【新約時代のローマ帝国迫害時代について
ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。(『原理講論』p460)

 

今回は、新約時代のローマ帝国迫害時代400年を蕩減復帰する成約時代の「日帝及び基督教迫害時代」について解説します。

新約時代の「ローマ帝国迫害時代」は、霊的なイエス様を中心とするキリスト教が、ローマ帝国や他宗教からの迫害と試練を受けながら基盤を広げ、ローマ帝国の国教となる時代です。

成約時代の「日帝及び基督教迫害時代」は、日本帝国の統治下にあった朝鮮半島で、再臨主が日本帝国や共産主義勢力、そしてキリスト教から迫害を受けながら、真の母を迎え、キリスト教信徒たちに代わる選民として祝福家庭を立てるまでの時代です。

それでは、再臨主である文鮮明先生の歩みを中心に、この時代に起きた主な摂理的同時性の史実をピックアップし、それらを比較しながら検証してみたいと思います。

第1節 「日帝及び基督教迫害時代」の概要

(1)「日帝及び基督教迫害時代」の年代区分

最初に、ローマ帝国迫害時代400年の原理的な意味を『原理講論』から確認してみましょう。

 イエスは、信仰の祖であるアブラハムの目的を完成なさるために来られた方である。ゆえに、アブラハムが「象徴献祭」に失敗したことが原因となって成就できなかった「信仰基台」を、民族的に蕩減復帰するため、イスラエル民族にエジプト苦役四〇〇年のサタン分立期間があったように、ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。(『原理講論』p460)

 

このローマ帝国迫害時代400年を実体的に蕩減復帰するのが「日帝及び基督教迫害時代」です。

具体的な年代で言うと、再臨のメシヤが降臨された1920年から1960年までの40年路程を意味します。

したがって、この時代は、新約時代のローマ帝国迫害時代400年を10分の1の期間で蕩減復帰する路程になるのですが、これを年代別に区分するとおおよそ次のようになります。

 西暦1~100年 ⇒ 西暦1920~30年
 西暦101~200年 ⇒ 西暦1931~40年
 西暦201~300年 ⇒ 西暦1941~50年
 西暦301~400年 ⇒ 西暦1951~60年

(2)成約時代におけるローマ帝国の立場は日本帝国

旧約時代は、アブラハムの「象徴献祭」の失敗により、ヤコブの家庭がエジプトに入って400年間の蕩減復帰路程を歩みながら、メシヤを迎えるための民族基盤を形成していきました。

新約時代は、イスラエル民族がイエス様を十字架にかけることによって民族的な献祭に失敗し、キリスト教信徒たちがローマ帝国で400年間の蕩減復帰路程を歩みながら伝道活動を行い、メシヤ再臨のための霊的な基台を造成していきました。

成約時代において、旧約時代のエジプト、新約時代のローマ帝国の立場にあったのが日本帝国でした。

エジプトと同じように、ローマ帝国と日本帝国はいずれも多神教の国家で、そのなかで選民たちが40数の蕩減復帰路程を経たのち、その苦役や迫害から解放されていきました。

(3)ローマ帝国と日本帝国に起きた国家的危機の同時性

ローマ帝国には「3世紀の危機」と言われる混乱の時代があり、セウェルス朝の終焉から軍人皇帝時代、そしてディオクレティアヌス帝の即位までの約50年間(235年~284年)がその時代です。

この間にローマ帝国は、皇帝の乱立や異民族の侵入が頻発するなど、未曾有の混乱が続き、その権力構造が大きく変化しました。

日本帝国においては、「3世紀の危機」の時代と摂理的同時性の時期となる1941年から45年に第2次世界大戦が起きています。

それを前後して、日本帝国は国家的な大変革の時期を迎え、ローマ帝国の「3世紀の危機」と同様に混乱の時代を経ています。

このような立場にあった日本帝国の統治下にあった朝鮮半島に、再臨のメシヤが降臨され、苦難の路程を歩まれることになります。

第2節 メシヤの降臨と帝国による宗教迫害

(1)メシヤ降臨当時の状況

長い期間、他国の属国であったユダヤ民族は、紀元前164年にユダヤ国家(ハスモン朝)を建国して独立します。

しかし、紀元前67年に女王サロメ・アレクサンドラが亡くなったのち、その息子ヒュルカノス2世(兄)とアリストブロス2世(弟)が対立し内戦状態となりました。

紀元前63年、兄ヒュルカノス2世の軍に包囲された弟のアリストブロス2世は、ローマの将軍ポンペイウスに加勢を求め、これをきっかけにその後、ユダヤの地はローマ帝国の保護領となり、ユダヤ民族は再び従属民となります。

初臨のメシヤであるイエス様は、ローマ帝国の属国となったユダヤの地に誕生されました。

これと同じように、1920年、当時「韓国併合」(1910年)により日本帝国の統治下にあった朝鮮半島の平安北道定州に再臨のメシヤである文鮮明先生が誕生されたのです。

(2)帝国による宗教迫害

ローマ帝国は、当初、他の宗教と同様に、キリスト教に対して寛容な姿勢をとっていました。

ローマ帝国がキリスト教に対して迫害するようになった主な理由の一つに、ローマ法に従わず皇帝崇拝を受け入れなかったことがあります。

日本帝国の統治時代も、朝鮮半島のキリスト教信徒たちに対して神社参拝が強要され、拒否する信徒たちは投獄されたりもしました。

このキリスト教信徒に対する神社参拝について文鮮明先生は次のように語られています。

 その当時の韓国の実情は、日本統治下において神社参拝の問題がありました。この神社参拝の問題を中心として、神社参拝をしないすべてのキリスト教徒たちは地下に入っていき、神社参拝をした人たちは、みなそのままいるようになったのです。地下に入っていった神社参拝をしない人たちと、神社参拝をして日本帝国に協助した人たち、これがアベル・カインです。キリスト教もアベル・カインに分かれました。(『文鮮明先生御言選集』143-128 1986.3.17)

 

神様の摂理から見たとき、再臨主のために準備されたキリスト教の中でも、神社参拝を拒否する教団がアベル圏、神社参拝に従った教団がカイン圏となります。

第3節 聖霊の降臨と最初の真の母の復帰

(1)聖霊の降臨と最初の真の母

イエス様が十字架で亡くなられたのち、霊的路程として出発した第3次世界的カナン復帰路程の概要について、『原理講論』には次のように説明されています。

 イエスは復活されるとまた、彼らを再びひとところに集められ、霊的カナン復帰の新しい摂理を始められたのである。弟子たちは、イスカリオテのユダの代わりにマッテヤを選んで、十二弟子の数を整え、復活されたイエスを命を懸けて信奉することにより、「霊的な実体基台」を造成し、それによって「メシヤのための霊的な基台」を復帰した。
 そこでイエスは、この基台の上で、霊的な洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的なメシヤの立場を確立し、聖霊を復帰することによって、霊的な真の父母となり、重生の摂理をされるようになったのである。(『原理講論』p424~5)

 

使徒行伝2章1節から4節にあるように、五旬節に聖霊が降臨し、霊的な真の父母によって霊的に重生された信徒たちを中心としてキリスト教が出発しました。

成約時代においては、文鮮明先生が日本留学から帰国されたのち、1943年12月に崔先吉女史と約婚し、1944年5月4日に結婚式をされています。

これによって、イエス様のときには霊的な真の母である聖霊を迎え、霊的な真の父母を中心として新たな摂理が出発しましたが、再臨主のときには実体で真の母を迎え、実体の真の父母を中心とする新しい摂理を出発することができたのです。

(2)最初の真の母崔先吉女史と崔氏について

この時代のキリスト教のアベル圏は神社参拝を拒否した教団なのですが、そのなかに再建教会という教団があり、この再建教会は、以下のみ言にあるように崔先吉女史が生まれた崔氏から始まりました。

 聖進の母方の祖母の家は、信仰的にとても熱烈な家庭でした。再建教会はその家から出発しました。そのとき、その母と娘は、霊界に通じる人たちでした。霊界からすべて教えてくれるのです。先生と出会うようになったのも、すべて霊界から教えてくれて出会うようになったのです。(『文鮮明先生御言選集』164-127 1987.5.10)

 

このように、崔氏の一族は、キリスト教のアベル圏に属する家系で、崔先吉女史自身も、篤実なキリスト教の信仰者でした。

文鮮明先生は、崔先吉女史について新約の信仰者として代表的な女性だとして、次のように語られています。

 聖進の祖母と母は積極的な神霊派です。高麗派や再建教会を援助した人たちです。地下運動をしながら啓示を受け、逃亡暮らしをしていました。聖進の母も信仰のために獄中生活をしたのです。高等学校時代に獄中生活をした人だというのです。
 ですから、徹底しています。聖書を毎日5章読まなければ、御飯も食べず、眠ることもしません。また、祈祷も2時間しなければなりません。ですから、すべて(啓示を)受けるのです。(『文鮮明先生御言選集』334-271 2000.9.30) 聖進の母も、約婚当時に4時間以上、試験をしました。聖書について尋ねてみると、精通していました。それで驚いたのです。そのような意味で、新約の信仰者としては代表的な女性です。信仰のために監獄生活までしたのです。
 私がその女性に関心をもったのは、その女性が日本統治時代に、信仰のために監獄生活までしたからです。それを知って私は関心をもったのです。そうでなければ、関心ももたなかったでしょう。(『文鮮明先生御言選集』163-256 1987.5.1)

 

このように、天が準備したアベル圏のキリスト教に、再臨主に新婦を捧げる使命をもつ崔氏の一族がいて、そこに真の母となる崔先吉女史がいたのです。

ところが、天が再臨主のために準備した崔氏も、最初の真の母となった崔先吉女史も、その責任分担を果たすことができず、再臨主を不信し、反対する道を歩んでしまうようになります。

第4節 最初の真の母と崔氏一族の不信

再臨されたメシヤの最初の摂理が失敗したのは、当時の韓国政府や崔氏の一族を初めとするアベル圏キリスト教、そして崔先吉女史が責任を果たせなかったことにその理由があります。

(1)カイン圏のキリスト教信徒を登用した韓国政府

1945年8月15日の終戦により、日本帝国の統治から解放された朝鮮半島は、北はソ連軍が、南はアメリカ軍が軍政を開始しました。

このとき、天の摂理から見れば、アベル圏である神社参拝を拒否したキリスト教の牧師や指導者たちが登用されるべきでしたが、実際にはそのようにならなかったことが次のみ言から分かります。

 韓国で軍政をするとき、ホッジ(当時のアメリカ軍政庁長官)などのような人たちが、キリスト教の人士を間違って用いたのです。政治に理解があるということで、神社参拝をする問題で日本人と結託していた人たちを用いたのです。そのときに監獄から出てきた牧師や、地下にいた人たちを用いて連結していかなければならないのです。
 根本的に見れば、誰がカインかというと、神社参拝した牧師たちがカインであり、地下で苦労した牧師たちがアベルということです。それが一つになりえる基盤をつくってあげることができなかったのです。(『文鮮明先生御言選集』193-191 1989.10.4)

 

この状況はその後の李承晩大統領の政権になっても変わらず、神社参拝をしたキリスト教のカイン圏勢力が政権の中枢を担ったのです。

結局、解放後の軍政も独立した韓国政府も、イエス様の時代のイスラエル国と同じように、神様のみ旨と再臨主に反対する立場となり、再臨期の復帰摂理を大きく遅らせる要因となりました。

(2)崔先吉女史と崔氏一族の不信

文鮮明先生とキリスト教のアベル圏は、崔先吉女史と崔氏の一族を通して一つになる道が準備されていました。

しかし、次のみ言にあるように、崔先吉女史が文鮮明先生と一つになれず、崔氏一族も再臨主に反対する立場になってしまいます。

 聖進の母親の名前は崔先吉です。崔氏が問題です。それから崔聖模(チェ・ソンモ)という人がいます。韓国が貧しい国家の復興期だった当時において、崔聖模は韓国の第一人者でした。崔聖模さえ一つになっていれば、統一教会は、迫害を受けることもなく世界的な宗教になっていたはずです。梨花女子大事件も起こらず、延世大事件も起こらなかったのです。
 聖進の母親の叔父が崔聖模です。1955年の事件を誰が起こしたかというと、崔聖模が起こしました。崔氏が先生を監獄にほうり込んだのです。内務部長官と手を組んで、統一教会をなくしてしまおうとしたのです。(『文鮮明先生御言選集』214-343 1991.2.7)

 

この崔先吉女史の叔父崔聖模という人物は、63ビルを建設したことで知られる新東亜グループ(1953年設立・1999年解体)の創業者です。

もし文鮮明先生と崔氏一族が一つになってれば、キリスト教との一体化はもちろん、神様のみ旨を中心にときの政権や経済界と一つになれる道も準備されていたのです。

 文鮮明先生⇒崔先吉女史⇒崔氏⇒再建教会⇒キリスト教⇒韓国政財界

(3)崔先吉女史の不信とその理由

それでは、新約の信仰者としては代表的な女性でもあった崔先吉女史が、なぜ文鮮明先生を不信し、統一教会に反対するようになったのでしょうか。

文鮮明先生のみ言によると、一つはメシヤの地上誕生に対する信仰問題、もう一つは真の母の立場に立って信徒たちを愛せなかったことが大きな理由だったことが分かります。

 

①メシヤの地上誕生を受け入れることができなかった

まずメシヤの地上誕生に対する信仰問題について、文鮮明先生のみ言を確認してみましょう。

 (聖進の母は)聖書を詳しく知っています。1日に聖書を5章以上読まなければ眠らず、祈祷も2時間以上しなければ眠りません。ですから、すぐに啓示を受けてはっきりと知っているのです。すべて教えてくれます。夫に従っていかなければならないと教えてくれるのです。しかし、母親と再建教会にいたので、主が人として来ることを信じられないのです。私が「主は人として来なければならない」と言えば、「それはちがいます」と言うのです。(中略)
 「いくら聖書を見ても、雲に乗って来るのであって、人として来るという言葉はありません」と言いました。それは、祈祷しても、霊界から「人として来る」とは教えてくれません。それはその人の5パーセント(の責任分担で悟ること)です。それで自分の我を張ったのです。(『文鮮明先生御言選集』163-248 1987.5.1)

 

『原理講論』のp568に「今日に至るまで、聖書の文字のみにとらわれ、イエスが雲に乗って来られると断定する立場から聖書を読んできたので、聖書もそのように見えた」とあるように、篤実なキリスト教の信仰者であるほど、このイエス様の肉身誕生による再臨問題で躓きやすいと言えます。

このようなメシヤの地上誕生の問題は、イエス様の時代にも起きていたことが『原理講論』にも記載されています。

 イエスの初臨のときにも、多くの学者たちは、メシヤがユダヤのベツレヘムで、ダビデの子孫として生まれるということを知っていたのである(マタイ二・5、6)。
 しかし一方、ダニエル書に「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル七・13)と記録されているみ言により、メシヤが雲に乗って降臨されるかもしれないと信ずる信徒たちもいたであろうということは、推測するに難くないのである。
 それゆえに、イエスが十字架で亡くなられたのちにおいても、ユダヤ人たちの中には、地上で肉身をもって生まれたイエスがメシヤになり得るはずはないと言って、反キリスト教運動を起こした者たちもいたのであった。(『原理講論』p564)

 

聖書に精通し熱心な信仰者だった崔先吉女史も、新約時代のユダヤ教徒たちと同じ道を行ってしまったのです。

崔先吉女史は、夫として文鮮明先生に侍ることはできても、再臨のメシヤとして受け入れ、侍ることはできなかったということです。

 

②真の母の立場で信徒を愛することができなかった

崔先吉女史が文鮮明先生に反対するようになったもう一つの理由は、真の母の立場に立って信徒たちを愛せなかったことです。

このことについて語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 聖進の母(崔先吉女史)が言うには、統一教会の原理が言う主が文先生なら、自分はそのようには侍らないというのです。統一教会の人たちを見ると、みな異端だというのです。自分が知るところによれば、主にはこのように侍らなければならないと思っているのに、そのような原則や聖書観を通して見ても、このように侍ってはいけないというのです。0点だということです。(中略)
 統一教会の人たちが乞食のように座っているのを見て、これではいけない、自分の人生が台無しになるのは明らかだというのです。この夫を迎えるために、冒険もして基盤を築いたのに、家庭破綻させてしまうのは明らかだということで、来る人たちを追い帰して来れないようにしました。
 それでもだめなので、破綻させるために西大門刑務所に訴え、釜山北部警察署に訴えました。「私の夫は今後、キリスト教を滅ぼし、世界を滅ぼす元凶になるので、この人をそのままにしておいてはいけない。どうか連れていって閉じ込め、殺すなり何なりしてほしい」と、そのように積極的に反対しました。こうして統一教会に反対するようになったのです。(『文鮮明先生御言選集』163-248 1987.5.1)

 

このように、最初の真の母として立てられた崔先吉女史は、文鮮明先生を再臨のメシヤとして受け入れることができず、真の母の立場で信徒たちを愛することができませんでした。

そのため、文鮮明先生は、神様のみ旨をとるか、ご自身の家庭をとるかの岐路に立つようになり、次のみ言にあるように、神様のみ旨を中心として新たな道を行かれるようになったのです。

 聖進の母が私を引っ張っていこうとしたのです。反対でしょう? エバがアダムを引っ張っていったのと同じように、第3次アダム時代においても、聖進の母が神様のみ旨の中にいる私を引っ張っていこうとしたというのです。引っ張っていかれてはいけません。引っ張っていかれれば大変なことになります。完全に跡形もなく壊れていってしまうのです。
 そうなれば、統一教会の原理に解かれた3次アダム完成基盤が地上に確立されるという論理は、仮にあったとしても嘘になってしまいます。そのようにはできないというのです。家庭をすべて捨ててでも、原則を立てなければならない天の道が残っているのです。それで、天を中心として、すべて捨てて先生は出ていきました。(『文鮮明先生御言選集』163-256 1987.5.1)

(4)キリスト教が再臨主に不信し反対した結果

『原理講論』のp428に「創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっている」とあります。

一方で、第二イスラエルのキリスト教が再臨主を不信してしまった場合にどのようになるのか、『原理講論』には次のように記述されています。

 再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。(中略)
 イエスは初臨のときに、彼のために召命された第一イスラエル選民を捨てられ、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立て、新しい霊的な摂理路程を歩むほかはなかったのと同様に、再臨のときにも、キリスト教信徒たちが不信に陥るならば、彼らを捨てて新しく第三イスラエルを立て、実体的な摂理路程を成就していくほかはない。(『原理講論』p427)

 

実際には、イエス様の時代のユダヤ教と同様に、キリスト教は再臨主と一つになることができず、不信して選民の立場を離れてしまいました。

その結果、イエス様が亡くなったあとのキリスト教信徒たちのように、再臨主とその信徒たちも、実体で苦難の路程を歩まざるを得なくなり、復帰摂理は延長することになってしまったのです。

第5節 再臨主の苦難と第3イスラエルの召命

(1)「最後の大迫害」と「興南監獄の受難」

ローマ帝国迫害時代のキリスト教に対する迫害は、400年の間、継続していたわけではなく、迫害が激しい時とそうでない時がありました。

「最後の大迫害」と言われているのがディオクレティアヌス帝とガレリウス帝が統治していた時代の迫害です。

ディオクレティアヌスは、303年にローマ全土に対して、キリスト教徒の聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。

これによりキリスト教徒への迫害が全土で行われ、聖書が燃やされたり、教会の財産が没収されたりしました。

この迫害はガレリウス帝が退位する311年まで続き、抵抗するキリスト教信徒は円形闘技場で公開処刑されるなど、数千人のキリスト教徒が犠牲になったとされています。

この「最後の大迫害」と摂理的同時性の史実と考えられるのが、文鮮明先生が歩まれた興南監獄(徳里特別労務者収容所)での受難路程とそこからの解放です。

文鮮明先生は、当時の北朝鮮政府の宗教弾圧政策により、韓国スパイの容疑をかけられ、裁判で有罪判決を受けられました。

この裁判では、共産党に協力するキリスト教の牧師たちが証人として法廷に立ち、文鮮明先生に対してありとあらゆる誹謗中傷をしたのです。

この結果、文鮮明先生は、1948年5月20日から1950年10月14日に解放されるまで、興南監獄で受難の路程を歩まれることになりました。

興南監獄での生活は過酷を極めましたが、ローマ帝国迫害時代の「最後の大迫害」の時期にあたる1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発しました。

すると、UN軍によって興南一帯が爆撃され、興南監獄の囚人たちが北朝鮮政府によって戦場に送られるなど、文鮮明先生は命の危険にされされることになったのです。

そして、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって(313年)、キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害から解放されたように、1950年10月14日、文鮮明先生は興南監獄から奇跡的に解放されることになります。

(2)「世界基督教統一神霊協会」の創立

興南監獄から解放された文鮮明先生は、第2イスラエルであったキリスト教に代わる第3イスラエルを探したてることになります。

それが、興南監獄から解放されてから43カ月後の1954年5月1日に創立された「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)です。

「世界基督教統一神霊協会」は、325年に開かれたニカイア公会議で異端とされたアリウス派と同じように、これ以降、キリスト教から異端視され、キリスト教界から迫害を受けることになるのです。

そして、アリウス派の信仰がゲルマン民族に広まったように、「世界基督教統一神霊協会」の信仰は、正統派のキリスト教徒よりも、主に異端とされる教派や異教の人たちに広まっていくようになります。

(3)アリウス派と統一教会

ニカイア公会議では、父と子は「同一の本質」(ギリシャ語でHomousios)であるとし、父も子(キリスト)も同じ神だとするアタナシウスの主張が正統とされました。

そして、父と子は「類似した本質」(ギリシャ語でHomoiusios)であるとし、子(キリスト)も被造物であるから、父と子は同等ではなく、完全に同一ではないとするアリウスの主張を異端としました。

「統一原理」はアリウスの主張と同様、イエス・キリストは神の子ではあるが神ご自身ではないとしていることから、キリスト教と統一教会は、正統とされたアタナシウス派と異端とされたアリウス派の関係と同じと言えます。

このアリウス派の信仰がゲルマン民族に布教されたのは、西暦340年頃、ゴート人のウルフィラ司教が聖書をゴート語に翻訳し、西ゴート族に広めたときからです。

これはイエス様の降臨から340年後のことで、再臨主の降臨から34年後の1954年に「世界基督教統一神霊協会」が創立されたことと摂理的同時性の史実となります。

まとめ

【日帝及び基督教迫害時代】(1920年~1960年)

「日帝及び基督教迫害時代」は、再臨主と彼に従う成約時代の聖徒たちが、日本帝国やキリスト教からの迫害を受けながら蕩減復帰路程を歩み、成約時代の選民である祝福家庭のための基台を造成する時代となりました。

文鮮明先生は、この「日帝及び基督教迫害時代」に想像を絶する苦難の路程を歩まれたのち、1960年に韓鶴子女史を真の母として迎えて「聖婚式」をされ、再び実体の真の父母となられます。

そして、第2イスラエルのキリスト教信徒に代わる第3イスラエルとして、祝福家庭を立てていかれるようになります。

 

【ローマ帝国迫害時代と日帝及び基督教迫害時代の摂理的同時性の史実】

①235年~284年 ローマ帝国の「3世紀の危機」
  ⇒第2次世界大戦前後の日本帝国の国家存亡の危機

②303~311年「最後の大迫害」
  ⇒ 1948~50年「興南監獄の受難」

③340年 アリウス派のゲルマン民族布教
  ⇒ 1954年「世界基督教統一神霊協会」の創立

 

以上で「日帝及び基督教迫害時代」の解説を終ります。次回は「氏族メシヤ家庭教会時代」についての解説になります。

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