【今回深掘りする原理のみ言】
 イスラエル民族は、常に不信仰の道を歩むようになり、将来来られようとするイエスの前に、サタンが侵入し得る条件を成立させてきたので、このような条件を防いで新しい摂理をするために、預言者エリヤが来て、バアルの預言者とアシラの預言者とを合わせて、八五〇名を滅ぼすなど(列王上一八・19)、サタン分立の役割をして昇天したのであった(列王下二・11)。
 しかし、エリヤの全体的な使命は、全部が全部は成就できなかったので、この使命を完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ四・5)。このように、エリヤが果たし得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ一・23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった。(『原理講論』p405)

 

先回の【前編】では、洗礼ヨハネの立場と使命、特に『原理講論』には明示されていない第3の使命があることについて説明しました。

その第3の使命とは、イエス様の相対者決定に責任をもつことでしたが、その使命は全うされませんでした。

今回は、イエス様の相対者になる資格について、復帰原理的な観点から深掘りし、私たちの個人路程に資する洗礼ヨハネの教訓を解説します。

【前編】の復習

■洗礼ヨハネの立場

1 預言者エリヤ
2 エデンの園の天使長

■洗礼ヨハネの三つの使命

1 証人としてイエス様を神の子であると証すること
2 一番弟子としてイエス様に仕え、従うこと
3 イエス様の相対者を決定する問題に責任をもつこと

■果たした使命と果たせなった使命

洗礼ヨハネは、預言者エリヤの立場で、イエス様を神の子であると証する使命は果たすことができました。(ヨハネ福音書1章29~34節)

しかし、天使長の立場で、イエス様に一番弟子として侍り、相対者決定に責任をもつ使命は果たせませんでした。

■イエス様の相対者候補

イエス様の相対者として最も相応しい立場の女性は、「洗礼ヨハネの妹」、あるいは親族の中で同世代の年下女性でした。

洗礼ヨハネを中心として、マリヤとエリサベツなど3人の女性たちが一つになり、イエス様が真の母となる相対者を迎えることができるようにしなければなりませんでした。

復帰摂理に見るメシヤの相対復帰の原則

神様は、アブラハム家庭を通して、メシヤの相対を復帰する原則を見せてくださっているので、その内容を確認してみたいと思います。

(1)アブラハムが歩んだ路程

アブラハムは、象徴献祭をする前に、アダムの立場を復帰するための蕩減条件を立てなければならなかったので、次のような路程を歩んでいます。

 創世記一二章10節以下の聖句によれば、アブラハムは飢饉によってエジプトに下ったことがあった。そこで、エジプト王パロが、アブラハムの妻サライを取って、彼の妻にしようとしたとき、アブラハムは、彼女と夫婦であると言えば、自分が殺される憂いがあったので、あらかじめ計って、自分の妻サライを妹であると言った。
 このように、アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかったのである。(『原理講論』p318)

 

このようにアブラハムは、自分を兄の立場、妻のサライを妹の立場に立て、パロに奪われたサライを取り戻すという路程を歩みました。

なぜこのような路程を歩まなければならなかったのかについて、『原理講論』では次のように説明しています。

 アダムとエバが未完成期において、まだ兄妹のような立場にいたとき、天使長がエバを奪ったので、その子女たちと万物世界のすべてが、サタンの主管下に属するようになった。
 したがって、アブラハムがこれを蕩減復帰するための条件を立てるためには、既に明らかにしたように、兄妹のような立場から、妻サライを、いったんサタンの実体であるパロに奪わせたのち、彼の妻の立場から、再び彼女を取り返すと同時に、全人類を象徴するロトと、万物世界を象徴する財物を取り返さなければならなかったのである(創一四・16)。(『原理講論』p319)

 

そして、「このようなアブラハムの路程は、後日イエスが来て歩まなければならない典型路程となるのである」(『原理講論』p319)とあるので、イエス様も同様の路程を歩むことになっているわけです。

ヨハネ福音書5章19節を見ると、イエス様ご自身も「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」と語られています。

ですから、後のアダムとして来られたイエス様は、天使長の立場にいた洗礼ヨハネの妹にあたる女性を復帰して、ご自身の相対であり真の母として立てなければならなかったのです。

天使長 ⇒ エバ ⇒ アダム

パロ ⇒ サライ ⇒ アブラハム

洗礼ヨハネ ⇒ 洗礼ヨハネの妹 ⇒ イエス様

(2)ヤコブが歩んだ路程

神様は、アブラハムのときと同じように、ヤコブ路程でも、後にイエス様が歩まれる相対復帰の典型路程を見せてくださっています。

『原理講論』のp337には、「サタン世界であるハランに入って、彼の母の兄ラバンから長子の嗣業を家庭的に奪う二十一年間の争いに勝利した」とあります。

このハラン21年路程でヤコブは、ラバンの娘であるレアとラケルを妻として迎えました。

ラバンは、ヤコブの母リベカの兄ですから、ヤコブにとってレアとラケルはいとこです。

そして、ラバンは、サタン側の人物(『原理講論』p458)でもありました。

このようにサタン屈服の典型路程を歩んだヤコブは、サタン世界(ハラン)のサタン側の人物(ラバン)から、自分の親族の女性を復帰して妻としたわけです。

ここでもう一度、先回紹介したイエス様の相対復帰に関する文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 イエス様の親戚の中に娘がいるか探してみて、そのような娘がいれば、彼女たちを集めて基台をつくらなければならなかったのですが、それができなかったのです。イエス様の親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいれば、どれほどよかったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリアがイエス様を宿したあと世話をしてくれました。イエス様が腹中にいるときから歓迎したのです。
 したがって、洗礼ヨハネの妹や親戚の八親等内に娘がいれば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいればその姉の三人が一つになり、イエス様より年の若いその親戚の娘と縁を結ぶようにしなければならなかったのです。イエス様と共に一人の女性を再創造しなければならなかったというのです。(『文鮮明先生御言選集』39-100 1971.1.10)

 

以上のように、神様は、エデンの園でアダムが天使長に妹のエバを奪われたことを蕩減復帰する原則を、アブラハムやヤコブの路程を通して見せてくださいました。

(3)イエス様の相対者になるための条件とは?

神様が示してくださった相対復帰の原則から見たとき、イエス様の相対であり、真の母になる女性はどのような条件が必要なのかを整理してみましょう。

まず、心情的な観点から見ると、天使長は、エバをアダムから引き離し、彼女を通して自分の愛の減少感を満たしました。

天使長の立場にいる洗礼ヨハネは、天使長が乗り越えられなかった愛の減少感を克服して蕩減復帰しなければなりません。

ですから、自分と親しい女性か、あるいは好意をもつ女性がイエス様と一つになるようにしなければならなかったと考えることができます。

次に、アダムとエバは兄妹であり、同じ血族でしたが、イエス様の相対復帰について、血統的な観点から文鮮明先生は次のように語られています。

 神様は、イスラエルの国の中でユダヤ教が中心であり、ユダヤ教の中でヨセフ家庭が中心であり、ヨセフ家庭の中で洗礼ヨハネの家庭が中心であることをご存じでした。
 ですから、それらの家庭は、最も重要な血族でした。先祖の中の種がよいというのです。神様は、可能性があり、家門から見て名門の家門を通してイエス様が生まれるようにされました。
 また、洗礼ヨハネの家庭を見るときも、エリサベツが洗礼ヨハネを宿すときに、祭司の責任を果たしているザカリヤの耳が聞こえなくなったという出来事を見ると、族譜、すなわち家門がよい家系だというのです。
 ですから、そのようによい親族圏内からイエス様の相対者を選んでいれば、神様は嫌ったでしょうか、好まれたでしょうか。イエス様の相対は、他のところから選ぶことができません。自分の直系の従兄弟の妹か、母方のいとこしかいないのです。血統が違ってはいけません。母方のいとこは一つの所属なので可能なのです。(『文鮮明先生御言選集』39-100 1971.1.10)

 

このみ言から、イエス様の相対となる女性は、洗礼ヨハネと親族関係にあり、同世代の年下の女性ということになるわけです。

洗礼ヨハネの使命を継承したペテロとユダ

第1次世界的カナン復帰路程で、洗礼ヨハネが果たすべき使命は、証人、一番弟子、イエス様の相対復帰の三つでした。

このうち、証人の使命は果たされましたが、残りの一番弟子の使命と、イエス様の相対復帰の使命が果たされないまま残ってしまいました。

そのため、第2次世界的カナン復帰路程では、この残された二つの使命が、それぞれペテロとユダが担って蕩減復帰するようになっていました。

まず一番弟子の使命がペテロに移行されたことが、『原理講論』に次のように記述されています。

メシヤに仕えるために胎内より選ばれ、荒野でそれほど難しい修道生活をしてきた洗礼ヨハネが、イエスによく仕えたならば、彼は必然的に、イエスの一番弟子になるはずであった。しかし、その使命を果たさなかったので、イエスの一番弟子の位置はペテロに奪われてしまった。(『原理講論』p203~4)

 

次にイエス様の相対復帰の使命ですが、第2次世界的カナン復帰路程では、イスカリオテのユダにサタンが侵入しています。

サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。(『原理講論』p419)

 

どうしてイスカリオテのユダにサタンが入ってしまったのか、その理由について文鮮明先生は次のように説明されています。

 イスカリオテのユダが失敗した動機は何だったのでしょうか。イスカリオテのユダはなぜイエス様を銀貨三十枚で売ったのかというのです。イスカリオテのユダがイエス様を売ったのはお金のためですか。
 イスカリオテのユダは、愛する妻をしてイエス様に昼夜侍り、忠誠を尽くすことができるように協助しなければなりませんでした。妻と別れることがあったとしても、その妻をしてイエス様の母親のような立場に立たせ、イエス様を協助できる基台を用意してあげなければならなかったのです。それにもかかわらず、その責任を果たすことができませんでした。(『文鮮明先生御言選集』35-224 1970.10.19)

 

このみ言から、ユダは天使長が乗り越えられなかった愛の減少感を克服することが使命だったことが分かります。

しかし、その使命を果たすことができず、サタンと相対基準が合ったため、サタンに侵入されてしまったのです。

このようなユダが果たすべきだった使命は、洗礼ヨハネがイエス様の相対復帰のときに克服できなかった愛の減少感の試練を蕩減復帰するものでした。

※参考記事
なぜイスカリオテのユダにサタンが入ったのか?
https://unification-principle.com/yuda

洗礼ヨハネの教訓-聖酒式後の40日聖別期間の意義

(1)洗礼ヨハネの三つの使命と私

ここまで、アブラハムやヤコブ、洗礼ヨハネ、そしてイエス様の路程を紹介してきましたが、『原理講論』には次のような記述があります。

聖書においては、一人の預言者の生涯に関する記録を取ってみても、その内実は、単純にその人の歴史というだけにとどまるものではなく、その預言者の生涯を通して、堕落人間が歩まなければならない道を表示してくださっているのである。(『原理講論』p341)

 

このみ言によれば、神様が洗礼ヨハネの歩みを通して、私たちが歩む復帰摂理路程を示してくださっていることになります。

洗礼ヨハネの三つの使命を私たちの個人路程に当てはめて考えてみると、以下のようになるのではないでしょうか。

1「証人」として3人の信仰子女を復帰すること
2「弟子」として再臨主に侍り、従うこと
3 祝福の相対を再臨主と一つにすること

3番目の使命は、天使長の立場にいる男性とエバの立場にいる女性では、その内容が異なります。

(2)聖酒式後の40日聖別期間

真の父母を中心とする聖酒式後に40日聖別期間がありますが、そのときの男性と女性の立場は次のようになります。

天使長 ⇒ エバ ⇒ アダム

洗礼ヨハネ ⇒ 洗礼ヨハネの妹 ⇒ イエス様

男性 ⇒ 女性 ⇒ 再臨主

男性は天使長の立場で、女性はエバの立場なのですが、文鮮明先生のみ言に次のようなみ言があります。

夫は天使長です。エバが天使長を生んだのと同じように、女性が母の位置で自分の夫を(息子として)生んであげなければなりません。四十日聖別期間とは何ですか? 堕落した女性が、本然的、霊的に新郎と一つになる期間です。一つにならなければ息子を生むことができません。父と母が一つになる位置に立たなければ、天使長を息子として生むことができないのです。(『文鮮明先生御言選集』263-215 1994.10.4)

 

このみ言の最初にある「エバが天使長を生んだ」というのは、ルーシェルと一つになったエバが、アダムを神様の息子から天使長の息子に生み変えてしまったことを意味しています。

祝福を受けた女性はそれを蕩減復帰しなければならないので、天使長の立場にいる自分の夫を神様の息子に生み変えてあげなければなりません。

そのために必要な期間が聖酒式後の40日聖別期間で、この間に女性は真のアダムと霊的に一つになり、母の立場を復帰しなければならないのです。

そして、男性は、それを協助すると同時に、心から称賛し喜ぶことで、天使長が愛の減少感を克服できなかったことを蕩減復帰するのです。

 

エデンの園で天使長が愛の減少感に支配されたこと、そしてその天使長をエバが正しく主管できなかったこと、これが今も私たちの課題として残っています。