【今回深掘りする原理のみ言】
エサウは、ヤコブがハランで二十一年間の苦役を終えて、天の側の妻子と財物とを得てカナンへ帰ってきたとき、彼を愛し、歓迎したので(創三三・4)、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができたのである。このように、彼らは、アダムの家庭のカインとアベル、ノアの家庭のセムとハムが、「実体献祭」に失敗したのを蕩減復帰することができたのである。(『原理講論』p333)

 

人間始祖アダムとエバが堕落して以後、堕落人間として初めて天使に対する主管性を復帰した人物がヤコブです。

このときヤコブは「信仰基台」を復帰したのですが、その後、兄のエサウと一体化して「実体基台」にも勝利し、「メシヤのための家庭的な基台」を立てました。

今回は、兄のエサウが、殺そうとまで憎んでいた(創世記27章41節)弟のヤコブにどうして屈服したのか、その理由を「統一原理」の観点から深掘りしてみたいと思います。

ヤコブがサタン屈服の典型路程を歩んだ原理的理由

ヤコブの路程はサタン屈服の典型路程ですから、私たちが「信仰基台」と「実体基台」を復帰するときの生きた教訓となるものです。

神様がヤコブを立ててサタン屈服の典型路程を歩ませた理由について、『原理講論』では次のように説明されています。

 神にも屈伏しなかったサタンが、人間祖先として来られるイエスと、その信徒たちに屈伏する理由はさらにないのである。それゆえに、神は人間を創造された原理的な責任を負われ、ヤコブを立てることによって、彼を通して、サタンを屈伏させる象徴路程を、表示路程として見せてくださったのである。
 神は、このように、ヤコブを立てられ、サタンを屈伏させる表示路程を見せてくださったので、モーセはこの路程を見本として、その形象路程を歩むことにより、サタンを屈伏させることができたのである。
 そしてまた、イエスは、ヤコブ路程を歩いたモーセ路程を見本として、その実体路程を歩むことにより、サタンを屈伏させることができたのであり、今日の信徒たちもまた、その路程に従って歩み、サタンを屈伏させることによって、それを主管するようになるのである。(『原理講論』p342~3)

 

このように、ヤコブのサタン屈服の典型路程は、神様ご自身の責任として私たちに表示してくださったもので、その責任とは次のようなものです。

 堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。従って、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。
 神は永存なさる主体であるから、その永遠なる喜びの対象として創造された人間の生命もまた、永遠性を持たなければならない。人間には、このように、永遠性をもって創造した創造原理的な基準があるので、たとえ堕落した人間であるとしても、これを全く消滅させてしまい、創造原理を無為に帰してしまうわけにはいかないのである。それ故に、神は堕落人間を救済し、その創造本然の立場にまで復帰なさらなければならないのである。(『原理講論』p139)

 

そして、神様が示してくださったサタン屈服の典型路程を歩むかどうかは、私たち自身の責任ということになります。

アベルを立てる目的はカインの復帰と救い

こちらの記事(『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】③「信仰基台」成立の判断基準)で説明したように、「信仰基台」を復帰して「実体基台」を復帰するアベルの位置に立つようになると、カインが誰かということが分かるようになります。

なぜかというと、神様がアベルを立てる目的は、カインの復帰と救いにあるからです。

ヤコブも、モーセも、イエス様も、「信仰基台」や「実体基台」、そして「長子権復帰」という言葉は残していませんが、神様を中心として誰と一体になるべきかということは分かっていたはずです。

そうでなければ、どうしてヤコブが、殺されるかもしれないエサウのところに、財物を送り、妻子を送り、自らそこに赴くということができるでしょうか?

わざわざそのような危険を冒すことなく、家庭と財産を築いたハランにそのまま残って、余生を悠々自適に暮らすこともできたはずです。

また、モーセもパロ宮中で裕福に暮らせる立場を捨てて、イスラエル民族を苦難から救い出そうとしました。

そして、イエス様は、神の子であることを否定して十字架を避けることもできたのに、公の場で堂々とそれを宣布されました。

イエス様が公の場で神の子であることを宣布された場面を、聖書から引用してみましょう。

大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。(マタイ福音書26章63~66節)

 

このとき、もしイエス様が大祭司の問いかけに対して、それを否定したりあいまいな答えをしていたら、その後のキリスト教はどうなっていたでしょうか?

イエス様が堂々と神の子だと宣布されたからこそ、のちに殉教してまで信仰を守ろうとするキリスト教徒たちが大勢生まれたのです。

「統一原理」から見るとき、ヤコブやモーセ、イエス様は、カインを救うことが神様のみ旨であり自分の使命だということを知っていたからこそ、そのような道を歩んだのです。

アベルとカインに対する神様の心情

このように、神様は人間を創造されたご自身の原理的な責任として、アベル的人物を立ててサタン屈服の路程を歩むようにされました。

このアベル的な人物に対する神様の心情はどのようなものだったか、『原理講論』から確認してみましょう。

 神は、天に反逆する人間たちを救うために、愛する子女たちを宿敵サタンに犠牲として支払われたのであり、ついにはひとり子イエスまで十字架に引き渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。(中略)
 神の作戦は、いつも攻撃を受ける立場で勝利を獲得する。それゆえに、歴史路程において数多くの預言者や善人たちが犠牲にされ、またひとり子であられるイエスまでも十字架につけられたのである。(『原理講論』p591~2)

 

そして、カインに対する神様の心情として、『原理講論』には次のように記述されています。

堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロⅡ三章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。(『原理講論』p235)

 

「信仰基台」を復帰すると、部分的ではありますが、このような神様の心情を体恤できるようになるため、あえて犠牲の道を歩めるようになるのです。

次に、常に人間に侵入する機会を狙っているサタンについて、「信仰基台」復帰前後の動向を調べてみましょう。

「信仰基台」復帰前後のサタンの動向

ルカによる福音書4章13節に「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」とあるように、イエス様が三大試練に勝利することによってサタンは離れていきました。

サタンがイエス様を試練するようになった近因について、『原理講論』では次のように説明されています。

洗礼ヨハネが不信に陥ったために(前編第四章第二節(三))、彼が立てた「信仰基台」にサタンが侵入したのであるが、これが近因となって、イエスは自ら洗礼ヨハネの立場で、「四十日サタン分立基台」を立てることによって「信仰基台」を蕩減復帰するために、荒野における四十日断食と三大試練を受けなければならなかったのである。(『原理講論』p411)

 

これを見ると、イエス様はこのときまだ「信仰基台」が成立していない立場だったため、サタンが直接試練してきたことが分かります。

そして、『原理講論』には「絶え間なく肉身を通じて入ってくるサタン」(p187)とあり、また「被造世界の主権を握っているサタンが、現実生活を通して、人間に侵入してくる」(p494)とあります。

ですから、イエス様が「信仰基台」を立てたあと、サタンはその周辺から侵入の機会を狙ってくるわけです。

イエス様が三大試練に勝利して「信仰基台」を復帰されたあとのことについて『原理講論』には次のように記述されています。

 三大試練においてイエスに敗北したサタンは、一時イエスを離れたのであった(ルカ四・13)。サタンが一時イエスを離れたというのは、永遠に離れてしまったということを意味するのではなく、逆に、再びイエスの前に現れることができるということを暗示しているのである。
 果たして、サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。(『原理講論』p419)

 

それでは、次に、ヤコブが「信仰基台」を復帰したとき、エサウの状態がどうなったのかを調べてみましょう。

ヤコブが「信仰基台」を復帰したあとのエサウ

「統一原理」から見るとき、イエス様が三大試練に勝利した時と、ヤコブが天使との組打ちに勝利した時は、家庭レベルと世界レベルという復帰段階の違いはありますが、同じく「信仰基台」を復帰した時です。

このとき、カインの立場にいる兄エサウはどのような状態にいたのか、文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 ヤコブは、アダムが天使長に対して失敗したことを復帰する、霊的に天使長を屈服させる第一の闘いで勝利しました。それで、イスラエルという祝福を受けました。天使から「私が負けた」という降伏文書をもらったので、天使長圏世界が人間世界にはじめて支配されるということがスタートします。ここではじめてイスラエルが出発するのです。
 このようにして霊的に勝利した基台をもったので、霊的な対象の実体がカインであり、エサウだったのですが、霊的な面からサタンが直接介在して活動できる道はすでに塞がっています。ですから、実体さえ処理すれば完全勝利が成されるのです。(『文鮮明先生御言選集』58-50 1972.6.6)

 

このようにアベル的な人物が「信仰基台」を立てると、サタンが直接活動できる霊的な道が塞がれると語られています。

ですから、このときカイン的な人物は神側でもサタン側でもない中間位置にいることになります。

この立場は、ちょうど天使長と霊的に堕落する直前のエバの立場と同じだと考えることができます。

天使長は、神様からの愛を最も受けるアダムの位置に立ちたかったのですが、ヤコブが「信仰基台」を復帰したときのように、堕落する前のアダムには、直接侵入できる条件がありません。

そのため天使長は、アダムの対象であるエバに侵入しようと誘惑してきたわけです。

堕落する前のアダム → 堕落する前のエバ ← 天使長

信仰基台復帰後のヤコブ → 信仰基台復帰後のエサウ ← サタン

堕落する直前のエバは、アダムから「取って食べてはいけない」、天使長から「取って食べてもよい」という相反する言葉を聞き、知的にも情的にも混沌となっていました。

アダムの側に行くか、天使長の側に行くかは、実体的にどちらと相対基準を結んで授受作用するかにかかっていたわけです。

この堕落する直前のエバと同じ状態にいたのが、ヤコブが「信仰基台」を復帰したあとのエサウでした。

このときエサウに対して、サタンはそのヤコブに対する憎悪の思いをより大きくさせようと働きかけていたはずです。

それに対してヤコブは、エサウに自分の財物を贈り、妻子を送り、自らも最大の敬意を払って出向いていきました。

このようにしてヤコブは、エサウに働きかけるサタンとの相対基準を断ち切ることに成功し、兄エサウと一体化することができたのです。

 

~【後編】につづく~

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