先回の記事(アダムとエバの堕落②)では、エバが霊的に堕落する過程について深掘りしました。
今回はアダムとエバの肉的堕落について深掘りするのですが、旧約聖書の「創世記」には、その時の詳細なやり取りが記録されていません。
神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムがなぜ堕落してしまったのか、この点を探っていくと、サタンの戦略が見えてきます。
エバがアダムを誘惑した動機
まず、エバがアダムを誘惑して肉的堕落してしまったその動機から確認してみます。
このように、肉的堕落の動機は「堕落によって生じた恐怖心から逃れたい」というものでした。
人間の第一の創造本性は、神様と同じ立場に立って考えることができるというものです。
しかし、霊的に堕落してしまったエバは、すでに自分を中心として考えるようになっていました。
そのため、霊的堕落に対する罪の意識から生じた恐怖心から、一刻も早く逃れたいという思いで心が一杯になってしまったのです。
この「恐怖心」自体は善でも悪でもないのですが、私たちが本然の立場に復帰するためにとても重要なことですので、次に「恐怖心」について理解しておきましょう。
天使長ルーシェルが抱いていた恐怖心
『原理講論』には、霊的堕落によってエバが天使長から恐怖心を相続したことは記述されているのですが、霊的に堕落する以前の天使長の恐怖心については明記されていません。
しかし、『原理原本』には天使長が抱いていた恐怖心について次のように記述されています。
天使長は、神様に許されていないことを自分がやろうとしていることに対して、すでに恐怖心を抱いていたのです。
この恐怖心を抱いたままエバを誘惑したため、非原理的な愛によって一体となってしまったエバにこの恐怖心が相続されてしまったわけです。
堕落によって否定的な情緒となった恐怖心
しかし、この恐怖心というものは本来、良心作用によって生じるもので、原理軌道から外れないよう警告してくれるものでした。
私たちの日常生活でも、恐怖心があるからこそ、危険な場所を避けたり、命にかかわるような危険な行為を踏みとどまることができます。
もしまったく恐怖心がなければ、私たちはすぐに死んでしまうでしょう。このことについて八大教材教本の『世界経典』の一部を引用します。
このように、本来は肯定的な情緒であった恐怖心が、堕落によって否定的な情緒になってしまったのです。
エバに誘惑されたときのアダムの状況
それでは、天使長から恐怖心を相続し、その恐怖心から逃れたいという思いで心が一杯だったエバから見て、アダムはどのような存在に見えたのでしょうか?
しかし、いくらエバから誘惑されても、アダムは神様から直接戒めのみ言を聞いていたはずです。
罪のない純真無垢だったアダムがどうして神様のみ言に背いてしまったのか、そのときの状況について文鮮明先生は次のように説明されています。
それでは、神様の「取って食べてはいけない」という戒めを知っているアダムは、エバが「取って食べなさい」と言ってきたときに何と言ったでしょうか。「ああ、それはいけない!」と言いましたが、そのように言いながらも取って食べてしまったのです。
エバは目を見開いて「取って食べなさい」と言い、アダムは「嫌だ、嫌だ」と言ったのですが、エバがすがりついて哀願してくるので、見るに見かねてしかたなく「好きなようにしなさい」と言ってしまったのです。(『文鮮明先生御言選集』265-36 1994.11.20)
あまりにしつこくエバが哀願してきたため、しかたなくアダムはエバの言うとおりにしてしまったということですが、この点をさらに深掘りしてみましょう。
アダムはなぜ堕落してしまったのか?
それでは、なぜアダムは誘惑してくるエバに「好きなようにしなさい」と言ってしまったのでしょうか?
先ほど紹介した文鮮明先生のみ言の続きには、次のようにあります。
肉的堕落のさいに展開したアダムとエバの争いが、今の私たちの心と体の争いの起源になったとあります。
この観点から霊的堕落と肉的堕落における神様、アダムとエバ、そして天使長の関係性を整理してみます。
霊的堕落:神様 → アダム → 分裂 ← エバ ← 天使長
肉的堕落:神様 → アダムの心 → 分裂 ← アダムの体 ← 堕落エバ
天使長の誘惑によってアダムとエバが分断されたように、エバの誘惑によってアダムの心と体が分断されたということになります。
このことから洞察できることは、「取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)と神様から直接聞いていたアダムの心に疑問が生じたということです。
どういうことかというと、実際に取って食べたエバが、死なずに自分にも取って食べるように誘惑してきたということです。
このときアダムは、「あれ? 神様は取って食べると死ぬと言われたのに、エバは死んでいないぞ。どういうことだろう?」と思ったはずです。
この瞬間、アダムの神様のみ言に対する絶対信仰が揺らぎ、そのため執拗に誘惑してくるエバの力を跳ね除けることができなくなってしまったのです。
このように、心の力が弱くなったことからアダムの心と体に隙間が生じ、その隙をつかれてエバはアダムの体を奪ってしまいました。
神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムが堕落するとすれば、そのみ言に対する信仰が弱くなるとき以外には考えられません。
堕落による死とは?
それでは、神様は取って食べても死なないのに、「取って食べたら死ぬ」と間違ったことを言われたのでしょうか?
この堕落における死について、『原理講論』では次のように説明しています。
創世記二章17節(文語訳)を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善悪の果について「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」と言われた。それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。
しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我々と同じく、依然として地上で肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである。
このような事実から見て、堕落によって招来したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管圏から、サタンの主管圏に落ちるという意味での死をいうのであることを、我々は明確に知ることができる。(『原理講論』p212)
聖書には生死の概念が2種類あり、一つは肉身の生死であり、もう一つは神の主管圏にいるかサタンの主管圏にいるかによって区別される生死の概念です。
堕落による死とは、まさにこのサタンの主管圏内に落ちてしまうという意味の死だったのです。
このようなアダムの堕落から分かることは、神様を信じている人が、その信仰を失うのは、み言と現実が一致しないときだということになります。
霊的に堕落したエバは、取って食べても死んでいない自分を見せることでアダムのみ言に対する信仰を揺らがせ、そのすきをついてアダムの体を奪ったのです。
この肉的堕落によって、本来は心が主体、体が対象の関係だったのですが、体が主体となり、ここから人間の心と体の闘いが始まるようになりました。
※「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」について
『原理講論』のこの箇所は、韓国語の聖書の創世記2章17節に「날에는(ナレヌン:日には)」と表記されているため、その表記に合わせるために文語訳を引用している。「日」という言葉が「…した日には」の形で使われるとき、通常は「…した場合には」という意味である。しかし、「날(ナル:日)」という言葉が記録されているところに神の啓示性を見ることができる。すなわち、善悪を知る木の実を食べたその日、その瞬間に霊的に死ぬ(神の主管圏内から離脱することを意味する)ことをこのような表現で伝えているのである。
み言と現実が一致しないときに信仰が揺らぐ
こちらの記事(イエス様の荒野での三大試練③第一試練「石をパンにかえよ」の意味)で、共産主義がキリスト教の懐から生まれたことを紹介しました。
その理由の一つに、この「み言と現実の不一致」というものがあると考えられます。
聖書には「神は愛である」(ヨハネⅠ4:8)とあるのに、現実には貧富の格差で多くの人が苦しんでいるという現実がありました。
そして、さらにキリスト教の信仰問題として、イエス様の再臨があります。
黙示録22:20に「『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」とあります。
しかし、聖書に「すぐに」とはありますが、あす来るとか来週来るなど、その時期については明言されていません。
イエス様も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ二四・36)と語られています。
そこで、少し観点を変えて考えてみると、地球の誕生から現在までの46億年を1年に換算した場合、人類の誕生は12月31日の午後11時37分だそうです。
ですから、たとえ数千年後にイエス様が再臨されたとしても、宇宙レベルの時間なら「すぐに」でも間違いではないでしょう。
ところが、堕落した人間は自分を中心に考える習性があり、恐怖心によってどうしても視野が狭くなってしまいます。
そのため、自分の生きているときに再臨が実現することを期待してしまいます。このことについて『原理講論』には次のように記述されています。
このようなみ言によって、イエスの弟子達もそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒達は、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼等は、常に終末であるという切迫感からのがれることができなかったのである。(『原理講論』p157)
イエス様の再臨を待望する思いが強ければ強いほど、それが実現しなかったときの失望感は強くなり、そこから信仰が揺らいでしまうことは多いにありえることです。
実際、19世紀末までイエス様の再臨は実現していなかったわけですから、堕落した人間の観点から見ると、キリスト教徒にとって「み言と現実の不一致」状態にあったと言えます。
このように、信仰者にとって、み言と現実が一致していないという状況に直面したとき、信仰の危機を迎えると言うことができるでしょう。
アダムとエバの堕落に見る3つの教訓
それでは、アダムとエバの堕落から見えてくる教訓を3つにまとめて紹介します。
教訓①霊的堕落は相手を、肉的堕落は時を間違えた
成長期間にいたエバが本来相対すべきはアダムで、またアダムは成長期間を終えるまで戒めのみ言を守るべきでした。
したがって、私たちの中には、知的に迷い、情的に混沌となったとき相対すべき相手を間違え、み言と現実が違ったときに時を間違えて、神様のみ旨から外れてしまいやすい堕落性があるということになります。
教訓②天使長とエバの霊的堕落の相対基準は過分な欲望
欲望自体は本然のものなので必要なのですが、それが自分を中心として過分な欲望になったとき、サタンと相対基準が結ばれて悪の勢力に侵入されてしまうということです。
教訓③サタンは主体と対象を分断させようとしてくる
サタンは、こうした本然の秩序を崩そうとして、アダムとエバ、そしてアダムの心と体など、主体と対象の関係を分断させようとします。
最初は霊的堕落のように、対象的存在に侵入して主体的存在に対して不信させ、次にその対象的存在を通して主体的存在の体に侵入しようとしてくるのです。
まとめ
アダムが堕落していなければエバの復帰は容易だったのですから、神様から直接戒めのみ言を聞いたアダムまで堕落してしまったことが、現在に至るまで全人類をサタンの支配下においてしまうことになりました。
アダムが堕落してしまった要因の一つに「み言と現実の不一致」という状況があり、このときをサタンは狙ってくるので、み言のとおりになっていない現実に直面したときは要注意です。