自分を信じよ!

 

1972年5月

名古屋守山修練所

 

 自分を信じる人間となれ

 人を頼りとするな。あなたたちがいかなる難しいことがあったとしても、人を頼りとしてそれを決めるんじゃなくて、自分を頼りとせよ。自分を信じる人間となれ。特に信仰生活において、蕩減路程において、いつも問題になるのは、自分が自分を信じることができない。だから自分が自分を信じられない者は、神自身が信じることができない。

 自分が自分を信ずるには、良心の指示する、命令するすべてのことをなしてあまりある人間にならなければいけない。人に頼ったり、人に何か望みをもって頼ったりする、そういうような立場には完全蕩減復帰というものはありません。

 だから、蕩減の路程は、自分が自分と対決して、自分が自分を信ずるような立場に立っていくところに蕩減の道は生まれてくる。そういうふうに自分が自分を信ずるような結果は、個人より、家庭より、何段階までも発展させていくというと、それは、神がいつでも共にいてくれる、それが問題である。だから、人に頼って、何か相談してやったということでは蕩減の道は進展いたしません。

 アベルというものは、神はいつも最後の直前に達する時には、いつも孤独な立場に立たせる。それが原則である。自分以外には何もありません。自分ただ一人である。原理はそうである。すべてのところにおわれてたった自分一人しかありません、というところにそれは蕩減の結果が生まれてくる。

 だから、自分が自分を放棄してしまったら、地上の基台は完全になくなってしまうから、自分が自分を信じられる立場で、いかなることがあってもその立場を譲ってしまうとか、人に頼ってしまうとか、こういうふうになった場合には、完全なる自分として越えるべき蕩減の道を越えることはできません。

 神に導かれている確信

 そういうような時がたつにしたがって、時が切迫してくるにしたがって、これ真剣な自分のものじゃないか。自分の本心と神のみ旨といつも対話するように祈る瞑想の中にいつも神に導かれる、その本筋道は必ず、自分に対して逃れずにやったならば、神は必ず、いかなる方法でもってしても教えてくれる。あるいは夢とか、あるいは人を通してでも、あるいは動物を通してでも、暗示作用を通してでもわかるようになっている。そういうような生活態度を体験していけば、それは間違いなく蕩減の道を辿って発展していくことができる。これを忘れてはならないということをあなたたちに言っておきたい。

 世の中もそうですよ。自分が大きい成功をするか、しないかという問題は、人と相談して決めていくんじゃない。真剣になって、自分がすべての生命をかけて、自分の生涯をかけて、あるいは自分の家族一家のすべての運命をかけて、真剣なる立場に立って、そして決めて、成功した場合には、それはその一家の成功になる。

 最後までこの道を行こう

 それと同じように蕩減の道は、絶対相談してはできない。なぜかというと、堕落が相談の因縁によって堕落してきた。アダムとエバでもそうだし、エバと天使長も共に話し合い、共に相対的に、横的に何かいいものがあると思うところに堕落をなしてきたんだから、その復帰路程はそれをのりこえていく道だから、最後には、自分が自分を絶対視して、信頼する立場において、それを決定して、のりこえなければいけないというのが原理の神ですよ。それだけあなたたちは覚えてもらいたい。

 いろいろと活動するには、いろいろなことがあるであろう。そういう立場において、あるいは故郷とか、あるいは父母に対して、情的や環境的にも思い出されるんだね。それから、開拓の先頭に立っていると、環境が自分の思うようにいかない。それが、すべてがその不自由な立場に追い込まれる。そうなると、ただちに昔を振りかえり、自分の家を振りかえりながら、これを比べ合うんだね。そういうところにあなたたちの行く道において、非常な副作用をきたすようになるんだよ。

 一旦、家を出てくるとき、自分なりに決心して出てきた人は、それは最後まで行ってみることだね。最後まで行ってみること。あるいは、こちらへ来るときは、自分の知恵で決定したんじゃなくして、誰かのすすめによって、まあ、行ってみようとして来た人も、新しく出発するときには、自分が決意して、すべての動機は自分がなしていくんだという確信のもとで、行く所も、自分の将来、自分のすべての蕩減の道を果たすために行く。

 いつも自分と神との関係、縦的関係は許されるんだけれども、横的関係は許しません。何か難しいことがあった場合には、あるいは故郷なり、自分の共に来た友達に、ああ、これは難しい、そういうふうに言うんじゃありませんよ。そういうことがあった場合には、必ず祈りの中で自分の生涯をかかげ、過去、あるいは現在と比べ、比較、検討して、これは正しいというふうに決まったその方向に進んでいくところに我々の発展があるということを覚えてもらいたい。

 まず自分で解決の道を探す

 自分が自分を信ずる、そういう立場に立てない者が、神に頼ることはできない。神自体も、信じて何事もまかせることができない。自分はどうでもいいんだけれども神だけ認めればいい。そうはいきません。自分が自分を信ずるような立場に立たない者は、神もいりませんよ。神がいかに信じられるか。自分が自分を信じられない立場に立ったら、基台がないことになる。基台がないことになるんだから、基台のない者を神は、絶対なる主体の神は、そういう者を相手にすることはできません。だから自分がこういう者であるというならば、それは絶対に自分の信ずるような基台に立ったという確信をもってやっていくところに、神はいつでもそこに援助してくれるということを覚えてもらいたい。

 そういうふうにして、今1ヵ月、あるいは1年ずっと信仰生活をやっていれば、神は必ず援助してくれる。先生だってそうだよ。今でもそうだよ。

 先生だって友達おりません。生涯何か難しい問題を、父母がおるとしても、父母に相談することができなければ、あるいは自分の友達がおるとして、友達に相談することもできなければ、あるいは先生がおるとしても、先生に相談することができません。それはすべて天使長圏の仲間になっておるというんだね。だから真剣に一人で解決していく道である。自分が自分のものを決定していく、そういう者になったならば、神はその人を必ず導いてくれる。

 もしも、それでもこれがいよいよ解決できないという場合には、自分の仲間、同志に相談する。自分が信頼しているあの責任者に真剣な立場で相談する。相談するその時、あなたたちは、もしも団長なら団長に対して相談する時には、こういう考えでやれ。もしも、団長と相談して、それが、ある答が下された場合には、その答は、それは神より下されたその答であるというように思ってやれ。それがその地区長が、巡回師が間違っておったとしても、そういうような信念でもってそれをなしていくならば、間違った立場で答えても、その信念を中心として神は、その方向にその結果をきたすように援助することができるんだね。あなたたちが相談したにもかかわらず、どうかわからない、というようにそう思ってはいけないよ。だから信ずる。

 アダムとエバは、信仰の中心、信仰が立っていなかった。それが問題である。だからあなたたちも絶対的信仰でそれを押し通していけば、サタンが利用するとしても、サタンの言葉と思わず、神が教えてくれたというようにして、最後まで押し進めていくと、サタンの欲望の基準をのり越えた場合、神はその信仰を中心として創造しても成してくれるというんだね。先生は、そういう信仰生活をやってきたよ。

 真剣な祈りを

 誰か真剣な立場で答えてやった場合に、その課題は、主体はどうでもいい。神から教えられたということを信じて、そして最後までそれを守って闘い続ければ、サタンが80パーセントの目的基準で教えてくれたとすれば、90パーセント、100パーセントという基準までおし続けていけば、神がそれは取り扱って成功させるようにしてくれるんだね。

 すぐに相談するのはよくありませんよ。何かあったらすぐ、これは重大な問題として地区長とか巡回師に走っていって話すんじゃありませんよ。

 まずもって神に祈るんだね。特にあなたたちが、身体を清めて、断食しながら3日以上祈ればね。これ教えるようになっているよ。あるいは、先生が教えてやる。しかし、直接教えてやることはできない。それは蕩減の条件がひっかかるから、象徴的、あるいは形象的に教える。そういう経験において分別する体質にしておかなければならない。そういうような統計的、科学的結果を立つようにしながら、ああ、こういう時はこういうようになってきた。だから何か現象が現れてきた場合には、それに対して、さあ、その結果がどういうふうになるんだろうと研究する心が必要だよ。

 それを見れば、人によってみんな違うよ。人によって違うんだから、自分は、ああいうことがあった場合には、こういうような結果をきたした、それを体験した立場で、それを分かっているならば、こういうようにみられたとするなら、これを研究せず、直接行動に移すことができるよ。そういうのをずっと統計的に結果を探求するような、そういう生活態度が必要である。

 そうできれば、神と……。アダムとエバが堕落したのは、最後に神と相談しなかったから。もしもエバが最後に、堕落をしない前に神の前に行って、「天のお父様、天使長がこういうことを言うのでありますけれども、いかがですか」と、もしも相談した場合には、神は、これは主管することができるよ。だからアダムもそうだよ。堕落したエバが善悪知る木の実を取って食べよ、と勧めるに従って、神を中心として最後の決裁を決めるというアダムの立場だったら、いくらエバがそういうことを言ったって、神の前に相談した場合には、その堕落について、これが最後にのり越える時の重要な位置であるということをあなたたちに記憶してもらいたいよ。

 そういう意味において真剣に祈る。だから、何事をなすにもそういう蕩減だと思って真剣にやる。その仕事の中に自分が蕩減を越えるかもわからないんだから、すべては真剣にやる。人が見ようとも見なくてもそれは関係ない。

 世の中には、10人の人が働けば監督者がいて、やるかやらないかと監督するんだけれども、我々においては必要はない。監督される方がかえって気持ちが悪い。それで人が見ても見てなくても、神と一対一によって報告しながら、一歩一歩前進する価値を自分なりに積み重ねていくというような生活態度が必要ですよ。そういうように行く者は、決して堕落とか、あるいは絶望とか、そういう立場に絶対落ちない。

 先生が経験によって、霊界の原理原則によって、これは間違いないということを知らせておきますから、このことだけは忘れないで守ってもらいたい。

 だから、自分が自分をより以上信ずるような者に、もしも神が期待するより以上自分を信ずる者になった場合には、神は、今まで自分を召して祝福しようとしたより以上の基準に、祝福されることができるよ。この基準がいかに重大であるかということをあなたたちは理解するように、信仰生活において体恤するように、先生は頼みながら、簡単であるけれどもこれで終ろうと思います。

 自分が自分を信ずる、自分が自分を信じられない者は、神自体も信ずることができない。さらに、最後には相談して乗り越えるんじゃないよ。自分がするんだよ。自分が中心にならなければならないということを、はっきりと記憶しておかなければならない。

 

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