【今回深掘りする原理のみ言】
 このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とをともに開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。(『原理講論』p169)

 

【前編】では、神霊とは何か、真理とは何かをみ言を中心に明確にし、その神霊と真理の関係性を「統一原理」の観点で考察しました。

【後編】では、神霊すなわち神様の愛の力を中心に、心情と愛と生命と血統の関係を整理します。

そして、神霊より真理を重要視する傾向のある堕落人間が、末世を迎えた現在、どのように対処すればよいのかについて深掘りしてみたいと思います。

神様の心情と愛と生命と血統について

【前編】で、文鮮明先生のみ言から神霊とは神様の愛の力であり、真理は神様の愛のみ言であると説明しました。

そして、神様の愛の力をエネルギーとすれば、真理はそのエネルギーの通り道にあたるものとしました。

ここでは神様の愛について更に深掘りし、心情と愛と生命と血統の関係性について考察してみたいと思います。

まず心情についてですが、「統一思想」では、「心情とは愛を通して喜びを得ようとする情的な衝動」と定義されています。

そして、文鮮明先生は、心情について次のように説明されています。

心情とは何でしょうか。それは神経に続くあらゆるものを担っています。それは生活観念など、あらゆるものを通過できる内容と力をもっています。生命の根源の位置にあるのが心情なので、生命を否定したとしても、心情を否定することはできません。存在を否定したとしても、心情を否定することはできません。心情は存在以前のものです。ですから、神様は愛だという結論になるのです。(『文鮮明先生御言選集』15-37 1965.1.31)

 

「生命の根源の位置にあるのが心情」とされ、結論として神様は愛であると語られています。

また、『原理講論』のp113には「愛は人間の幸福と命の源泉」とありますので、心情も愛も生命の根源ということになります。

それでは、心情と愛はどのような関係になっているのかを明確にするために、『原理講論』から愛と美について説明されている箇所を引用してみましょう。

神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。(『原理講論』p72)

 

この「情的な力」がまさに心情を意味し、心情が主体から対象に向かって流れていくとき、それを愛というのです。

 愛の中心とは何でしょうか。それが正に神様なのです。宇宙生成以前からある唯一、永遠、不変の存在なのです。この愛というのは心情の流れです。内的な心情が外的に流れていくのが愛です。ですから、神様の本質は心情です。(『文鮮明先生御言選集』 65-258 1972.11.26)

 

それでは、ここで心情と愛と生命と血統の関係性を「統一原理」の観点から整理してみましょう。

このように、神様の心情が主体を通して対象に流れて愛となり、対象から生命が生まれ、その生命から新たな生命が生まれることによって神様の血統が完成するのです。

したがって、神様の心情と神様の血統とは性相と形状の関係にあり、無形の神様の心情が形状化して地上に定着したものが神様の血統なのです。

文鮮明先生は、このことを「平和メッセージ12」の中で次のように語られています。

 皆様、生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくてもできず、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
 したがって、この血統と連結されれば、神様が理想とされた理想人間、すなわち人格完成も可能であり、理想家庭も生まれるのであり、さらには、神様の祖国、理想国家も出現するのです。
(平和メッセージ12「神様の理想家庭と天一国の民の召命的責任」 2007年2月23日)

 

神霊とは神様の愛の力ですから、心情から愛、生命、血統が形成されていく家庭的な四位基台の形成過程こそ、まさに神霊が流れていく経路ということになります。

※「エバ(חַוָּה, Ḥavvāh:ハゥワー)」という言葉はヘブライ語で「生命」を意味する。

真理でサタン分立、神霊でサタン屈伏

それでは次に、神霊より真理を重要視する傾向のある堕落人間が、末世を迎えた現在、どのように対処すればよいのかについて考察してみましょう。

(1)神霊と真理から見た信仰基台と実体基台

こちらの記事「人間と天使の責任分担の違い【後編】」で解説したように、人間の責任分担は、み言を信じて守り、み言の完成実体、すなわち真の愛の人格を完成することです。

この責任分担を完遂するために、本来、アダムが立てるべきだった信仰基台と実体基台を蕩減復帰しなければならないのが私たち自身の復帰摂理です。

そして、この信仰基台と実体基台の関係を二性性相の観点から「統一原理」では次のように説明されています。

「実体献祭」は、あくまでも内的な献祭であるので、万物と人間の創造の順序がそうであったように、外的な「象徴献祭」をみ意にかなうようにささげた基台の上でのみ成就されるようになっている。(『原理講論』p298)

 

このように信仰基台が外的、実体基台が内的なので、神霊に対応するのが実体基台、真理に対応するのが信仰基台ということになります。

ですから、信仰基台は神様のみ言を中心に立て、実体基台は神様の愛を中心としてアベルとカインが一体化する摂理になるのです。

(2)神霊と真理から見たサタン分立とサタン屈伏

み言を中心に蕩減条件を立てて信仰基台を復帰することでサタンが分立されるのですが、こちらの記事「イエス様の荒野での三大試練①み言で勝利されたイエス様」で解説したように、サタンを分立できるのは神様のみ言だけです。

神霊がエネルギーで真理がその通り道と考えると、真理に対応する信仰基台を立てることは、神霊つまり神様の愛の力を地上に連結させる道を開くことを意味しているのです。

ただ、信仰基台を復帰した段階では、一時的にサタンが分立されるだけで、イエス様が三大試練に勝利されたあとのことについて『原理講論』には次のように記述されています。

 三大試練においてイエスに敗北したサタンは、一時イエスを離れたのであった(ルカ四・13)。サタンが一時イエスを離れたというのは、永遠に離れてしまったということを意味するのではなく、逆に、再びイエスの前に現れることができるということを暗示しているのである。
 果たして、サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。(『原理講論』p419)

 

このあと十二弟子とユダヤ民族がイエス様と一つになることができたなら、ヤコブと一体化したエサウのように、神様の愛を受ける立場に復帰できたはずです。

エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。(『原理講論』p250)

 

そのようにして実体基台が立てられれば、一時的に分立されていたサタンは完全に屈伏するようになります。

このように、サタンが分立されるのは真理だけであり、完全に屈伏するのは神様の愛だけです。

末世の現在では、その真理とは文鮮明先生のみ言と「統一原理」であり、神霊とは為に生きる真の愛のことです。

(3)怨讐を愛さなければならない理由

サタンは真の愛にのみ完全屈伏するということですので、次にイエス様のみ言から怨讐を愛する理由を考察してみましょう。

イエス様が語られた「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)というみ言について、『原理講論』では次のように説明しています。

 イエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子達に言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復帰せよという意味であった。
 何故なら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性を帯びるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。(『原理講論』p139~40)

 

このように、このイエス様のみ言は「創造本然の人間に復帰せよという意味」です。

それでは、堕落した人間がどうすれば創造本然の人間に復帰できるのかを知るために、この聖句の前の部分を確認してみましょう。

 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ福音書5章43~48節)

 

この聖句を見ると、神様のように「完全な者」になるには、神様が善人にも悪人にも平等に対されるように、敵を愛し、迫害する者のために祈る、つまり怨讐を愛する必要があるということが分かります。

怨讐を愛するということについて文鮮明先生は次のように語られています。

 神様の理想国家の実現は、怨讐を愛する思想をもった個人から出発します。怨讐に勝つ秘訣は、腕力を通じてではありません。怨讐まで抱く真の愛の力を通じてのみ可能です。(中略)
 怨讐を愛する精神をもった人々で構成された国が出てくれば、その国が神様の願う理想郷になり、人類が入ることのできる理想的なモデルになることができます。(中略)
 私たちは、怨讐を愛する真の愛を実践し、霊界を正しく知る真の人となり、真の父母となって、真の家庭をつくらなければなりません。平和世界の基点はここにあります。神様が願われる理想国家の基点がここにあるのです。(『文鮮明先生御言選集』404-314 2003.2.6)

 

このように、怨讐を愛するという過程を経なければ私たちが神様のような「完全な者」になることもできませんし、神様の創造理想も実現されません。

ここに怨讐を愛さなければならない原理的な理由があるのです。

しかし、「堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍い」(『原理講論』p174)ために、み言を中心に信仰基台を立ててサタンを分立することはできても、神霊すなわち神様の愛の力でサタンを屈伏させることは容易ではありません。

そのため、末世にいる私たちに対して、『原理講論』では次のように記述されているのです。

 終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行なう祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。次には、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
 そして探し出したその真理が、果たして自分の体のうちで神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒達は、真の救いの道をたどって行くことができるのである。(『原理講論』p175)

神霊に相対する人と真理に相対する人

堕落した人間は基本的には真理に相対しやすいのですが、文鮮明先生のみ言によると、人によっては神霊に相対しやすい人もいます。

自分がどちらに相対しやすいのかを認識して、自分自身で神霊と真理を調和、統一できるようにしなければなりません。

それでは、具体的にどのようにすれば神霊と真理を調和、統一できるのか、文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。

 知的な人は祈りが必要であると同時に何が必要でしょうか? 神霊的な人は、知的な面の補強が必要であると同時に何が必要でしょうか? 友人が必要です。一人でやろうとすれば、とても難しいのです。ですから、皆さんが人の証を聞き、体験を聞くことは、信仰生活に限りなく助けになります。(中略)
 神霊的な面に自分の素性が合う人たちは、ひたすら霊的なものに対して気になります。先生のような人は、本来生まれつきそのような人です。神様について話をすればとても気になります。御飯を食べずに二十四時間聞いても、聞けば聞くほど楽しくなるのです。
 そのような人は、その一方向だけではなく、真理で補強しなければなりません。このように両面を心得ていかなければならないのです。自分の素性、自分がどちらの面の人なのか各自が分かるでしょう。
 ですから、反対の面を啓発するために努力しなければなりません。あるいは真理を探究し、あるいは神霊面で体恤するのです。ここには必ず何が必要かというと、祈祷と真理の探究が必要です。
 神霊的な人は既に霊的に感じたものを真理で消化し得る基盤を築かなければならず、真理的な人、知性的な人は、その知性的な面に霊的な、神霊的な面を補強できる体恤的な基盤を築かなければなりません。そうすれば、それは必ず自分が離れることのない永遠の土台として発展できる基礎になるのです。
 自分一人では大変なので、必ず自分と相対的な素性をもつ人を友人とするか、師とするなどして指導を受け、協助を受けていくことが、最も正しい道であることを皆さんは知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』76-139 1975.2.2)

 

知的な人は祈りが、神霊的な人は真理で補強することが必要なのですが、これは復帰原理で言えば信仰基台であり、友人が必要というのは実体基台に該当します。

人の証や体験を聞いてそれを自分の人生に活かすことによって、自分の人生が何倍にも豊かなものになります。

その内容が成功談であれ失敗談であれ、それはとても貴重でありがたい教訓になるものです。

また、伝える側の人も、自分の体験を人と共有することで、さらなる学びがありますし、お互いの心情関係や信頼関係を深めることができます。

まとめ

神霊が主体で真理が対象であるように、神様は「原理の力」よりも「愛の力」を強くされたのですが、その理由について『原理講論』では次のように説明されています。

神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。もし、愛の力が原理の力よりも弱いものであるとすれば、神は原理で創造された人間を、愛をもって主管できず、したがって、人間は神の愛よりも原理をより一層追求するようになるであろう。イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた理由は、正にここにあったのである。(『原理講論』p113)

 

このように、創造本然の世界では神霊・愛が主体、真理・原理が対象なのですが、堕落によってこれが転倒してしまいました。

それと同時に、堕落した人間は神霊と真理のどちらかに偏る傾向性も生じてしまいました。

ですから、自分がどちらのタイプなのかを自覚し、それと反対のタイプの人の証や体験を聞いたり、意見やアドバイスを求めたりするなどして、自分自身の中で神霊と真理を調和、統一させていく必要があります。

特に、末世においては神霊的な人はより神霊の方向に進んで雑多な霊界と相対しやすくなり、知的な人はより真理の方向に進んで霊的な感性が暗くなりやすくなります。

それで聖書には、「人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」(ルカ17・23)という警告のみ言があるわけです。

まずは自分自身で信仰基台と実体基台を立て、神霊と真理を調和、統一させることが、正しい信仰の道を行く最善の方法です。