【今回深掘りする原理のみ言】
天使長の非原理的な愛の力がいかに強くとも、アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手にせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な愛の力は作用することができず、彼らは決して堕落するはずがなかった。しかし、彼らが神の戒めを守らず、天使長と相対基準を造成して、それと授受作用をしたために、その不倫な愛の力が、彼らを脱線させてしまったのである。(『原理講論』p113)

 

非原理的な愛の力によってアダムとエバは堕落の一線を越えてしまったわけですが、その責任の所在は人間にあるのでしょうか、それとも天使にあるのでしょうか?

また人間と天使のどちらにもあるとすれば、どちらの責任が大きかったのでしょうか?

この問題を明確にすることは、私たち人間の思考を平面的なものから立体的な神様を中心とするものへと昇華させるきっかけにもなりますので、今回はこれを深掘りします。

人間と天使の違い

堕落に対する責任の所在を考える前に、まず人間と天使の違いについて考えてみましょう。

1神様の心情が完全に分かる

人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。(『原理講論』p165)

 

「神の心情をそのまま体恤」とありますが、この「体恤」という言葉は日本語にはないようで、韓国語と中国語にはあります。

韓国語や中国語での一般的な意味としては、「置かれた境遇を理解してふびんに思う」といったものになります。

では、文鮮明先生はこの「体恤」という言葉をどのように説明されているか、そのみ言で確認してみましょう。

「体恤」という言葉は、「体」と「心(りっしんべん)」と「血」から成り立っています。ですから、「体恤」というのは、心情を経験することを意味するのです。人というものは、体験したからといって、涙が出て、悲しみを感じて、苦痛を感じる、そのような喜怒哀楽を感じることはできません。しかし、この心情の体恤には、そのような内容があるというのです。(『文鮮明先生御言選集』112-9 1981.3.15 )

 

このように、人間は神様の心情を知るだけでなく、そのまま感じることができるということです。

2人間は自力で完成できる

人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである。(『原理講論』p114)

 

このように人間は自らの力で完成することができるのですが、「万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。」(『原理講論』p79)とあるように、万物は原理の主管性と自律性によって、それぞれの成長期間を経過することで完成するようになっています。

3万物を愛で主管できる

人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。(『原理講論』p79-80)

 

人間は、神様と同じように創造主の立場で万物を主管する立場なので、その主人の権限をもつために責任分担が与えられたということです。

ですから、『原理講論』では、人間と万物の関係性について、以下のように説明しています。

神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。(『原理講論』p72)

 

このように、人間は、万物に対して愛の主体であり、愛をもって主管することができるのです。

ですから、天使長のルーシェルが愛の減少感を抱いたとき、本来ならばアダムを通して神様の愛を受けることができるようになっていました。

『原理講論』に、「天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまった」(p294-5)とあるように、アダムを通じて神様の愛がルーシェルの愛の減少感を満たすようになっていたのです。

愛の減少感を抱いた天使長の主張

天使長のルーシェルがエバを誘惑するようになった動機は次のようなものでした。

愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。(『原理講論』p110)

 

エバを誘惑する前の天使長ルーシェルは、自分に対する神様の愛と人間に対する神様の愛を比べ、愛の減少感を抱いていたのですが、この天使長について文鮮明先生は以下のように語られています。

天使長が完成した天使長として立てば、神様の完全な愛を受け、完成したアダムの愛を受けなければなりません。ところが、そのような愛を天使長は今まで一度も受けてみることができませんでした。ですから、天使長が今まで、「私がいくらサタンになったとしても、神様は絶対者であられ、神様の息子は絶対者の息子なのだから、私が不足だとしても、約束されている完成的愛を一度でも与えたという条件を立て、それから追い出してこそ、義理が立つのではないか」と讒訴するのです。これは正しい話です。ですから、サタンが6000年間、それを掲げて食ってかかるのです。「私を愛したという条件も立てずに追い出すとは、神様がそのようにできるのですか」と言うというのです。(『文鮮明先生御言選集』46‐231 1971.8.15)

 

このみ言から考えると、愛の減少感をもつこと自体は、比べる知恵と愛されたいという欲望を与えられた天使長に責任はないと言えます。

そうだとすれば、天使長の愛の減少感を満たしてあげる責任は神様と人間の側にあるということになります。

人間も天使と同じように知恵と欲望があるので、当然愛の減少感をもつことがあります。

しかし、人間の場合には、万物の一つである天使とは異なり、神様の心情を体恤することができ、しかも自力で完成できるように創造されています。

ですから、たとえ人間が愛の減少感をいだいたとしても、それを自分中心に満たそうとするのではなく、神様の立場と心情を中心に考え、神様が喜ばれる方向に行動することができるのです。

つまり、天使は自力で愛の減少感を克服することができないのに対して、人間にはそれができるということです。

天使長が愛の減少感を抱くのは不可避であったこと、そして、人間はそのような愛の減少感によって堕落することはないことを次のように説明しています。

 善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。
 このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。
 そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。
 しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。(『原理講論』p122)

堕落の責任の所在は人間にある

以上のことから、堕落が愛の問題であることから、堕落の責任の所在はアダムとエバにあり、人間自身にあると言わざるを得ません。

なぜなら、堕落という出来事を防ぐことができたのは、天使ではなくアダムとエバだったからです。

エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。(『原理講論』p127)

 

このように、いくら愛の減少感を抱いて天使長が誘惑してきたとしても、エバが相対基準を合わせない、つまり相手にしなければよかったのです。

ところが、「エバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えた」(『原理講論』p109)とあるように、エバは天使長と相対基準を合わせてしまいました。

さらに、アダムも、霊的に堕落したエバとは相対基準を合わせてはいけませんでした。

エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。(『原理講論』p111)

 

それでは、アダムとエバはどのようにすべきだったのでしょうか? このことについて文鮮明先生は次のように語られています。

アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。この、尋ねてみることが責任分担の5パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。(『文鮮明先生御言選集』33-241 1970.8.16)

 

天使長から誘惑されたとき、エバは自分だけで判断せず、アダムや神様に相談してみるべきでした。

そして、アダムも、エバが取って食べようと言ってきたとき、神様に相談してみるべきだったのです。

そうすれば堕落を防ぐことができたのですから、真の愛で万物を主管するという観点において見れば、堕落の責任は人間自身にあるということです。

堕落に対する天使の責任はゼロなのか

堕落の責任が人間にあるからといって、天使長ルーシェルには何の責任もないということではありません。

なぜかというと、『原理講論』のp117に「神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられた」とあるように、天使にも自由が与えられているからです。

「責任のない自由はあり得ない」(『原理講論』p125)というのが「統一原理」の観点です。

さらに、「天使は、人間に仕えるために創造された」(『原理講論』p127)という天使の役目を果たしていないという責任不履行という問題もあります。

しかも、天使長ルーシェルは、神様がアダムに戒めのみ言を与えたことを知っていたのです。(詳細はこちらの記事を参照)

つまり、『原理講論』のp98に「この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていた」とあるように、ルーシェルは「取って食べさせたくない」という神様の心情を知っていたのに、その心情を踏みにじってしまったということです。

そして、知恵と欲望を与えられていたルーシェルが愛の減少感を抱いたとしても、神様はアダムを通してルーシェルを愛そうとしていらっしゃったのです。

ところが、ルーシェルは、その神様の心情に背いて、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったのです。

以上のことから、堕落に対する責任は人間より小さくても、天使にも責任はあったと言うことができます。

そのため、堕落した状態から創造本然の状態に復帰するためには、アダム、エバ、天使の三存在が関与しなければならないのです。

復帰摂理における三存在の関与について『原理講論』では次のように説明されています。

元来神の三大祝福が完成されなかったのは、アダム、エバ、天使長の三存在が堕落してしまったからであった。ゆえに、三大祝福の復帰にも、それらを蕩減復帰するための三存在の関与が必要であったので、後のアダムとして来られたイエスと、エバの神性をもって来られた聖霊と天使の三存在が一つになって初めて霊的救いの摂理を成し遂げ、神の三大祝福を霊的に復帰することができたのである。(『原理講論』p547~8)

 

もし天使に堕落の責任がまったくないのであれば、復帰摂理に天使が関与する必要はありません。

天使にも一定の責任があったからこそ、復帰摂理にはアダムとエバと天使の三存在の関与が必要になるのです。

完成した人間を待ち望む万物世界

一般的なイメージとしては、サタンは悪の権化であり、極悪非道な存在で、人間にとって仇敵の中の仇敵というかんじかもしれません。

しかし、「統一原理」から見たとき、サタン自身が自分で愛の減少感を克服してその立場を離れることはできないのです。

人間を通して神様の愛を受けなければ、その減少感は満たされないのですから、サタンの運命は人間にかかっています。

イエス様が「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5:44)と言われた理由も、ここにあったと解釈することができます。

そして、ロマ書8章19~22節を見てみると、このような内容になっています。

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ロマ書8章19~22節)

 

この聖句の意味について、『原理講論』では次のように説明しています。

ロマ書八章19~22節には、サタン主管下にうめき嘆いている万物も、終末に至って火に焼かれてなくなるのではなく、創造本然の立場に復帰されることにより、新たにされるために(黙二一・5)、自己を主管してくれる、創造本然の神の子達が新たに復帰されて出現することを待ち望んでいると記録されている。(『原理講論』p146)

これは、万物が完成した人間の主管を受けることができず、サタンの主管を受けているため、そのサタンを追い払って、自分たちを主管してくれる創造本然の人間が現れることを願っているという意味なのである。(『原理講論』p116)

 

堕落に対する責任は天使にも人間にもあるのですが、真の愛という観点からみたとき、より人間の方に責任があると言うことができます。

そして、万物全体も人間が真の愛の実体として完成し、自分たちを主管してくれることを待ち望んでいるのです。

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