【今回深掘りする原理のみ言】
 マタイ福音書の冒頭を見れば、イエスの先祖には四人の淫婦があったということを知ることができる。これは万民の救い主が、罪悪の血統を通じて、罪のない人間として来られてから、罪悪の血統を受け継いだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記録されたのである。(『原理講論』p573)

 

 前編では、福音書にはイエス様の系図が二つあり、それぞれヨセフの系統、母マリヤの系統であり、イエス様の父親はザカリヤであることを解説しました。

 今回は、この二つの系図を比較しながら、「統一原理」の観点から見たとき、そこにどのような神様の啓示があるのかを深掘りしてみたいと思います。

(1)イエス様の二つの系図の違い

 まず、アブラハムから始まり、ダビデを経てイエス様までの系図が記録されている「マタイによる福音書」は、イエス様がダビデの子孫であり、旧約聖書に預言されたメシヤであることを証するものです。

 そして、ヨセフ(マリヤ)からさかのぼり、ダビデを経てアダムまでの系図が記録されている「ルカによる福音書」は、イエス様が神の子であり、「最後のアダム」(コリントⅠ15.45)として降臨されたことを証するものです。

 

「マタイによる福音書」の系図(1章1~16節)
⇒アブラハムから始まり、ダビデを経てイエス様までの系図

「ルカによる福音書」の系図(3章21~38節)
⇒ヨセフ(マリヤ)からさかのぼり、ダビデを経てアダムまでの系図

 

 このように、この二つの系図は、出発点と記載順序が異なっていること、そして前編でお伝えしたように、ダビデからイエス様までの人物が異なっています。

 このような違いは、それぞれの福音書によって、「信仰対象としてのイエス・キリスト」をどのように伝えるかに違いがあることから来ていると考えられます。

 それでは、ここからどういった神様の啓示を見出せるのかを考えてみましょう。

 今回は、次の三点について、「統一原理」の観点から調べてみることにします。

 

 ①「マタイによる福音書」の系図がアブラハムから始まっている理由

 ②「マタイによる福音書」の系図に4人の女性が記録されている理由

 ③ヨセフの系統と母マリヤの系統が記載されている理由

(2)イエス様の系図に見る神様の啓示と原理

 ①アブラハムから始まっている原理的理由

 この点について、「イスラエル民族の始祖はアブラハムなのだから、アブラハムから始まっているのは当然」と考えることもできます。

 しかし、一方で「ルカによる福音書」の系図ではアダムまでさかのぼっているので、やはりここには何か神様の意図があると考えます。

 まず、アブラハムについて、『原理講論』には次のような説明があります。

 神は、アダムの家庭から復活摂理を始められたのである。しかし、そのみ旨に仕える人物たちが、責任分担を完遂できなかったためその摂理は延長されてきたが、二〇〇〇年後に、信仰の祖アブラハムを立てて、初めてその摂理が始まった。したがって、アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、結果的には次の時代に入って、復活摂理ができるその基台を造成した時代となった。(『原理講論』p217)

 アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年の期間は、信仰の父であるアブラハム一人を立てて、将来、復帰摂理を始めることができるその基台をつくる期間であったということができる。復帰摂理のみ業(役事)が、アブラハムから始められたという理由はここにあるのである。(『原理講論』p282)

 

 このように、復活摂理の観点から見ても、また蕩減復帰摂理の観点から見ても、アブラハムはそれらの出発点に立っていた人物になります。

 ですから、アブラハムは、復帰摂理歴史の中でとても重要な転換期に神様から召命されたことが分かります。

 「マタイによる福音書」の系図がアブラハムから始まっているのは、人類救済の蕩減復帰摂理歴史で、アブラハムが重要な人物であり、その時代が大きな転換期だったことを、神様はここで示されているのではないでしょうか。

 他の福音書に記録されていますが、イエス様ご自身も、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」(ヨハネによる福音書8章58節)と言われています。

 もしイエス様が「アダムの生れる前」と言われたのなら、多くのキリスト教徒が信じているように、イエス様は神様ご自身ということになります。

 しかし、『原理講論』では、アブラハムについて「ノアの身代わりであり、したがって、アダムの身代わりであるので、復帰したアダム型の人物」(『原理講論』p317)とあります。

 

 この観点から考えてみると、「アブラハムの生れる前からわたしは、いる」と言われたイエス様は、ご自身が「最後のアダム」(コリントⅠ15.45)の立場で来られたことをこのように語られたのだと考えることができます。

 アダムの堕落を蕩減復帰する摂理がアブラハムのときから始まり、ダビデを経てヨセフの代で完了し、その基台の上にイエス様が降臨されたことを、神様は「マタイによる福音書」の系図を通して教えてくださっています。

 ②4人の女性が記録されている原理的理由

 冒頭の『原理講論』から引用したみ言にあるように、「マタイによる福音書」の系図には4人の女性が記録されています。

 4人の女性とは、カナン人のタマル(1章3節)、カナン人のラハブ(1章4節)、モアブ人のルツ(1章4節)、ヒッタイト人ウリヤの妻バテシバ(バト・シェバ)(1章6節)です。

 いずれもイスラエル民族ではなく、異邦人の女性たちですが、なぜイエス様の系図にこのような女性たちが記録されているのでしょうか?

 キリスト教では、一般的に神様の救いの対象がイスラエル民族だけではなく、万民であることを示していると解釈されています。

 そして『原理講論』では、「万民の救い主が、罪悪の血統を通じて、罪のない人間として来られてから、罪悪の血統を受け継いだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記録された」(『原理講論』p573)となっています。

 では、文鮮明先生とご夫人の康賢實先生はどのように説明されているかをご紹介しましょう。

 「マタイによる福音書」は「創世記」に代わるものです。「創世記」で堕落したので、「マタイによる福音書」で復帰しなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 114-24 1981.5.14)

 「マタイによる福音書」の1章を見れば、そこには4人の女性が出てきます。タマルが出てきて、ラハブが出てきて、ルツが出てきて、バテシバが出てきます。なぜそうなっているのですか?「マタイによる福音書」の1章は「創世記」の1章からの内容に該当します。
 ですから、「創世記」で人間が過ちを犯したあらゆる事情がありましたが、人間が理解できない悲運の歴史過程を通して、新しい道が起こり得るという歴史的な事実を(「マタイによる福音書」を通して)暗示しているのです。(『文鮮明先生御言選集』 110-221 1980.11.18)

 神様の再創造摂理の核心は何でしょうか? 神様の血統の安着です。再臨主がこの地に降臨される最も核心的なことは、神様の血統をこの地で着地させ神様の血統を継承することです。
 エデンの園でエバは、天使長の血統を受け入れて神様の純血を汚し、その結果としてカイン、アベルの子女を生み、悪の血統を繁殖するようにし、今日の堕落世界をつくりました。
 このような血統を正すために、数多くの女性たちが血統復帰のための蕩減の道を歩んだことは知られているとおりです。これは、まさにエバが汚した血統を正すため、エバが神様を騙し、アダムを騙し、子女まで騙したことを蕩減しながら天の血の涙を流す蕩減の路程でした。人類としてはとても納得することができない淫女の道を歩んでいったのです。
 ここには代表的な四大淫女がいます。ウリヤの妻バテシバと遊女ラハブ、そしてタマルとルツです。代表的な四大淫女が血統復帰の中心にいたということなのです。そのような基台の上に、イエス様が最初の原罪のない純血でこの地に着地されたのです。(2017年4月3日 康賢實先生)

 

 このように、人類始祖アダムの家庭でエバが堕落した血統的な罪を、4人の女性たちを通して蕩減復帰してきたというわけです。

 その勝利基台の上で召命された女性が母マリヤであり、その母マリヤからお生まれになったからこそ、イエス様は原罪のない神のひとり子なのです。

 このような女性たちがいなければ、エバの血統的な罪を清算できず、神様はメシヤを地上に送ることができなかったでしょう。

 ですから、異邦人であるにもかかわらず、この4人の女性たちはイエス様の先祖の系図に記録されているのです。

 神様は、「マタイによる福音書」の系図に倫理的には理解し難い4人の女性たちを記録することによって、人類始祖アダムとエバの堕落が血統問題だったこと、そしてその血統的な罪をイスラエル民族を通して清算してきたことを教えてくださっています。

 ③ヨセフの系統と母マリヤの系統が記載されている原理的理由

 神様の創造は、先に天使界をつくり、そのあとに地上界をつくって人間をつくられました。

 また、堕落の経路を見てみると、先に天使長がエバと血縁関係を結んで霊的に堕落し、その後、霊的に堕落したエバとアダムが血縁関係を結んで肉的に堕落しました。

 蕩減復帰摂理は再創造摂理なので、堕落した天使長、エバ、アダムの三者を復帰するときにも、まず天使界から復帰してエバの復帰、アダムの復帰へと展開していきます。

 この原則は、アダムとエバの堕落後の出来事として記録されている創世記3章14節から19節にも見ることができます。

 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。(創世記3章14~19節)

 

 このように神様は、三者に対して堕落の罰を告げるとき、天使長、エバ、アダムの順番で告げられています。

 「創世記」で起こった天使長、エバ、アダムの堕落を復帰するのが「福音書」ですから、天使長の立場がヨセフ、エバの立場が母マリヤ、そしてアダムの立場がザカリヤということになります。

 そして、最初は天使長の復帰なので、先に記録されている「マタイによる福音書」の系図は、アブラハムからヨセフへと神側の天使長を復帰してきた路程を示し、次に記録されている「ルカによる福音書」の系図は、神側のエバを復帰してきた路程を示していると見ることができます。

 

 もしイエス様の三つ目の系図、つまりアダムの立場であるザカリヤの系図が記録されていたとすれば、アダムから始まり、アブラハム、ダビデを経てザカリヤに至るまでの系図となっていたでしょう。

 以上のように、「統一原理」の観点から見たとき、別の人物によって記録された「福音書」の系図に、聖書全体との統一性と連続性があるのを見出すことができます。

 やはりここには神様の啓示が含まれており、聖書は神様のみ言であると言えます。

 次回の後編では、4人の女性たちの信仰に注目し、その詳細を探ってみると同時に、なぜザカリヤの系図がないのか、この点について原理の観点から探ってみることにします。

 

 

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