摂理から見たアベルたち(1/10)

1979年12月30日(日)
アメリカ・ベルベディア

※このみ言は、文鮮明先生が1979年12月30日の聖日に、新しく80年代を迎えるに当たって、アベルとしての心構えとホームチャーチ摂理について、10時間にわたって語られたものです。また日本では、『摂理から見たアベルの正道』というタイトルで小冊子になりました。

 アベルは蘇生、長成、完成時代を勝利して行かなければ

 統一教会において恨多き1970年代は、もう2日を前にして過ぎ去ろうとしています。80年代は所望と希望の年となることを祈ります。それできょう皆さんに語るみ言の題目は「摂理から見たアベルたち」です。

 私たち統一教会で最も問題視すること、初めて入ってきた人たちに問題になることは、カイン・アベルの問題です。これが常に問題になります。普通は、「先に入ってきた人がアベルだ」、このように考える人がいるのです。そのような考えは間違った考えです。誤って考えているのです。なぜかというと、摂理過程には蘇生時代があり、長成時代があり、完成時代があります。原理がそうです。

 私たち統一教会の歴史を見ても、蘇生時代、長成時代、完成時代へと発展します。アベルが行かなければならない道は、蘇生時代も勝利して行かなければならず、長成時代も勝利して行かなければならず、完成時代も勝利して行かなければなりません。このような責任がアベルにあることを、はっきりと知らなければなりません。自分がそのような証を持たなくてはなりません、そのような証を。

 それでは、アベルがこの蘇生時代、長成時代、完成時代をなぜ行かなくてはならないのか? 結局、それは堕落したために行くのです。堕落していなければ、本来その位置はすでに成長することによって、アダムとエバが21歳にさえなればすべて越えていきます。それでここから1として(板書しながら語られる)、天の世界の蘇生、長成、完成を成すようになります。それで、ここから家庭時代に入っていきます、家庭時代。家庭を中心にして氏族的家庭時代、民族的家庭時代、国家的家庭時代へと発展していくのです。これが蘇生、長成、完成です。家庭的基盤、氏族的基盤、国家的基盤……。

 伝統的中心思想

 さあ、それでは、蘇生時代、長成時代、完成時代、このようなものが……。いつその伝統を受け継ぐのか? 家庭基盤から、氏族基盤から伝統が成立しなりません。それが何かというと、祖父の時代、父の時代、孫の時代を中心として、それが含蓄された言葉だということです。その食口が一つの家庭的中心であると同時に、氏族的基盤となって横的に発展していくのです。

 このように家庭と氏族さえ広がれば、兄弟たちが東西、四方に広がり、これがクラブ(club)になれば国家基盤になるのです、国家基盤。そして世界に伸びていきます。そうなればアダム文化の世界が広がって、神様の伝統的歴史時代が成立していたでしょう、アダム文化の世界が。そうして二つの世界、文化の世界と歴史時代が成し遂げられるということです。

 文化は何をもって成されていくのか? 私たちの生活によって成されていくのです。歴史は何をもって形成されていくのか? 伝統によって形成されていくことをはっきりと知らなくてはなりません。それゆえに、生活と伝統は絶対に必要だということを知らなければならないのです。何か他のものよりも、どのような伝統を受け継ぐのかということが……。それがはっきりと分かりますか? (「はい」)。生活文化と伝統歴史、それは何千年前のアダムも、何万年後の子孫も同じです。

 それでは、その伝統的中心思想は何でしょうか? それは神様の心情を備えた天の国の愛です。それがこの伝統歴史の骨髄です、骨髄。ですから、摂理歴史をつかんで引き出せば何が引き出されてくるかというと、伝統が引き出され、生活文化の背景が引き出されます。それで、その中心が何かというと心情問題です、心情問題。これが心情の中心である骨髄に向かい、地上から永遠の霊界まで連結されるのです。このような形態が霊界にも連結されるのです。だからといって、ここに行って成すのではなく、ここですべて成して、これが二重になってこのように移されるのです。(板書しながら語られる)そうすれば、この時代から霊形体時代、生命体時代、その次に生霊体時代に発展します。霊形体、生命体、生霊体、これは私たちの原理が教えているものです。このようになっていれば堕落しなかったのです。

 ところが、堕落したためにここに来ました。この無原理圏に落ちたのです。神様、アダム、エバ、このようになり、これが一つの世界になるのです。この位置から堕落したために、ここに落ちました。(板書しながら語られる)

 堕落の文化と伝統を最も多く受け継いだアメリカ

 エバが堕落した原因は、第一は不信でした。その次に、第二は何かというと愛の問題、心情の問題でした。心情に到達することができませんでした。不心情だ、愛することができなかったということです。その次に、第三は天ではなかったことです。不天国だ、ということです。不天国とは何ですか?(板書しながら語られる)。

 ですから、エバは不信の人であり、不心情の人であり、不天国の人だ、このようになります。女性について言えば、信じることのできない者たちだ、愛がない、心情が天と一つになり得る愛がない、理想天国、すなわち理想がない、現実にばかりいるということです。自己中心です。

 そして、「神様を信じる前に私を信じなさい」と言います。自分を信じてほしいというのです。「神様を愛する前に私を愛しなさい。将来の天国よりも今が問題だ」と言います。それは堕落したからそうなのです。堕落したためにそのようになったのです。こうしてエバは、アダムまで引き下ろしました。それで不信の人、不心情の人、不天国の人は、天国には行けないようになったのです。これが堕落してこのような世界になったので、この世界はどのような世界ですか? 不信の世界であり、愛のない世界であり、理想のない世界ということです。

 さきほど最初に話したように、どのような文化を受け継いだのですか? 堕落した文化を受け継いだということです。どのような伝統を受け継いだのですか? 自己を中心とする愛の伝統を受け継いだということです。「私が第一だ。私だ第一だ。神様も何も、全体も何も、私が第一だ」と言います。英語で「I」を大文字で書くのも、それでそうなったのです。「I」は、本でどこに出てきても、どの文章に出てきても、いつも大文字で書きます。そのようなものを、歴史的な終末時代において代表的に受け継いだのが西欧文明だ、このような結論が出てくるのです。

 そのような国がどこですか? 代表的実用主義国家であるアメリカという国、アメリカだということです。将来も何も、未来も何も「私が第一だ」と言います。このような実用主義者たち……。アメリカの男性たち、先生の話は正しいと思いますか? (「はい」)。女性たちもそうですか?(「はい」)。

 堕落するときに何を蒔いたのかというと不倫なる貞操……。不倫なる貞操によって堕落したため、結果となる、実となるこの世界では、倫理破綻時代が来るというのです、青少年たちの倫理破綻時代です。アダムとエバが堕落したように、種を撒いたとおりに刈り取る時が来たので、アメリカでは、木の下で若者たちが堕落する、そのような現実の舞台が広がる、ということです。そうでしょう? アダムとエバは恥じて覆い隠しましたが、最近のヒッピーたちは、恥ずかしげもなくさっと処理してしまうというのです。恥ずかしいということも知らずにいます。

 さあ、そのような結果となったアダムとエバを神様が追い出されたように、この地球上から追放しなければならない者たちがこの群れです。民主世界がそうなので、滅亡途上に入っているという結論が出てきます。それは何の話か分かりますか?(「はい」)。これを防ぐことができない日には、この地球星は滅亡します。滅亡が、自滅が起こるという結論が出てくるのです。

 堕落した世界を審判しなければならない人

 このようなものを見るとき、審判をしなければならないはずですが、審判の責任は誰がもつのでしょうか? 誰がしなければなりませんか、誰が?(「メシヤです」)。メシヤではなく、アベルがしなくてはならないのです。アベル文化圏がしなければなりません、アベル文化圏が。本来、アダムとエバからそのようになったので、不信、不心情、不天国の世界の上に、神様の信義の人を立てなければなりません。不信ではなく信義の人を立てよう、その次には心情の人を立てよう、その次には天国の人、理想的な人を立てよう、このような歴史に投入する運動をするのです。

 この人がどのような人かというと、信仰の預言者、心情の預言者、理想の預言者を別々に送るのではなく、1人を送るのです。1人が一つの心情で天を愛さなければならず、一つの信仰をもたなければならないと主張するのです。このような使命を背負ったのが預言者たちです。

 この預言者たちが来てしたことが何かというと、世の中に従ったのではなく、世の中に従ってはいけないとさえぎったのです。国から何からすべて「行ってはならない、行ってはならない」と吹き込むのです。ですから、「これは何だ?」と蹴飛ばし、ありとあらゆる迫害をして人間扱いもしないのです。それで、人間世界の落伍者たち……。世の中の人たちが押しのけてすべて逃げていくので、預言者はしかたなくついていくしかないのですが、そのついていくなかでも、世の中の落伍者たち、病人たち、傷ついた人たち、世の中が嫌うこのような人たちを中心として行くのです。「あなたはなぜそのようにしているのか?」、「私は預言者だが、彼らに反対されたためこうしている」と言いながら、新しい因縁を、その人間の落伍者たちを中心として、新しい因縁をつくりはじめたということです。

 「そのような国ばかりではなく、新しい国がある。落胆してはいけない。絶望してはいけない」と言いながら、失望した者たちを通して新しい希望を起こすのです。しかし、それも聞くことは聞くかもしれませんが、昔の習慣的な観念、習慣化された風習が、常にその人たちにあるので、「ああ、預言者も嫌だ」といつもそうだったというのです。頭はこうで、足はこうで……。そのような歴史を経てきました。優れた人はみな通り過ぎ、愚かな人もすべて通り過ぎたあと、病人や捨てられた人たちが結局は、「ああ、新しい世界があればどれほど良いか」と言ったというのです。

 これはどういうことかというと、優れた父母、優れた息子、娘をもった、そのような家庭をもった人はおらず、サタンにずたずたにされ、父も母も、あるいは息子も娘も、すべて傷ついた人たちばかりがいて、この人たちがこの世界を拒否し、新しい世界があれば良いと言うのですが、預言者たちを通してそのような話を聞き、そこから因縁が始まるという話だというのです。

 そのような責任を担った預言者、それが何ですか? それがアベルの立場です。これを知らなければなりません。その預言者たちが来て、「おお、あなたたち、私に仕えなさい!」と言えば、残っていると思いますか? (「いいえ」)。その捨てられた人たちに対して自然に信じるようにし、不信の人を信義の人にしようとするのですから、自分が信義の人として行動しなければならず、不心情の人を心情の人にしようとするのですから、愛をもって感化させなければならず、無天国、無理想の人を理想天国の人にしようとするのですから、難しく恨の多い中でも希望に満ちて喜ぶ生活をしなければならないということです。

 アベルの立場はカインが決定してあげなければ

 あなたは教会に入ってきて何年になりますか? (「7年です」)。7年たったのなら、信義の人になりましたか? また、その次に、心情の人になりましたか? また、天の国の理想をもった人になりましたか? 「あなたたちはみな捨てていったが、私はこの人たちを収拾し、父のみ旨を成し遂げ、あなたたちを屈伏させることができる」、このような自信をもちましたか? この中で統一教会の幹部という群れ、この良い席に座った人たちのことです。アベルの伝統歴史に恥ずかしくないかということです。

 さあ、この預言者たちですが、「ああ、神様が私を世の中に送るとき、世の中がすべて歓迎し、すべて喜び、すべて大歓迎して王の立場で、あるいは師の立場で称賛されると思ったのに、これは何だ? 神様も信じられないな、神様の愛も何も、すべて偽りだ、神様の理想も何もすべて偽りだ」、このような預言者が預言者ですか? (「いいえ」)。

 それでは、それがアベルですが、アベルはかわいそうなサタン世界の僕にも劣る、そのような人たちをすべて感化させようとするので、僕の歴史、僕の僕の歴史をもたなければなりません。それを知らなければならないというのです。では、サタン世界の僕と天の世界のアベルと話をすれば、どちらがより悲惨な歴史について誇ることができますか? アベルがより誇ることができます。

 「私自身が悲惨になったとき、私はこのような段階で落胆し、絶望したが、あなたは、そのような場でも希望をもち、力強く堅固に進みましたね」、「私がこのように耐えてきたのは、他の誰も持ち得なかった信義の信仰をもち、誰も持ち得なかった愛の心情をもち、誰も持ち得なかった天国に対する理想をもったためです」、「世の中の私のような人のために、自分の命とあらゆる愛と自分を犠牲にしてでも、私のために努力した人はあなたしかいないので、私は世の中の誰よりもあなたを信じ、国よりも、世界よりもあなたのために行きます」、このようになるのです。そのときこそ、初めて「私はアベルになり、あなたはカインになるのです」と言うことができます。そのときにこそカイン・アベルが生じるのです。

 そのカインが誰ですか? カインは兄です、兄。このようにアベルが責任を果たすことによって、カインが「ああ、あなたは私の後ろに立ってください。私がサタン世界のあらゆるものに対して闘います」と先頭に立たなければなりません。一番先に立たなければならないというのです。そのようにできるときからカイン・アベルが成立するのです。

 カインがアベルに対して、「私のすべての財産やすべての所有を、あなたがすることのために捧げて犠牲にしてもよいです! 私の体まで犠牲にしてもよいです! 私が先頭に立っていきます」、こうであってこそカインが生じます。カイン、兄です。天の国のカインが成立するのです。そのカインがアベルを保護しなければなりません。兄が弟を保護できなかったことが堕落です。カインがアベルを、弟を保護する運動が起こらなければなりません。

 カインとは何ですか? エデンの園のカインがアベルを保護せずに殺しました。殺したので反対にならなければなりません。これが原則ですが、今日の統一教会員たちは、「不信であれ、不心情であれ、不天国であれ知らない。私が先に通っていたのだから私がアベルであり、あなたはカインだから屈伏しなさい」、このようにしているというのです。一体このような法がどこにありますか? 会社で自分が任された仕事もやらずに、手本にもならず、全体のために犠牲にもならず、すべて1人で強盗を働くつもりですか?

 その次には、この理想的な基準から見るとき、カインが「あなたが兄のように私の前に立たなければなりません。天の国に入っていくときは、私が先に入っていくことはできません。あなたが先に立たなければなりません」、このように考えなければならないのです。天の国に入っていくときは、誰が先に兄の立場で入っていくのかというと弟です。父の前に行くときは、弟が兄の立場に立たなければならないのです。それを誰が決定してあげなければならないのかというと、アベルが決定するのではなく、カインが決定してあげなければなりません。

 統一教会の幹部たちの中には泥棒が多いのです。強盗の群れが多くいます。詐欺師が多いのです。統一教会で「私はアベルだ」と考える人は手を挙げてみてください。(なし)それでは、「私は統一教会のカインだ。私は統一教会でカインだ」と考える人、手を挙げてみてください。(大勢挙げる)弟がいないカインがいますか?(笑い)それがいないときは、アベルでもなく、カインでもありません。ですから、カインがアベルを決定するのは、「あなたはカインになり、私はアベルだ」とお互いに約束をしなければなりません。「あなたは私の兄になり、私はあなたの弟になろう」、こうでなければなりません。

 カインのメシヤはアベル、アベルのメシヤはカイン

 さあ、それでは、アベルとカインのその因縁、ここに結ばれたその中心は何ですか? 動かすことができない中心がなければなりません。それが何かというと信義です。信義が動くことができず、心情が動くことができず、理想が動くことができない2人の存在になろうというのです。理想があって、天国理想があって、世の中が何と言おうと、その世の中が最後です。2人が他のところに行くことはできないということです。

 皆さん、アベルがいますか? カインがいますか? アベルならカインをもっていますか? それがなぜ必要なのですか? それがなぜ必要かというのです。それがなぜ必要ですか? 「そのカイン・アベル、私は嫌だ。その面倒なものはすべて片づけてしまえ。なぜそれを言うのか? なぜ、なぜだ?」と言うでしょう? 皆さんがアベルなら、「アベル1人でそのまま天の国に行く、なぜカインが必要なのか?」と言いますが、なぜカインが必要なのですか? カイン、そのようなやっかいなものはすべて蹴飛ばしてしまえばよいではないですか。(笑い)(「ノー」)。それはなぜですか、なぜ? それはなぜノーですか? 面倒なことをなぜするのかというのです、面倒なことを。

 統一教会に入ってくると、ある人をアベルだと言うのですが、「ああ、会いたくない。ああ、あれがアベルか? 私より勉強もできず、あらゆることを見てもできず、心情で見ても、身なりで見ても、あれがアベルか?」、そのような気がするのです。(笑い)見てください。皆さんのメシヤは、カインのメシヤはアベルであり、アベルのメシヤはカインだということを知らなければなりません。それを知らなければならないというのです。それを経なければなりません。

 さあ、それでは、なぜそうでなければならないのですか? これはエバがこのようにしておいたからです。エバがここで何を生んだのかというと、カインを生み、アベルを生みました。これが兄です、兄。これが兄であり、これが弟です。(板書しながら語られる)堕落するにおいて、誰が先に立ったかというと、これが先に下りていき、アベルはついていきます。二元になっているのです。さきほど話したここについていくのです。ですから、カインがサタン世界の相続権をもっています。サタン世界の相続権がすべて誰かというと、サタン世界はカイン世界なのでカインのものです。それでカイン世界になったということです。

 カインは自ら願って長子の権限をアベルに引き継がなければ

 さあ、ところが堕落していなければ、長子も、長男も天の側であり、次子も天の側になったのです。それを知らなければなりません。その国の相続は、すべて長子が引き継ぐようになっているというのです。神様の原理法度は、先に生まれた人が父のものをすべて管理し、責任をもつようになっています。堕落した世界でも、その原理法度は、原理型はそのまま成されていきます。

 ですから天にとっては、長子がサタン圏になったので、2番目の息子がどのように長子圏に越えていくのか、長子を屈伏させて長子の権限をどのように引き継ぐのかということが問題です。どのようにこれを、長子の立場に踏み越えていくのかということです。闘って越えていくのではないのです。不信において信義、不心情において心情、不理想において理想圏を中心として、兄が「私は弟のお前のところに行く」と言ってついてこなければならないというのです。カインが自ら願わなければなりません。そうすることによって、昔カインがアベルを殺したことが、ここでアベルに従順に従っていくことによって復帰されます。しかし、不服従であれば自分が死ぬのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 これを見るとき、国家的アベルとして来たのがメシヤであり、国家的カインがユダヤ民族であり、イスラエル民族です。したがって、国家的アベルを中心として見るとき、国家的カインがイエス様に従順にし、絶対服従してついていかなければなりません。「私が死ぬとしても、私たち民族が死ぬとしても、アベルのあなたは生きていなければなりません」、このようにしていれば、イエス様が死んだでしょうか? イエス様が十字架で死んだ原因がここから出てくるのです。カインが死ぬとしても、アベルを殺してはいけないというのです。それゆえ、歴史的にユダヤ教徒たちが2000年間、犠牲になったのも、この蕩減法によるものだったのです。

(『文鮮明先生御言選集』 106-172~180)

 

 

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