【今回深掘りする原理のみ言】
すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。(『原理講論』p121)

 

こちらの記事「統一原理」とは神様の心情と事情を教えてくれるもの【中編】で解説したように、神様の創造にも、堕落人間の復帰摂理にも心情的な観点と原理的な観点があります。

今回は、どのようなメシヤ観をもつかということに影響する原罪の概念について、神様の心情の観点から深掘りしてみたいと思います。

まず【前編】では、主な一神教が原罪についてどのような見解をもっているのかを比較しながら、「統一原理」の原罪観を解説します。

原罪について

(1)原罪に対する理解とメシヤ観

原罪を認めるか認めないかは、罪を贖うメシヤを必要とするかしないかという問題と直結するため、とても重要な問題です。

原罪を認めず、その罪を贖うために降臨するメシヤを信じていなければ、たとえ神様がメシヤを地上に送ってくださったとしても、その方をメシヤと認識することはできません。

また、原罪を認めていなくても、再臨思想がある宗教では、終末にメシヤが降臨することを信じています。

しかし、そのメシヤは、罪を贖うメシヤではなく、超人間的な英知と能力をもって現実の世界を変革する指導者になります。

ですから、原罪を認めるか認めないかによって、その人のメシヤ観に大きな影響を与えることになります。

(2)原罪を初めて認めた宗教はキリスト教

国語辞典で「原罪」という言葉の意味を調べてみると、次のように記載されています。

げんざい【原罪】
アダムが神に背いて犯した人類最初の罪(旧約聖書の創世記)。キリスト教では、人間は皆アダムの子孫として神からの乖離という虚無性を生来負うとされる。宿罪。
[広辞苑 第七版]

ここに記載されているように、「原罪」とはキリスト教で言うアダムとエバの罪のことです。

同じ一神教でも、ユダヤ教やイスラーム(イスラム教)には「原罪」という概念がなく、イエス様が降臨されたのち、キリスト教によって初めて原罪の存在が認められるようになったのです。

それでは、次に各一神教が原罪に対してどのような見解をもっているのかを調べてみましょう。

各一神教の原罪観

人類の歴史には数多くの宗教が誕生しましたが、多神教が先に誕生し、一神教があとから誕生しました。

その一神教には、主にユダヤ教、キリスト教、イスラームがありますが、それぞれの原罪に対する考え方は以下のようになっています。

(1)ユダヤ教の原罪観とメシヤ観

ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「原罪」の概念を採る説も一部にはあるのですが、多数派はそのような見解を否定しています。

そのため、ユダヤ教で言うメシヤは、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる英雄や指導者に近いものだったと言えます。

それでイエス様は「原罪」について明確に語ることができず、代わりに「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と婉曲な表現をされています。

また、イエス様は「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ福音書16章12節)とも語られています。

全人類の原罪を清算するために来られたにも関わらず、それを語ることができないイエス様の悲しい心情と事情が、このみ言の中に込められていることが分かります。

(2)イスラーム(イスラム教)の原罪観

イスラームには原罪という概念は存在せず、また過去に一度も教理や教義の一説として主張されたこともありません。

ただ、シーア派の多くの分派には「ガイバ」という思想があって、これは彼らの認める最後のイマームが死ぬことなく隠れており、この世の終末に「時の主」(救世主)となって現世に戻ってくると信じられています。

原罪という概念がないわけですから、この終末に来るとされている「時の主」は、ユダヤ教のメシヤ観と近いと考えることができます。

(3)キリスト教の原罪観

さきほどもお伝えしたように、原罪の存在を初めて認めた宗教はキリスト教なのですが、その初期には、原罪について様々な見解がありました。

両親の性交を原罪遺伝の機会として解釈したのはアウグスティヌスで、彼はアダムとエバが陰部を隠したのは性行為を行ったからであると解釈し、それを原罪としました。

これは、イエス様が十字架で亡くなってから約400年後のことであり、カトリック教会はオランジュ公会議(529年)で、この原罪に対するアウグスティヌスの解釈を承認しています。

プロテスタントも、教派ごとに様々な見解の差異はありますが、おおむねこのアウグスティヌスの解釈に従っています。

ただ、アウグスティヌスも、アダムとエバの性の問題がどのように子孫に遺伝するのか、その原理までは解明できなかったようです。

「統一原理」の原罪観

「統一原理」では、原罪を「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」(『原理講論』p121)と定義しています。

そして、すべての罪は原罪から生ずるとして、原罪をあらゆる罪の根であるとしています。

この「統一原理」の原罪観は、それまでのキリスト教の原罪観と比べると、血統的問題ということは共通していますが、他に異なる点が三つあります。

一つは、堕落を霊的堕落と肉的堕落に区別していること、そして罪を四つに分類していること、そして原罪と堕落性を区別していることです。

詳細は別の機会に譲りますが、「統一原理」では、罪を次のように定義しています。

サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。(『原理講論』p121)

 

「統一原理」でいう罪は、神様が定めた「天法」と人間の「行為」の間に発生する関係概念で、人間が行った「行為」そのものを意味するのではありません。

例えば、男女の性関係についても、「統一原理」では、その性の「行為」自体が罪になるのではなく、「天法」に違反する性の「行為」が行われたときに罪が成立するとしています。

ですから、アダムとエバの性関係が罪になったのは、「エバにとって創造本然の相対はアダムである」、「アダムとエバはそれぞれの責任分担を完遂してから夫婦になる」という、神様が「天法」として定めた本然の相手と時に違反したからです。

この「天法」と「行為」の関係概念について、『原理講論』には次のように記述されています。

サタンも、ある対象を立ててそれと相対基準を造成し、授受の関係を結ばなければ、その存在、および活動の力を発揮することができない。ゆえに、いかなる存在でも、サタンが侵入できる条件が成立し、サタンの相対となって、サタンが活動できるようになったときに、そこで罪が成立するのである。(『原理講論』p310)

サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。(『原理講論』p116)

 

このように、サタンの最終的な活動舞台は地上にいる人間の肉身であり、それによって「天法」に違反する「行為」が行われたときに罪が成立するのです。

文鮮明先生によって解明された「統一原理」によって初めて原罪の概念が明確になったわけです。

原罪を明確に知ることができるのはメシヤのみ

すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである。(『原理講論』p121)

 

このように、罪の根である原罪について知ることができるのは、それを清算するために降臨されるメシヤだけです。

『原理講論』が原罪をあらゆる罪の根に例えているのは、地上では見えないからという意味もあります。

原罪をもって生まれた人は、生まれたときからもっているのですから、それが罪なのかどうか明確には分からないでしょう。

『原理講論』のp23に「人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味する」とあります。

そして、「無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある」(『原理講論』p23)のですが、この内的な無知の中の一つが原罪に対する無知です。

原罪とは何か、原罪がなければどうなるのか、どうすれば清算できるのか、このようなことは原罪をもっていない人にしか分かりません。

ですから、原罪をもっている人が原罪のことを知るには、原罪のない神様とメシヤに教えてもらうしかないのです。

 

~【後編】につづく~

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