【今回の原理のみ言】
ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。(『原理講論』p460)

 

今回は、新約時代のローマ帝国迫害時代400年を蕩減復帰する「キリスト教迫害時代」について解説します。

「キリスト教迫害時代」は、キリスト教徒たちがローマ帝国から迫害されたように、再臨主及びその信徒たちが共産主義勢力とキリスト教から迫害される時代です。

それぞれの時代に起きた主な同時性的現象をピックアップして、それらを比較しながら検証してみたいと思います。

「キリスト教迫害時代」の概要

最初に、ローマ帝国迫害時代400年の原理的な意味を『原理講論』から確認してみましょう。

イエスは、信仰の祖であるアブラハムの目的を完成なさるために来られた方である。ゆえに、アブラハムが「象徴献祭」に失敗したことが原因となって成就できなかった「信仰基台」を、民族的に蕩減復帰するため、イスラエル民族にエジプト苦役四〇〇年のサタン分立期間があったように、ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。(『原理講論』p460)

 

このローマ帝国迫害時代400年を実体的に蕩減復帰するのが「キリスト教迫害時代」です。

具体的な年代で言うと、再臨のメシヤが降臨された1920年から、真の父母様の聖婚式を迎える1960年までの40年路程を意味します。

そして、この時代は、新約時代のローマ帝国迫害時代400年を10分の1の期間で蕩減復帰する路程で、これを年代別に区分するとおおよそ次のようになります。

 西暦1~100年 ⇒ 西暦1920~30年
 西暦101~200年 ⇒ 西暦1931~40年
 西暦201~300年 ⇒ 西暦1941~50年
 西暦301~400年 ⇒ 西暦1951~60年

第二イスラエルのキリスト教が責任分担を果たせなかった結果

『原理講論』のp428に「創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっている」とあります。

もし再臨主と第二イスラエルのキリスト教が一つになっていれば、神様のみ旨が成就され、「成約時代の摂理的同時性」のような延長路程はなかったでしょう。

一方で、第二イスラエルのキリスト教が再臨主を不信してしまった場合にどのようになるのか、『原理講論』には次のように記述されています。

再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。(『原理講論』p427)

 

実際にはどうなったのかというと、イエス様の時代のユダヤ教と同様に、キリスト教は再臨主を受け入れず、不信して自らの位置を離れてしまいました。

その結果、復帰摂理はどのようになったのか、再びイエス様の時代を確認してみましょう。

イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代四〇〇年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、四〇〇年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。(『原理講論』p468)

 

イエス様が亡くなったあとのキリスト教信徒たちのように、再臨主とその信徒たちも、実体で苦難の路程を歩まざるを得なくなり、復帰摂理は延長することになってしまったのです。

「最後の大迫害」と「興南監獄の受難」

「最後の大迫害」

ローマ帝国迫害時代のキリスト教に対する迫害は、400年間ずっと継続していたわけではなく、迫害が激しい時とそうでない時がありました。

特に有名なのがネロ帝の時代の迫害で、この迫害によって初代ローマ教皇のペトロは殉教しています。

そして、「最後の大迫害」と言われているのがディオクレティアヌス帝とガレリウス帝が統治していた時代の迫害です。

ディオクレティアヌスは、303年にローマ全土に対して、キリスト教徒の聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。

これによりキリスト教徒への迫害が全土で行われ、聖書が燃やされたり、教会の財産が没収されたりしました。

この迫害はガレリウス帝が退位する311年まで続き、抵抗するキリスト教徒は円形闘技場で公開処刑されるなど、数千人のキリスト教徒が犠牲になったとされています。

「興南監獄の受難」

この「最後の大迫害」と摂理的同時性の現象を考えられるのが、再臨主でいらっしゃる文鮮明先生が歩まれた「興南監獄の受難」路程です。

文鮮明先生は、当時の北朝鮮政府の宗教弾圧政策により、韓国のスパイ容疑をかけられ、裁判で有罪判決を受けられました。

この裁判では、共産党に協力するキリスト教の牧師たちが証人として法廷に立ち、文鮮明先生に対してありとあらゆる誹謗中傷をしたのです。

この結果、文鮮明先生は、1948年5月20日から1950年10月14日に解放されるまで、「興南監獄の受難」路程を歩まれました。

興南監獄での生活は過酷を極めましたが、ちょうど「最後の大迫害」の時期にあたる1950年の6月25日に朝鮮戦争が勃発しました。

すると、連合国によって興南一帯が爆撃されたり、興南監獄の囚人たちが北朝鮮政府によって戦場に送られるなど、文鮮明先生は命の危険にされされることになったのです。

そして、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって(313年)、キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害から解放されたように、1950年10月14日、文鮮明先生は興南監獄から奇跡的に解放されることになります。

キリスト教のアリウス派と「世界基督教統一神霊協会」

ニカイア公会議でアリウス派が異端となる

325年に開かれたニカイア公会議で、当時のキリスト教会で大論争になっていた「キリストは神か人か?」という問題が議論されました。

アタナシウスは、父と子は「同一の本質」(ギリシャ語でHomousios)であると言い、父も子も同じように神だと主張しました。

それに対してアリウスは、父と子は「類似した本質」(ギリシャ語でHomoiusios)と言い、子(キリスト)も被造物であるから、父と子は同等ではなく、完全に同一ではないと主張しました。

そして、ニカイア公会議が出した結論は、アリウスの考えが否定され、異端としたのです。

この結論によって正統的キリスト論の立場が確立され、イエス・キリストは神であるということが決定されたわけです。

これ以降、アリウス派は正統な教えではなく異端とされるようになってしまいました。

「統一原理」はアリウス派と同様、イエス・キリストは神の子ではあるが神ご自身ではないとしています。

「世界基督教統一神霊協会」の創立

第二イスラエルのキリスト教が責任を果たせなくなったとき、神様の摂理はどうなるのかについて『原理講論』では次のように記述されています。

イエスは初臨のときに、彼のために召命された第一イスラエル選民を捨てられ、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立て、新しい霊的な摂理路程を歩むほかはなかったのと同様に、再臨のときにも、キリスト教信徒たちが不信に陥るならば、彼らを捨てて新しく第三イスラエルを立て、実体的な摂理路程を成就していくほかはない。(『原理講論』p427)

 

キリスト教の不信により文鮮明先生は「興南監獄の受難」路程を歩まれた結果、新たに第三イスラエルを立てなければならなくなりました。

そして、興南監獄から解放されて43カ月後の1954年5月1日、文鮮明先生は第三イスラエルとして「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)を創立されました。

成約時代の摂理的同時性の観点から見ると、この時期は325年のニカイア公会議と同時期になります。

「世界基督教統一神霊協会」は、アリウス派と同じように、これ以降、キリスト教から異端視され、キリスト教界から迫害を受けることになるのです。

ゲルマン民族と統一教会の日本宣教

ゲルマン民族へのキリスト教の布教

キリスト教は、サタンの世界であるローマ帝国から解放されてのち、四世紀に、蒙古族の一派であるフン族の西侵により西ヨーロッパに移動してきたゲルマン民族に、福音を伝えることによって、西ヨーロッパの新しい土地で、ゲルマン民族を新しい選民として立て、キリスト教封建社会の土台を形成したのであった。(『原理講論』p471)

 

このように、キリスト教がローマ帝国で公認されてから、その福音がゲルマン民族に伝えられるようになりました。

ゲルマン民族には数多くの部族がいたのですが、最初にキリスト教が布教されたのは西ゴート族と言われています。

その西ゴート族に布教を行ったのはゴート人のウルフィラ司教で、彼は340年頃、聖書をゴート語に翻訳し、西ゴート族に広め始めました。

そして、375年にフン族の圧迫により大規模な移住が始まったのですが、西ゴート族がキリスト教を受け入れたのもこのころと見られています。

ウルフィラ司教は、ニカイア公会議で異端とされたアリウス派キリスト教の司祭だったので、西ゴート族に広まったキリスト教はアリウス派でした。

統一教会の日本宣教

統一教会の日本への宣教は、1958年7月15日、崔奉春宣教師が釜山から日本に渡ったときから始まり、1959年10月2日に「日本統一教会」が創立されました。

実際には、その数年前から日本宣教の試みはありましたが、当時はまだ日本と韓国の国交が正常化されていなかったため、日本への渡航は実現できなかったようです。

成約時代の摂理的同時性の観点から見ると、1958年は西暦380年頃になりますので、ちょうど西ゴート族がアリウス派のキリスト教を受け入れた時期になります。

ゲルマン民族がもともと信仰していたゲルマン神話は多神教でしたので、八百万の神々を信仰する日本人とは共通する点があります。

ですから、もともと多神教だったゲルマン民族にアリウス派キリスト教が伝わったように、多神教の日本民族に統一教会の信仰が伝わったわけです。

ただし、上記の『原理講論』に「ゲルマン民族を新しい選民として立て」とありますが、日本人が新しい選民ということではありません。

成約時代の選民は、あくまで再臨のメシヤに従う第三イスラエルの統一教会信徒たちです。

まとめ

【ローマ帝国迫害時代とキリスト教迫害時代の同時性的現象】

①303~311年「最後の大迫害」⇒ 1948~50年「興南監獄の受難」
②325年 アリウス派の異端宣告 ⇒ 1954年「世界基督教統一神霊協会」の創立
③375年 ゲルマン民族への布教 ⇒ 1958 統一教会の日本宣教

 

以上で「キリスト教迫害時代」の解説を終ります。次回は「氏族メシヤ家庭教会時代」についての解説になります。

Print Friendly, PDF & Email