【今回の原理のみ言】
士師時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。(『原理講論』p470)

 

今回は、新約時代の教区長制キリスト教会時代400年を蕩減復帰する「氏族メシヤ家庭教会時代」について解説します。

「氏族メシヤ家庭教会時代」は、真の父母様に従う信徒(祝福家庭)たちが家庭教会を中心に氏族メシヤとして立つ時代です。

この時代に起きた主な同時性的現象をピックアップして、それらを比較しながら検証してみたいと思います。

 

「氏族メシヤ家庭教会時代」の概要

最初に、教区長制キリスト教会時代400年の原理的な意味を『原理講論』から確認してみましょう。

形象的同時性の時代である復帰摂理時代のうち、士師を中心としてイスラエル民族を導いてきた士師時代の四〇〇年があったので、実体的同時性の時代である復帰摂理延長時代においても、この士師時代四〇〇年を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されたのち、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位するまでの、士師に該当する教区長によって導かれた、教区長制キリスト教会時代四〇〇年期間なのである。(『原理講論』p461)

 

この教区長制キリスト教会時代400年を実体的に蕩減復帰するのが「氏族メシヤ家庭教会時代」です。

具体的な年代で言うと、1960年の真の父母様の聖婚式から、2001年の神様王権即位式までの40年路程を意味します。

そして、この時代は、教区長制キリスト教会時代400年を10分の1の期間で蕩減復帰する路程で、これを年代別に区分するとおおよそ次のようになります。

 西暦401~500年 ⇒ 西暦1960~70年
 西暦501~600年 ⇒ 西暦1971~80年
 西暦601~700年 ⇒ 西暦1981~90年
 西暦701~800年 ⇒ 西暦1991~2000年

次に、新約時代の教区長成約時代の氏族メシヤに注目して、この時代の全体像を見てみましょう。

新約時代の教区長と成約時代の氏族メシヤ

教区長制キリスト教会時代は旧約時代の士師時代の摂理的同時性の時代ですが、この士師と教区長がどのような立場だったのかについて、『原理講論』には次のように記述されています。

 モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。
 彼ら士師たちは、次の時代において分担された預言者と祭司長と国王の使命を、すべて兼任していたのであった。それゆえに、ユダヤ教の封建社会は、このときから始まったのである。このような士師時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。(『原理講論』p470)

 

この時代の教区長は、預言者と祭司長と国王の使命を兼任していた士師と同じ立場で、キリスト教信徒を指導する立場にいました。

成約時代の摂理的同時性の時代で、この教区長と同じ立場にいたのが氏族メシヤです。

文鮮明先生は、1960年の聖婚式のあと、完成期の7年路程を歩まれ、その間に真の家庭を立て、多くの信徒たちを祝福家庭として立てました。

そして、この祝福家庭を氏族メシヤの立場に立て、各自の家庭と氏族を伝道する使命を下さいました。

ですから、祝福家庭は、自分たちの氏族の中で旧約時代の士師や新約時代の教区長のような立場に立っていたのです。

文鮮明先生が最初に氏族メシヤについて語られたのは、1967年の12月27日で、次のような内容でした。

第一次七年路程(一九六〇~六七年)は、氏族的なメシヤを立てるため、サタン世界から子女たちを奪い返し、彼らを祝福しなければならない期間です。その次の七年路程は、メシヤの使命をもって家庭に帰る期間です。そうすることによって、神様の第一祝福と第二祝福を復帰するようになるのです。(『文鮮明先生御言選集』19-73 1967.12.27)

 

しかし、旧約時代のイスラエル民族や新約時代のキリスト教徒たちと同様に、祝福家庭たちは、なかなか氏族メシヤとして勝利することができませんでした。

なぜかというと、かつてイスラエル民族やキリスト教徒たちが受けた試練と同じ試練を受けていたからです。

それでは、どのような試練を受けていたのか、『原理講論』から引用してみましょう。

 士師時代におけるイスラエル民族は、士師たちの指導に従って、幕屋から下されるみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはカナンの七族を滅ぼさないで、そのままにしておいたので、彼らから悪習を習い、偶像を崇拝するようになってしまい、その結果、彼らの信仰に、大きな混乱を引き起こしたのである。
 これと同じく、教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教信徒たちは、教区長の指導に従い、メシヤの形象体であると同時に、アベルを代理する条件物である、教会のみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはゲルマン民族から異教の影響を受けたために、彼らの信仰に、大きな混乱を引き起こすようになったのである。(『原理講論』p471~2)

 

成約時代におけるみ旨とは、真の父母から下された氏族伝道の使命完遂を意味しています。

しかし、このような試練によって氏族メシヤの摂理は延長され、文鮮明先生が最初に氏族メシヤについて指示された1967年以降、「家庭教会(ホーム・チャーチ)」「還故郷」といった摂理が継続されていきます。

1990年代に、氏族メシヤの使命完遂の期間について文鮮明先生は次のように語られています。

一九八八年から二〇〇〇年までの十二年間は、このことを成し遂げるべき使命時代です。先生の八十歳までです。ですから、氏族的メシヤが設定されたのです。世界的メシヤ、その次に国家的メシヤ圏に向かうために、氏族的メシヤを宣布したので、今から世界的メシヤ圏に氏族的メシヤを連結させる国家的メシヤ圏が展開するのです。そうして、天の国の一つの州と同じです。道(韓国の行政区画、日本の県にあたる)と同様の設定ができることによって、統一王国時代へと入っていくのです。(『文鮮明先生御言選集』202-255 1990.5.24)

 

2000年までに氏族メシヤが使命を完遂することによって、その基盤が一つの国の州や県のようになり、再臨のメシヤを中心とする王国ができるようになっていたのです。

それでは、次に、摂理的同時性の現象と考えられる出来事についてまとめてみたいと思います。

アウグスチヌスと真の父母様の聖婚式

「統一原理」では、旧約時代のモーセの立場を蕩減復帰する摂理的同時性の人物をアウグスチヌスとしています。

アウグスチヌスは、西暦391年に北アフリカのヒッポの教会司祭になり、396年には司教となります。

そして、430年に亡くなるまでの40年間、モーセがイスラエル民族を導いたように、教父としてキリスト教徒たちを指導しました。

中世におけるキリスト教の教義(ローマ・カトリック教義)の根本となった彼の教えの中で特筆すべきことの一つは、長成期完成級で起きたアダムとエバの堕落についてです。

アウグスチヌスは、アダムとエバが陰部を隠したのは性行為を行ったからであるとし、「統一原理」と同様に原罪を性の問題であることを明らかにしたのです。

『原理講論』にはこの問題について以下のように記述されています。

創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創三・7)。もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。しかるに彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。(『原理講論』p101)

 

このように、アダムとエバの堕落について、アウグスチヌスと「統一原理」の見解は一致しています。

そして、こういったアウグスチヌスの思想や業績と摂理的同時性の現象と考えられるのが、1960年4月11日(陰暦3月16日)に行われた真の父母様の聖婚式です。

アウグスチヌスの時代には、原罪とは何かを明らかにしましたが、救いにおいては霊的救いのみで、原罪はそのまま残されていました。

しかし、文鮮明先生が真の母を迎えて真の父母となられることによって、人間の原罪を清算し、神様の血統に転換される霊肉の救いの道が開かれました。

真の父母様の聖婚式以降、信徒たちは原罪を清算する祝福式を通して、条件的ではありますが、原罪のない祝福家庭になることができるようになったのです。

そして、1960年の聖婚式が原理的に見てどの基準なのかについて、文鮮明先生は次のように語られています。

一九六〇年が、いったいどの基準だったでしょうか? 堕落したアダム、エバの立場、長成期完成級の基準です。長成期完成級基準を中心として完成圏まで上がるには、七段階の七年の期間が必要です。(『文鮮明先生御言選集』22-197 1969.2.2)

 

このように1960年の聖婚式は長成期完成級の基準でしたので、文鮮明先生は、この後、真の家庭を立てるため7年の路程を歩まれることになります。

新約聖書の編纂と『原理講論』の発刊

旧約聖書と新約聖書について、『原理講論』には次のように記述されています。

エジプト苦役時代が終わったのち、モーセは、シナイ山で十戒とみ言を受けることによって、旧約聖書の中心を立て、また、石板と幕屋と契約の箱を受けることによって、第一イスラエル選民たちが、メシヤを迎えるための神のみ旨を立てていくようになったのである。
これと同じく、第二イスラエル選民たちは、ローマ帝国迫害時代が終わったのちに、旧約時代の十戒と幕屋理想とを霊的に成就するためのみ言をもって、使徒たちの記録を集め、新約聖書を決定し、そのみ言を中心とする教会をつくって、再臨主を迎えるための基台を広めていくようになったのである。(『原理講論』p469)

 

新約聖書が現在の27文書の構成に決定したのは4世紀末に行われたカルタゴ教会会議(397年)で、そののち5世紀に、西方を中心として教会全体に正典として承認されていきました。

この新約聖書制定から正典承認の一連の出来事に対する摂理的同時性の現象と考えられるのが『原理講論』の発刊です。

まず、文鮮明先生によって1952年5月10日に「原理原本」が執筆され、1957年8月15日に『原理解説』が発刊されました。

その後、1966年5月1日に韓国語版の『原理講論』が発刊され、翌年の10月2日に日本語版の『原理講論』が発刊されたのです。

『原理講論』は、新旧約の聖書とならんで統一教会の教典であり、文鮮明先生が晩年に定められた『八大教材・教本』に、文鮮明先生ご自身のみ言以外で唯一含まれている教典です。

西ローマの正帝消滅と「神の日」の宣布

キリスト教は、テオドシウス1世の治世のときに国教化(392年)されましたが、彼の死後、二人の息子たちによってローマは東西に分割統治されるようになります。

これは395年のことで、この時が西ローマの始まりとされ、その約70年後の476年、オドアケルにより西方正帝が消滅します。

一般的には、この時をもって古代の終わり、中世の始まりとされていて、歴史の大きな転換期でした。

これらの一連の出来事について、「統一原理」の観点から『原理講論』では次のように記述されています。

 キリスト教を迫害したローマ帝国は、四世紀末に至って、ついに、亡くなられたイエスの前に屈伏し、キリスト教を国教として定めたのであった。しかしながら、もし初めからユダヤ民族がイエスをメシヤとして信じ、彼に仕えて彼と一つになっていたならば、ローマ帝国を中心として地中海を基盤として成立していた古代の統一世界は、当然生きておられるイエスによって感化され、彼を王として信奉し、エルサレムを中心とする王国を建設し得たはずであった。
 しかし、ユダヤ民族は、不信仰に陥って滅亡してしまい、メシヤ王国のための土台となるべきであったローマ帝国も、次第に衰えはじめ、西暦四七六年には、西ローマがゲルマンの傭兵隊長であるオドアケルによって滅ぼされてしまったのである。このようにして、神の復帰摂理は、恨みの地ユダヤより、西ローマの版図であった西欧に移されていったのである。(『原理講論』p492)

 

かつてキリスト教を過酷に迫害していた西ローマの皇帝が消滅することによって、神様の復帰摂理の舞台がその西ローマの版図であった西欧に移されたわけです。

成約時代においてこれと摂理的同時性の現象と考えられるのが、文鮮明先生が1968年1月1日に行われた「神の日」(後に「真の神の日」に改称)宣布です。

「神の日」とはどのような日かというと、神様が地上に臨在できる基準が決定されたことを宣布した日です。

文鮮明先生は、1960年から完成期の7年路程を歩みながら多くの信徒たちを祝福し、その勝利基盤の上で「神の日」を宣布されたのです。

この「神の日」は、神様が地上で自由に役事される基盤が築かれたという、復帰摂理史においてとても重要な転換点となりました。

ゲルマン民族のキリスト教社会と統一教会

教区長制キリスト教会時代になって封建社会が形成されるようになると、宗教と政治と経済がそれぞれ別々の発展過程を経ていくようになります。

歴史の発展過程において、氏族社会の次にくるものは、封建社会である。このような原則によって、西ローマ帝国の滅亡と前後して王権が衰退してしまい、国家が無秩序な状態に陥ったとき、封建社会が形成されはじめたのである。このときから西ヨーロッパのキリスト教社会は、宗教と政治と経済とが分化され、各々が相異なる発展をしていくようになったのである。(『原理講論』p499)

 

これは、特に新しく福音が伝播されることによって新しい選民となったゲルマン民族の社会で展開されるようになりました。

神は、ゲルマン民族を、新しい選民として教化され、封建社会を樹立されることにより、衰亡した西ローマ帝国の土台の上に、宗教と政治と経済の三面にわたる、小単位の天の側の版図を強化し、将来、天の側の王国を建設するための基台を、準備することができたのである。(『原理講論』p499)

 

これを蕩減復帰する成約時代においては、祝福家庭を中心とする統一教会において、宗教分野の統一教会、政治分野の勝共連合、経済分野の統一グループに分かれて摂理が展開していくようになりました。

この宗教と政治と経済が、一つの理念を中心として完全に一致した方向に向かって発展することによって「再臨されるメシヤのための基台」をつくるというのが神様のみ旨でした。

まとめ

 

【教区長制キリスト教会時代と氏族メシヤ家庭教会時代の同時性的現象】

①391~430年 アウグスチヌスが教父として活躍
⇒ 1960年 文鮮明先生が聖婚式により真の父母となられる

②397年~5世紀 新約聖書の制定と普及
⇒ 1966~7年 『原理講論』の発刊

③476年 西ローマの正帝消滅
⇒ 1968年「神の日」の宣布

 

以上で「氏族メシヤ家庭教会時代」の解説を終ります。次回は「天一国時代」についての解説になります。

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