【今回深掘りする原理のみ言】
エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。(『原理講論』p127)

 

先回の「アダムとエバの堕落①」の記事では、エバが神様ではなく、アダムから戒めのみ言を聞いたことを説明しました。

そして、このことを天使長ルーシェルは知っていたので、これを利用してエバを誘惑してきました。

その結果、エバは天使長と霊的に堕落してしまったのですが、どのような過程で堕落したのかについて解説します。

天使長がエバを誘惑してきた動機

最初に、天使長であったルーシェルがなぜエバを誘惑してきたのか、その動機について確認します。

神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように(創一二・2)、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。(中略)このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。(『原理講論』p108~9)

 

このように、アダム・エバの創造前と同じように神様からの愛を独占する位置を保ちたいということが霊的堕落の動機でした。

知恵と欲望がある以上、神様から愛されたいという思いが生じるのは当然ですし、この思い自体は非原理的なものではありません。

しかし、神様の愛を自分が独占したいという思いは、愛に対する過分な欲望ですから、非原理的なものです。

こうして非原理的な欲望を抱いたルーシェルが、エバを誘惑していくようになります。

天使長はどのようにエバを誘惑してきたか

冒頭の序文で、「ルーシェルはエバがアダムから戒めのみ言を聞いたことを知っていた」と言いました。

どうしてそう言えるのかというと、ルーシェルがエバを誘惑するさいに、次のように語ったからです。

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。(創世記3:1)

 

天使長ルーシェルを象徴するへびが語ったこの「ほんとうに」という言葉がポイントです。

エバが神様から直接戒めのみ言を聞いていたのなら、最も狡猾だったというルーシェルがこのような言い方をするでしょうか?

サタンが誘惑してくるとき、断定的な表現で「これこれこうだ」と自分から結論を言うことはありません。

どこまでも人間自身が自分で神様のみ旨とは異なった方向に考えるように誘導してくるので、「~ではないですか?」と問いかけてくるのです。

このようにルーシェルは、エバが「取って食べてはいけないというのは、アダムが勝手に言ったことなのかもしれない」という不信の思いをもたせようとしたと洞察できます。

また、この問いかけからルーシェルがアダムではなく先にエバを誘惑してきた理由も見えてきます。

もしアダムに対して「ほんとうに神が言われたのですか」と言ったらどうなるでしょうか?

「いやいや、ほんとうもなにも、私は神様から直接聞きましたから」と言われて一蹴されてしまったはずです。

天使長に誘惑されたときのエバの心の状態

このルーシェルの誘惑の言葉に対して、エバは次のように答えています。

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。(創世記3:2~3)

 

エバは「神は言われました」と言っていますが、創世記では戒めのみ言を下さったあとにエバは創造されていますし、『原理講論』にはアダムがエバに戒めのみ言を伝えたとなっています。(『原理講論』p296)

ですから、エバはアダムから「神様がこう言われた」といって戒めのみ言を聞いたのです。

では、ルーシェルから誘惑されたときのエバは、どのような状況だったのでしょうか?

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。(創世記3:4~5)

 

アダムからは神様のみ言として「取って食べると死ぬ」と聞き、一方でルーシェルからは「取って食べても決して死なない」と、まったく正反対のことを聞いていました。

ですから、エバはこのとき、知的に迷わされ、心情的に混沌となってしまっていたわけです。

戒めのみ言を不信してしまったエバ

私たちが正反対の話を聞いたとき、自分で判断できればよいですが、知的にも心情的にも混沌となっていれば、何を基準にその正否を判断するでしょうか?

それは、その話をした人と自分との心情関係や信頼関係によって判断するのではないでしょうか。

話している内容が異なるとき、信頼できる人の方の話を受け入れやすくなるものです。

学生時代に、担当する先生が好きか嫌いかによってその学科の成績が上下したという経験がある人もいるのではないでしょうか。

また、職場でも、社長の方針や指示を直属の上司から聞いたとき、その上司との関係が良好だと社長の方針や指示を受け入れやすくなります。

しかし、反対に直属の上司とうまくいっていないと、その方針や指示に対しても反発したくなるものです。

ですから、エバが戒めのみ言を守るか、それとも誘惑の言葉に従うかの判断は、そのときにアダムとルーシェルのどちらと信頼関係があったかによって決まるということになります。

このときの状況について、文鮮明先生は次のように語られています。

アダムとエバの生活というのは男性と女性の生活です。女性は日陰に座って休もうとし、男性は動物などの万物を主管する主人にならなければならないので、春の季節になると野山を駆け回り、あらゆるものを探索しようとします。エバはついていけません。ですから、兄に当たるアダムについていこうとして、「お兄ちゃん、私も連れていって!」と言いながら毎日たくさん泣いていたのです。このようなエバと誰が友達になってくれたのかというと、天使長がなってくれました。(『文鮮明先生御言選集』272-297 1995.10.13)

 

このようにして、知的に迷わされ、心情的に混沌となっていたエバは、アダムより多くの時間を一緒に過ごしていたと思われるルーシェルの言葉を信じるようになったのです。

エバの霊的堕落に見る教訓

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)というルーシェルの誘惑の言葉を聞いたエバは、未完成の立場で神様のようになることを願いました。

もしこのとき、エバにアダムとの信頼関係ができていれば、「そんなによいものなら、アダムにも教えてあげよう」と考えて、アダムにも天使長の言うことを伝えていたはずです。

しかし、エバは、天使長が「あなたがた」と言っているのに、自分だけが神様のように善悪を知る者になろうと考え、アダムには何も伝えませんでした。

アダムとエバの間に心情的な隙間があることを知っていたからこそ、天使長は「あなた」と言わずにわざと「あなたがた」と言ったのです。

それは、エバの心に自分だけで独占したい、アダムを見返したいという思いを抱かせようという意図があったからです。

このようにして、時ならぬ時に時のことを望む過分な欲望を抱いたエバ(『原理講論』p291)と、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェル(『原理講論』p109)の間に相対基準が結ばれ、その授受作用によって生じた非原理的な愛の力によってエバは堕落線を越えてしまいました。

アダムとエバの責任分担の一つは、愛の減少感を抱き、愛に対する過分な欲望をもって誘惑してきたルーシェルを正しく主管することでした。

この場合、正しく主管するとは、神様がルーシェルを愛するのと同じように愛することだったと考えられます。

そうすることによってルーシェルの愛の減少感は満たされ、神様からも愛され、アダムとエバからも愛されるという、今まで以上に愛を受けることになっていたでしょう。

そして、ルーシェルから誘惑されたとき、エバは自分だけで判断せず、アダムと一緒に神様に相談してみるべきでした。

アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。この、尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。(『文鮮明先生御言選集』33-241 1970.8.16)

 

エバの霊的堕落の経緯から、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ1五・17)と聖書にあるように、神様と一問一答しながら生活することが、サタンの誘惑を退ける最善の道です。