先回の【中編】では、「結果論的思考」とは対極の思考である「確率論的思考」について解説しました。
今回は、「結果論的思考」から派生する「自己奉仕バイアス」について説明し、それが私たちの信仰生活にどんな影響を与えてきたのかについて考えます。
そして、最後に「統一原理」の「統一」とは何を統一するのかについて考察してみたいと思います。
堕落人間と「自己奉仕バイアス」
(1)「自己奉仕バイアス」とは?
私たちがもっている認知バイアスの一つに「自己奉仕バイアス」があります。
「自己奉仕バイアス」とは、成功すれば自分の実力、失敗すれば運がなかったと考えやすい心理的な傾向のことです。
傲慢になりやすいという点でこれだけでも問題なのですが、さらにやっかいなのは、これが他人に対する評価だと逆転してしまうことです。
つまり、私たちは、他の人の成功は運がよかったから、失敗はその人の実力や努力不足と考えやすい心理的な傾向をもっているということです。
このような認知バイアスが集団レベルで働くと「集団奉仕バイアス」と呼ばれるものになります。
成功しても失敗しても、どちらも実力の要素と運や偶然の要素が合わさって出た結果です。
実力と努力が実って成功することもあれば、実力はないのに運がよくて成功することもあります。
また、実力がなく努力を怠って失敗することもあれば、実力があっても運がなくて失敗することもあるのです。
この実力と運を区別せずに、結果だけを見て良し悪しを判断すると、「自己奉仕バイアス」のワナにはまります。
(2)「自己奉仕バイアス」のワナ
「自己奉仕バイアス」のワナとは、運のよさを実力と誤解したり、運のなさを実力のなさと同一視してしまうことです。
このバイアスが働くと、自分に対しても、人に対しても、正しく公平な判断や評価ができなくなってしまいます。
その人の実力と努力の問題なのか、それとも不確実性(運や偶然)の問題なのかは、選択の余地があったかなかったかで判断することができます。
選択の余地があったのなら、その結果は実力と努力によるものである確率が高く、選択の余地がなかったのなら、その結果は運や偶然によるものである確率が高くなります。
自分に対しては「成功=実力、失敗=運」、他人に対しては「成功=運、失敗=実力」と考えやすい「自己奉仕バイアス」は、結果がすべてと考える「結果論的思考」から生まれます。
一つの結果が出る過程には、自分がコントロールできること(実力や努力など)と、自分でコントロールできないこと(運や偶然など)があります。
「人事を尽くして天命を待つ」という格言がありますが、これは人事=実力、天命=運と解釈することもできます。
堕落した人間は、この実力と運を混同してしまう心理的な傾向があり、きちんと区別できていません。
堕落性の第一は、神様と同じ立場に立てないことですが、具体的にはねたみや嫉妬、そして相手の喜びを祝福できないということになります。
人の成功を運がよかったからとか、たんなる偶然と考えやすいその心の根底には、このような第一の堕落性があると言うことができます。
また、自分の成功は自分の実力と考えるその心の根底には傲慢な思いがあり、第三の堕落性である主管性転倒に相当するものです。
次に、「結果論的思考」や「自己奉仕バイアス」が、宗教者や組織にどんな影響を与えるのかを考えてみましょう。
「結果論的思考」が宗教者や組織に与える影響
(1)失敗やミスを恐れる宗教者
「結果論的思考」が蔓延した組織や、結果論者が集まる組織には、無意識のうちに失敗やミスを許容しない雰囲気が定着しやすくなります。
結果論者は一度の失敗も許せませんが、確率論的に考える人たちは、一度失敗してもそれを受け止め、同じ失敗を繰り返さないことに全力を尽くします。
それは、不確実性のある世界では、正しいことをしていても結果が出ずに失敗することがあり、間違ったことをしていても成功することがあるからです。
実力と運を区別できる確率論者たちは、結果が思うようにいかなかったとき、どのように考えるでしょうか?
結果が出たその原因と過程を検証した上で様々な判断をしますが、「結果は悪かったが、意思決定自体は間違っていなかった」と判断するケースもあります。
しかし、宗教者が「結果論的思考」をもつと、失敗を運勢がない結果、条件がない結果と考え、極度に失敗を恐れるようになります。
そのため、絶対に失敗しないように、自分ができる範囲のことだけをやるようになり、どんどん自己保身に走っていきます。
こうなると神様と同じ立場に立って考えることができなくなるため、心霊が暗くなり、神様に対する信仰が観念的なものになっていくのです。
(2)「結果論的思考」に支配されると神様の愛が離れる
統一教会ではかつて、献身者たちが集まって伝道活動をしながら共同生活していたことがあります。
その中で、伝道実績のない人や、病気にかかったり、怪我をしたりした人がいると、声には出さなくても「何か讒訴条件があるのでは?」と無意識のうちに考えてしまう雰囲気がありました。
そのため、「中心からずれている、条件がない、何か問題がある」と考え、その人の課題や問題点にばかり焦点を当てて指導してしまうケースがあったのです。
しかし、ここまで説明してきたように、きちんと信仰生活をし、条件生活をしていても、それがそのまま結果に出ないこともあります。
それにもかかわらず、「自己奉仕バイアス」のワナにはまり、よく検証もせずに「中心からずれている、条件がない、運勢がない」と判断するのは、正に「結果論的思考」そのものです。
「教会には愛がない」と感じさせてしまう原因の一端に、このような失敗を許容しない「結果論的思考」があったと言えるでしょう。
人の失敗をその人の実力や努力の結果と考える「自己奉仕バイアス」が働くと、その場から神様の愛が離れていくようになるのです。
(3)「自己奉仕バイアス」の働きを抑制するには?
さきほど言及したように「自己奉仕バイアス」の根底には堕落性があります。
ですから、「自己奉仕バイアス」の働きを抑えるには、神様と同じ立場に立って見聞きし、考えるように努力しなければなりません。
そして、そのために必要なことが何かというと、神様の心情を体恤することです。
たとえ部分的であったとはいえ、堕落前のアダムとエバが、そして預言者達が、神と一問一答できたということは、人間に、このように創造された素質があったからである。(『原理講論』p134)
神様の心情を体恤した度合いが高くなればなるほど、神様と同じように考え、行動できるように創造されているのが私たち人間です。
「自己奉仕バイアス」の働きを抑え、そのワナにはまらないようにするには、部分的にでも神様の心情を体恤していかなければなりません。
「統一原理」の統一とは心情の統一
神様は、復帰摂理歴史を通して、堕落した人間たちを以下のような段階を経て復帰してこられました。
献祭、律法、信仰、そして今の成約時代は、心情によって真の子女の立場に復帰する摂理が展開しています。
そして、復帰摂理歴史がここまで発展してきたのは、その過程で中心人物たちが神様との心情的な因縁を結んできたからだということが次のみ言から分かります。
したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前の預言者や義人が築きあげた心情的な基盤によって、復帰摂理の時代的な恩恵をもっと受けるようになるのである。(『原理講論』p216)
私たちひとり一人の成長も、全体の復帰摂理も、すべて心情の因縁が結ばれることによって達成されていくのです。
この心情の因縁を結ぶことについて文鮮明先生は次のように語られています。
ここ(統一教会)は統一されるための宇宙史的な所です。ところが、人々はここに入ってきさえすれば、ここでみな統一されるだろうと思っているのです。統一のためには、統一された心情と理念を立てて、苦難の道を越えることにより、心情の因縁が骨髄からしみ出なければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』16-340 1966.10.14)
「統一原理」で言う「統一」とは、何よりもまず神様と人間の心情を統一することを意味しています。
ですから、私たちが神様を中心として一体化するときにも、最初に統一されなければならないのは心情です。
そして、その心情を中心として様々な意見を交わしながら議論し、最終的に合意形成に至るというのが原理的な観点です。
その議論の過程で留意すべきことは、「結果論的思考」ではなく、神様の思考に近い「確率論的思考」で行うことです。
神様と同じように考え、同じように愛することは簡単ではありませんが、その境地に到達する最初の一歩は、私たちの考え方を「結果論的思考」から「確率論的思考」に転換することなのです。