今回は、神様が人間を創造された目的が喜びにあったということについて深掘りしていきます。
神様にとっての喜びと、私たち人間にとっての喜びとは、同じものなのでしょうか。
これを知るために、神様と人間の関係について、「統一原理」の根幹をなす概念についてもお伝えします。
創造の目的と神様の喜び
まず、神様が人間を中心とする被造世界を創造された目的について確認してみましょう。
創世記の「神は見て、良しとされた」という聖句から、「統一原理」の創造原理では、神様の創造目的は喜びにあったとされています。
これを聞いて「神様は自分だけの喜びや楽しみのために人間をつくったのか」と考える人もいるかもしれません。
それは、「人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、私たち人間の喜びにはいろんなものがあるからですね。
他人の不幸や失敗を見て喜ぶ人もいれば、他人の幸せや成功を自分のことのように喜ぶ人もいます。
それでは、神様にとっての喜びとはどのようなものなのでしょうか?
これを知るためには、神様と人間がどのような関係なのかということを知らなければなりません。
宇宙の根本は父子関係
神様と人間の関係について、『原理講論』には次のように記述されています。
そして、文鮮明先生は、「宇宙の根本は父子関係である」と語られていますので、そのみ言を紹介します。
人間の父母にはいろんな父母がいますが、本来、父母というものは子女が喜ぶ姿を見て喜ぶものではないでしょうか。
神様と人間が父子の関係だとすれば、神様はご自分が喜ぶために人間をつくったのではないことが理解できます。
神様にとっての喜びは、子女である人間が喜ぶ姿を見て、はじめて成り立つものだということです。
ですから、『原理講論』では次のように記述されているのです。
この「宇宙の根本は父子関係」という概念はとても重要なもので、「統一原理」の最も根幹となる概念ですので、ぜひ覚えておいてください。
人間が神様の喜びの対象となるには?
それでは、人間がどのようにすれば神様の喜びの対象になるのでしょうか。
これを知るために、まず喜びについて説明されている箇所を『原理講論』から引用します。
このように、喜びが生じるには、形の有無にかかわらず“似ている”ことが条件になります。
そして、“似ている”ということを考えた場合、その対象には次の三つがあります。
1姿や形が似ている
2動作やしぐさ、行いが似ている
3性質や性格が似ている
このうち、『原理講論』が喜びの例として挙げている作者と作品の関係は、1の姿や形が似ていることに該当します。
2の動作やしぐさ、行い、そして3の性質や性格が似ているときの喜びの例としては、動物が人間と同じようなしぐさをしているのを見たときに、私たちは喜びを感じるということが挙げられます。
こういった人間の性稟はすべて神様に似ているもので、神様ご自身も、人間を通してご自身の姿を感じるときに喜ばれるわけです。
このことについて『原理講論』では以下のように説明されています。
神様が人間に与えた三大祝福
創世記を見ると、神様が人間に下さったみ言は、祝福と戒めの二つありますが、祝福のみ言はこちらになります。
この祝福のみ言を「統一原理」では「三大祝福」とし、これが神様が人間を創造された目的であり、人間にとっては人生の目的であるとしています。
まず、「生めよ」とは第一祝福であり、人間が生まれてその個性を完成することを意味します。
次に、「ふえよ、地に満ちよ」とは第二祝福であり、個性を完成した男性と女性が夫婦となり、子女を繁殖して家庭をつくることを意味します。
そして、「地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」とは第三祝福であり、完成した人間が万物世界を主管することを意味します。
これが神様が人間に与えた三大祝福の内容で、これと実現したときに、神様も人間も共に喜びを分かち合える天国ができるということになります。
「生めよ」がなぜ個性完成なのか?
ここで、「生めよ」と「ふえよ」は同じ意味では?と思った人もいるかもしれません。
たしかに、「生めよ」と「ふえよ」は日本語では同じような意味になりますし、日本語聖書の新共同訳では「産めよ」と表記されています。(※1)(※2)
しかし、韓国語の聖書で創世記1章28節を確認すると、以下のようになっています。
この「생육」(センユク)という言葉は、韓国語の辞書(朝鮮語辞典・小学館)によると「生育」を意味します。
「生育」という言葉は日本語にもあり、辞書には「生まれ育つ」と「生み育てる」という二つの意味があることが分かります。
せい‐いく 【生育】
生まれそだつこと。また、生まれたものをそだてること。[広辞苑 第七版]
「統一原理」の観点から、韓国語の『原理講論』では「生育」という言葉を最初の「生まれ育つ」として解釈し、これを第一祝福の個性完成としています。
したがって、韓国語を原語とする『原理講論』を翻訳した日本語版の『原理講論』でも、「生めよ」を第一祝福の個性完成としているのです。
(※1 当ブログ内の聖書の引用は『原理講論』に合わせて口語訳を使用しています)
(※2 最新の『聖書 新改訳2017』では再び「生めよ」の表記に戻っています)
なぜ神様の人間に対する祝福は“三大”だったのか?
それでは、“似ている”ということについて、さらに深掘りしてみましょう。
「統一原理」では神様を私たち人間の父母と規定していることはお伝えしました。
これは神様と人間の心情関係から見たものなのですが、さらにより形状的な観点から『原理講論』では次のように説明してます。
このように、神様は父母であると同時に、数理(数的原理)性をもっておられる三数的な存在であるとしています。
ですから、神様の人間に対する祝福が一つや二つではなく、また四つでもなく、三つなのは、神様が三数的な存在だからです。
神様の創造目的は喜びにあり、それは人間と被造世界が神様に似るようになることです。
ですから、人間も生育し、繁殖し、万物を主管するという三数過程を通して完成するようになっているのです。
この点について『原理講論』では以下のように説明し、その実例を挙げています。
この三数的存在という観点から、神様の人間に対する三大祝福をもう一度整理すると、次のようになります。
人間が神様の喜びの対象になるためのもう一つの条件
実は人間が本当に神様の喜びの対象になるためには、似ていることだけではなく、さらにもう一つの条件が必要です。
ここが万物とは大きく異なるところなのですが、その条件とはこちらになります。
つまり、人間には自由意志が与えられているので、人間自身が自ら主体的に神様の本性相と本形状に似るようにしなければならないということです。
もし人間の自由意志とは関係なく、自動的に神様に似るようになるのであれば、人間はロボットのような存在になってしまいます。
これでは、人間が本当に神様が喜ばれる善の対象になることはできませんし、人間自身にも真の喜びが生じません。
人間自身の自由意志と自由行動によって神様の喜びの対象になること、これが人間と万物が大きく違うところです。
神様の心情を体恤できるのが人間
今回は、神様の喜びとはどのようなものなのか、神様と人間の心情関係から解説しました。
人間の父なる神様は、子女である人間が喜ぶときに喜ばれ、悲しむときに悲しまれるのです。
このような神様の心情が完全に分かるようになるのが、第一祝福の個性完成を実現した人間です。
しかし、人間は、堕落することによって神様の心情が分からなくなってしまったのです。
このような神様の心情がまったく分からなくなった状態から、本来の原理軌道に復帰して、三大祝福を実現していく道を歩んでいるのが人類の歴史であり、私たちの人生なのです。
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