アダムに対する不信感を抱かせるように誘導してきました。

神様の戒めのみ言をアダムを通して聞いていたエバは、ルーシェルの話を聞いて「もしかしたらアダムは嘘をついているのかもしれない」と思い始め、アダムに対する信頼が揺らいだはずです。

そして、「そんなアダムとは一緒にいないほうがいい」と考えて、アダムと一緒にいることができないという現実と自分の認識を一致させて心の安定を取り戻そうとしたと考えられます。

天使長ルーシェルの認知的不協和

(1)天使長ルーシェルの主張

『原理講論』のp106に「人間の堕落した動機は天使にあった」とあるので、今度は天使長ルーシェルについて、認知的不協和の観点から考えてみましょう。

文鮮明先生のみ言に、堕落してサタンとなった天使長ルーシェルの主張について次のような内容のものがあります。

 本来、神様の創造理想というものは、永遠を中心としたものです。天使をつくられる時も、永遠の理想を中心としてつくられたのです。そして、その天使も、神様の愛の圏内で、愛を受けて生きるようになっていたのです。それが原則でした。
 ところが、天使長が堕落したのです。堕落した天使長は、「私は変わりましたが、神様は変わることができないではないですか」と主張するのです。それは正しい話です。「私はこのようにサタンに変わりましたが、神様は変わることができないではないですか」と、神様に聞いてみれば、「おまえの言うことは正しい」と答えるのです。
 「私は堕落しましたが、本来、あなたが私を中心として愛そうとされたその愛、永遠をかけて愛そうとされたその愛を、一度でも実現しなければならないのであって、それを成さずに私を追い出すことはできません。私の心は、なぜ寂しかったのでしょうか。私があなたのその愛、完全に原理原則に立脚した愛、永遠をかけて愛そうとされた愛を成したという条件でも見れば、私は退くのであって、それを見なければ、退くことはできません」。これがサタンの主張です。(『文鮮明先生御言選集』127-112 1983.5.5)

 

何とも身勝手な主張のようですが、神様もおっしゃっているように、主張それ自体は間違っていません。

なぜなら、神様が相手の立場や状態によって愛したり、愛さなかったりするのでは、その愛は絶対的なものとは言えないからです。

神様の属性について文鮮明先生は、「神様の属性は、絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛です」(『文鮮明先生御言選集』503-26 2005.8.1)と語られています。

(2)人間の堕落に対する天使長ルーシェルの責任

「アダムとエバの堕落④堕落の責任は人間と天使のどちらにあるのか」で詳述しましたが、 ここで改めて人間の堕落に対する天使長ルーシェルの責任について確認しておきましょう。

①自由を与えられていたためルーシェルにも責任があった

『原理講論』のp117に「神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられた」とあるように、天使にも自由が与えられていました。

「責任のない自由はあり得ない」(『原理講論』p125)というのが「統一原理」の観点ですから、ルーシェルにも人間の堕落という結果に対して責任があります。

②天使としての責任を果たしていない

ルーシェルは、「天使は、人間に仕えるために創造された」(『原理講論』p127)という天使の責任を果たしていません。

③神様の心情を知っていたのにそれを蹂躙した

ルーシェルは、神様がアダムに戒めのみ言を与えたことを知っていました。つまり、「取って食べさせたくない」という神様の心情を知っていたということです。

それを知っていながら、その心情を蹂躙してしまいました。

以上のように、人間の堕落に対する最大の責任はもちろんアダムとエバにあるのですが、ルーシェルにも責任の一端があったのです。

(3)認知的不協和から見た天使長ルーシェルの罪

人間を堕落させる前の天使長ルーシェルは、

【認識】天使の創造目的を果たすべき
【現実】愛の減少感を満たすためエバを誘惑している

この認識と現実の狭間で認知的不協和の状態にいた天使長ルーシェルは、その不安定な状況から抜け出すため、さらにエバを誘惑していったと考えられます。

そして、人間を堕落させた後の天使長ルーシェルも

【認識】神様の御心と創造原理に背くべきでなかった
【現実】神様の子女である人間を堕落させてしまった

この認識と現実の狭間で認知的不協和の状態にいる天使長ルーシェルは、自らの責任を棚に上げ「私の愛の減少感を満たすのは、真の愛の主体である神様と人間の責任」と考え、人間を堕落させたという現実を正当化しています。

これは、泥棒が「あの家は悪いことをして稼いでいるから盗まれて当然だ」 と言って、自分の悪事を正当化するときの心理状態と似ています。

以上のことから、人が認知的不協和に陥ったとき、現実を肯定して自分の認識を変えてしまう性質は、ルーシェルから始まり、アダムとエバを通して私たちに継承されてきたものだということになります。

自己正当化と責任転嫁という堕落性と絶対信仰

このような現実を肯定して自己正当化したり、自分の責任を棚上げして責任転嫁する性質は、犯罪行為の繁殖として4番目の堕落性に分類されます。

創世記の3章に、堕落したあとのアダムとエバが、責任転嫁している様子が記述されています。

 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。(創世記3章11~13)

 

このように、神様から取って食べたことについて聞かれたとき、アダムはエバのせいにし、エバはへびのせいにして責任転嫁しています。

私たちが認知的不協和の状態になったとき、サタンは自己正当化させ、責任転嫁させようとして認識の方を変えるよう誘惑してきます。

特に信仰者の場合、自分が信じているみ言と、周辺で起きている現実が一致しないとき、サタンはみ言を軽んじるように誘惑してくるのです。

もしそのときに私たちがみ言に対する信仰と認識を変えてしまうと、サタンと相対基準が結ばれ、サタンが私に侵入してきます。

ルカによる福音書22章3節に「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されているのはこのことです。

これが神様とみ言に対する絶対信仰が必要な理由であり、私たちが認知的不協和の状態になったとき、み言に対する信仰や認識を変えてはいけない理由なのです。

Print Friendly, PDF & Email