【今回深掘りする原理のみ言】
 神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。(『原理講論』p64~5)

 

今回は、神様が人間を創造された目的が喜びにあったということについて深掘りしていきます。

神様にとっての喜びと、私たち人間にとっての喜びとは、同じものなのでしょうか。

これを知るために、神様と人間の関係について、「統一原理」の根幹をなす概念についてもお伝えします。

創造の目的と神様の喜び

まず、神様が人間を中心とする被造世界を創造された目的について確認してみましょう。

被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば(創一・4~31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。(『原理講論』p64)

 

創世記の「神は見て、良しとされた」という聖句から、「統一原理」の創造原理では、神様の創造目的は喜びにあったとされています。

これを聞いて「神様は自分だけの喜びや楽しみのために人間をつくったのか」と考える人もいるかもしれません。

それは、「人の不幸は蜜の味」という言葉があるように、私たち人間の喜びにはいろんなものがあるからですね。

他人の不幸や失敗を見て喜ぶ人もいれば、他人の幸せや成功を自分のことのように喜ぶ人もいます。

それでは、神様にとっての喜びとはどのようなものなのでしょうか?

これを知るためには、神様と人間がどのような関係なのかということを知らなければなりません。

宇宙の根本は父子関係

神様と人間の関係について、『原理講論』には次のように記述されています。

神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。(『原理講論』p429)

 

そして、文鮮明先生は、「宇宙の根本は父子関係である」と語られていますので、そのみ言を紹介します。

宇宙の根本は何ですか? 父母と子女です。先生が祈ってみるとそうです。父母と私、父子の関係が宇宙の根本です。それでは、神様と私はどのような関係があるのでしょうか? 神様は父であり、私は息子だというのです。息子・娘です。最後の根本が父子の関係であり、最高の目標もそれです。(『文鮮明先生御言選集』12-258 1963.5.22)

 

人間の父母にはいろんな父母がいますが、本来、父母というものは子女が喜ぶ姿を見て喜ぶものではないでしょうか。

神様と人間が父子の関係だとすれば、神様はご自分が喜ぶために人間をつくったのではないことが理解できます。

神様にとっての喜びは、子女である人間が喜ぶ姿を見て、はじめて成り立つものだということです。

ですから、『原理講論』では次のように記述されているのです。

被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。(『原理講論』p64)

 

この「宇宙の根本は父子関係」という概念はとても重要なもので、「統一原理」の最も根幹となる概念ですので、ぜひ覚えておいてください。

人間が神様の喜びの対象となるには?

それでは、人間がどのようにすれば神様の喜びの対象になるのでしょうか。

これを知るために、まず喜びについて説明されている箇所を『原理講論』から引用します。

喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。(『原理講論』p65~6)

 

このように、喜びが生じるには、形の有無にかかわらず“似ている”ことが条件になります。

そして、“似ている”ということを考えた場合、その対象には次の三つがあります。

1姿や形が似ている
2動作やしぐさ、行いが似ている
3性質や性格が似ている

このうち、『原理講論』が喜びの例として挙げている作者と作品の関係は、1の姿や形が似ていることに該当します。

2の動作やしぐさ、行い、そして3の性質や性格が似ているときの喜びの例としては、動物が人間と同じようなしぐさをしているのを見たときに、私たちは喜びを感じるということが挙げられます。

こういった人間の性稟はすべて神様に似ているもので、神様ご自身も、人間を通してご自身の姿を感じるときに喜ばれるわけです。

このことについて『原理講論』では以下のように説明されています。

構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。(『原理講論』p66)

神様が人間に与えた三大祝福

創世記を見ると、神様が人間に下さったみ言は、祝福と戒めの二つありますが、祝福のみ言はこちらになります。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1・28)

 

この祝福のみ言を「統一原理」では「三大祝福」とし、これが神様が人間を創造された目的であり、人間にとっては人生の目的であるとしています。

まず、「生めよ」とは第一祝福であり、人間が生まれてその個性を完成することを意味します。

次に、「ふえよ、地に満ちよ」とは第二祝福であり、個性を完成した男性と女性が夫婦となり、子女を繁殖して家庭をつくることを意味します。

そして、「地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」とは第三祝福であり、完成した人間が万物世界を主管することを意味します。

これが神様が人間に与えた三大祝福の内容で、これと実現したときに、神様も人間も共に喜びを分かち合える天国ができるということになります。

「生めよ」がなぜ個性完成なのか?

ここで、「生めよ」と「ふえよ」って同じ意味なのでは?と思った人もいるかもしれません。

たしかに、生めよとふえよは日本語では同じような意味になりますし、日本語の聖書の新共同訳では「産めよ」と表記されています。(※1)(※2)

しかし、韓国語の聖書で創世記1章28節を確認すると、以下のようになっています。

하나님이 그들에게 복을 주시며 하나님이 그들에게 이르시되 생육하고 번성하여 땅에 충만하라, 땅을 정복하라, 바다의 물고기와 하늘의 새와 땅에 움직이는 모든 생물을 다스리라 하시니라. (韓国語聖書 創世記1・28)

 

この「생육」(センユク)という言葉は、韓国語の辞書(朝鮮語辞典・小学館)によると「生育」を意味します。

「生育」という言葉は日本語にもあり、辞書には「生まれ育つ」と「生み育てる」という二つの意味があることが分かります。

「統一原理」の観点から、韓国語の『原理講論』では「生育」という言葉を最初の「生まれ育つ」として解釈し、これを第一祝福の個性完成としています。

したがって、韓国語を原語とする『原理講論』を翻訳した日本語版の『原理講論』でも、「生めよ」を第一祝福の個性完成としているのです。

(※1 当ブログ内の聖書の引用は『原理講論』に合わせて口語訳を使用しています)
(※2 最新の『聖書 新改訳2017』では再び「生めよ」の表記に戻っています)

なぜ神様の人間に対する祝福は“三大”だったのか?

それでは、“似ている”ということについて、さらに深掘りしてみましょう。

「統一原理」では神様を私たち人間の父母と規定していることはお伝えしました。

これは神様と人間の心情関係から見たものなのですが、さらにより形状的な観点から『原理講論』では次のように説明してます。

被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一・27)はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。(『原理講論』p77)

 

このように、神様は父母であると同時に、数理(数的原理)性をもっておられる三数的な存在であるとしています。

ですから、神様の人間に対する祝福が一つや二つではなく、また四つでもなく、三つなのは、神様が三数的な存在だからです。

神様の創造目的は喜びにあり、それは人間と被造世界が神様に似るようになることです。

ですから、人間も生育し、繁殖し、万物を主管するという三数過程を通して完成するようになっているのです。

この点について『原理講論』では以下のように説明し、その実例を挙げています。

神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。四位基台を造成して円形運動をするには、必ず正分合の三段階の作用を経て、三対象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。では、自然界で三数として現れている例を挙げてみることにしよう。自然界は動物と植物と鉱物からなり、物質は気体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と四肢の三部分からなっている。(『原理講論』p77)

 

この三数的存在という観点から、神様の人間に対する三大祝福をもう一度整理すると、次のようになります。

二性性相の中和的主体であられる神は三数的存在である。そして、被造物の完成はすなわち、神と一体となり四位基台を造成することを意味するので、人間の個体が完成されるためには、神を中心として心と体とが三位一体となり、四位基台を造成しなければならない。夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない。また、被造世界が完成されるためには、神を中心として、人間と万物世界が三位一体となり、四位基台をつくらなければならないのである。(『原理講論』p445)

人間が神様の喜びの対象になるためのもう一つの条件

実は人間が本当に神様の喜びの対象になるためには、似ていることだけではなく、さらにもう一つの条件が必要です。

ここが万物とは大きく異なるところなのですが、その条件とはこちらになります。

人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本性の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通して、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志の通り生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである(マタイ七・21)。(『原理講論』p134)

 

つまり、人間には自由意志が与えられているので、人間自身が自ら主体的に神様の本性相と本形状に似るようにしなければならないということです。

もし人間の自由意志とは関係なく、自動的に神様に似るようになるのであれば、人間はロボットのような存在になってしまいます。

これでは、人間が本当に神様が喜ばれる善の対象になることはできませんし、人間自身にも真の喜びが生じません。

人間自身の自由意志と自由行動によって神様の喜びの対象になること、これが人間と万物が大きく違うところです。

神様の心情を体恤できるのが人間

今回は、神様の喜びとはどのようなものなのか、神様と人間の心情関係から解説しました。

人間の父なる神様は、子女である人間が喜ぶときに喜ばれ、悲しむときに悲しまれるのです。

このような神様の心情が完全に分かるようになるのが、第一祝福の個性完成を実現した人間です。

人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。(『原理講論』p134)

 

しかし、人間は、堕落することによって神様の心情が分からなくなってしまったのです。

即ち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。けれども人間は、堕落して神の心情を体恤できなくなってしまったので、神の心情をもって、被造世界に対することもできなくなったのである。(『原理講論』p165)

 

このような神様の心情がまったく分からなくなった状態から、本来の原理軌道に復帰して、三大祝福を実現していく道を歩んでいるのが人類の歴史であり、私たちの人生なのです。

 

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