先回の【前編】では、人間の「責任分担」に対するよくある解釈とその矛盾点を明らかにしました。
今回の【後編】では、天使の「責任分担」の有無やその内容について説明し、それと比較しながら人間の「責任分担」を明確にしたいと思います。
天使に「責任分担」はあるのか?
まず、「責任分担」について文鮮明先生とある教会員との質疑応答の記録が『文鮮明先生御言選集』にありますので、それをご覧ください。
教会員:ルーシェルの責任分担は何なのか、天使長ルーシェルが堕落できるのか、失敗を犯しうるものなのか知りたいです。
文鮮明先生:堕落したのだから失敗したのではないですか。失敗できたから堕落したのでしょう。
教会員:全知全能でいらっしゃる神様が天使を創造されるときに、どうして失敗できるものを創造されたのかということが(疑問なのですが)。
文鮮明先生:ですから、法というものがあるではないですか。あなたたちもそうではないですか。全知全能の神様がつくられた人も同じではないですか。法を守らなければ、いくら聖人の息子でも、いくら聖人だとしても、法に背けば、それはすべて法の制裁下に入っていくのです。法に背けばすべてのものが破壊されます。神様自身も法を守るのです。絶対的な神様も法を守るというのです。
あなたたちは原理のみ言を学んでいないのですか。神様が絶対的なので、原理も絶対的です。ですから、その原理原則を守らなければならないのです。天使長もそうです。神様がつくった法度に従って生きなければなりません。その限界内で生きなければならないのです。限界外に出ていく、それはいけないのです。
教会員:それでは責任分担は? 責任分担という人間に善悪の実を取って食べることも取って食べないこともできる選択権が与えられたのではないですか。
文鮮明先生:その責任分担というものは、愛のためにつくったのです。神様を中心として愛の関係を結ぶことができるたった一つの存在は人です。人しかいません。なぜ特定の人間にだけ責任分担を与えたのかということです。
もちろん、天使世界にも責任分担があるでしょう。しかし、私たちの原理で言う間接主管圏と直接主管圏、二つの世界を経ていくことができる、このような立場に立っているのは人間だけです。(『文鮮明先生御言選集』182-101 1988.10.16)
以上の質疑応答を見ると、文鮮明先生は、「取って食べるな」という戒めのみ言は法度であり、神様も人間も天使も守るべきものだと言われています。
そして、天使世界にも責任分担はあるが、間接主管圏と直接主管圏を経ていくのは人間だけと言われ、天使と人間の「責任分担」は異なると説明されています。
参考として、下記の記事から一部を引用します。
アダムとエバの堕落④堕落の責任は人間と天使のどちらにあるのか
~引用ここから~
④堕落に対する天使の責任はゼロなのか
堕落の責任が人間にあるからといって、天使長ルーシェルには何の責任もないということではありません。
なぜかというと、『原理講論』のp117に「神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられた」とあるように、天使にも自由が与えられているからです。
「責任のない自由はあり得ない」(『原理講論』p125)というのが「統一原理」の観点です。
さらに、「天使は、人間に仕えるために創造された」(『原理講論』p127)という天使の役目を果たしていないという責任不履行という問題もあります。
しかも、天使長ルーシェルは、神様がアダムに戒めのみ言を与えたことを知っていたのです。(詳細はこちらの記事を参照)
https://unification-principle.com/adameva2
つまり、『原理講論』のp98に「この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていた」とあるように、ルーシェルは「取って食べさせたくない」という神様の心情を知っていたのに、その心情を踏みにじってしまったということです。
そして、知恵と欲望を与えられていたルーシェルが愛の減少感を抱いたとしても、神様はアダムを通してルーシェルを愛そうとしていらっしゃったのです。
ところが、ルーシェルは、その神様の心情に背いて、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったのです。
以上のことから、堕落に対する責任は人間より小さくても、天使にも責任はあったと言うことができます。
そのため、堕落した状態から創造本然の状態に復帰するためには、アダム、エバ、天使の三存在が関与しなければならないのです。
復帰摂理における三存在の関与について『原理講論』では次のように説明されています。
元来神の三大祝福が完成されなかったのは、アダム、エバ、天使長の三存在が堕落してしまったからであった。ゆえに、三大祝福の復帰にも、それらを蕩減復帰するための三存在の関与が必要であったので、後のアダムとして来られたイエスと、エバの神性をもって来られた聖霊と天使の三存在が一つになって初めて霊的救いの摂理を成し遂げ、神の三大祝福を霊的に復帰することができたのである。(『原理講論』p547~8)
もし天使に堕落の責任がまったくないのであれば、復帰摂理に天使が関与する必要はありません。
天使にも一定の責任があったからこそ、復帰摂理にはアダムとエバと天使の三存在の関与が必要になるのです。
~引用ここまで~
天使の「責任分担」とは何か?
先ほどのみ言で「天使世界にも責任分担がある」とありましたが、どのような立場と役割が天使に与えられていたのかを『原理講論』で確認してみましょう。
このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに、黙示録二二章9節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書一章14節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。
そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙五・11、黙七・11)。(『原理講論』p106)
以上のように、天使は神様と人間に対して僕の立場であり、神様と人間に仕え、頌栄をささげるのがその役割ですから、それが天使の「責任分担」と言うことができます。
そして、主人である神様の戒めのみ言に対しても、それを守るのが僕である天使の当然の責務です。
それでは次に、以上のような天使の「責任分担」と比較しながら、人間の「責任分担」について調べてみましょう。
人間の「責任分担」とは何か?
(1)アダムが立てるべきだった個性完成のための条件
人間に与えられた本来の「責任分担」を明確にするために、まず堕落する前のアダムが立てるべきだった条件について確認しておきましょう。
その「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の実を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。そうして、この成長期間は数によって決定づけられていくものであるがゆえに、結局この期間は、数を完成する期間であるということもできるのである。
一方、アダムが創造目的を完成するために立てなければならなかった第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。(『原理講論』p277~78)
アダムが個性完成するために立てなければならなかった条件は、戒めのみ言を守って成長期間を全うする「信仰基台」と、み言の「完成実体」になる「実体基台」の2つです。
(2)「信仰基台」復帰の条件と戒めのみ言を守る期間
ここで「信仰基台」復帰のための条件である「み言を守ること」と「取って食べてはならない」という戒めのみ言の関係を明確にしておきましょう。
「信仰基台」というのは一時的に立てるものではなく、永久的に立て続けるものですから、「み言を守ること」は永遠不変の条件です。
それに対して「取って食べてはならない」という戒めのみ言は、人間が成長期間にいる間にだけ設定された限定的な条件です。
したがって、「み言を守ること」が普遍的な条件であり、「取って食べてはならない」という戒めのみ言は一時的な条件ですから、この2つは内外の関係にあり、「み言を守ること」がより本質的な条件になります。
そのため、復帰摂理路程の中心人物たちは、戒めのみ言とは異なる内容のみ言を神様から与えられ、それを守ることによってアダムとエバの失敗を蕩減復帰し、「信仰基台」復帰のための条件を立てています。
アベルが供え物を捧げたこと、ノアが箱舟をつくったこと アブラハムが象徴献祭とイサク献祭をしたことなどがその例です。
復帰摂理路程は、アダムが完遂しなければならなかった「責任分担」を蕩減復帰原理によってやり直す路程ですから、「み言を守ること」によってそれを果たしたわけです。
そして、この「み言を守ること」は、天使にも当然果たさなければならない「責任分担」です。
ですから、先ほど紹介した天使の立場と役割のみ言にあったように、神様のみ言を受けた中心人物たちを天使たちが協助することによって、彼らも自らの「責任分担」を果たしているのです。
(3)み言を守ってみ言の「完成実体」になることが人間の「責任分担」
では、アダムが個性完成のために立てなければならなかった2つ目の条件であるみ言の「完成実体」とは何でしょうか?
このみ言とは何のみ言かというと、天使には与えられず人間にだけ与えられた「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)という三大祝福のみ言のことです。
こちらの記事(神様が人間を創造された目的②神様の定義と三大祝福)で解説したように、三大祝福を完成することは、人間が神様に似た実体になることです。
それでは、人間がどのようになればみ言の「完成実体」になれるのかについて『原理講論』から引用してみましょう。
このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。
ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。
また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。(『原理講論』p61)
以上の内容を一言で言えば、人間が神様のような「真の父母」になったとき、はじめてみ言の「完成実体」になったと言える、ということではないでしょうか。
天使には肉身がないため、み言の「完成実体」になることはできませんので、これこそが人間にだけ与えられた「責任分担」です。
天使が存在するもう一つの理由
ここまでで人間の「責任分担」を明確にしましたが、それによって天使が存在するもう一つの理由が分かってきます。
さきほど説明したように、天使は僕であり頌栄をささげる存在なのですが、人間がみ言の「完成実体」、すなわち真の愛の「完成実体」になるためにどうしても必要だったのが天使です。
なぜかというと、神様が天使長を愛されたように、人間も天使長を愛することによって、はじめて真の愛の「完成実体」になることができるようになっていたからです。
天使長には知能と欲望と自由が与えられていたので、神様の真の愛も感じることができ、愛の減少感も感じることができました。
そして、自分自身ではその愛の減少感を克服できないように創造されていたため、アダムとエバから真の愛を受けなければならないようになっていたのです。
また、天使長に相対がいない理由も、もし相対がいたら、その相対を通して愛の減少感を満たすことができてしまうからです。
もしアダムとエバが天使長を愛して真の愛の「完成実体」にならないまま、ただ戒めのみ言を守って成長期間を通過して第二祝福として子女を生んだらどうなるでしょうか?
その生まれてきた子女たちは、アダムとエバから真の愛を受けることができず、不完全な愛を受けることになってしまいます。
ですから、アダムとエバは、天使長が神様から受けた真の愛と同じ真の愛を天使長に与えることができれば、天使長がアダムとエバに自然屈服して神様の子女として認めるようになるのです。
文鮮明先生は、怨讐を愛さなければならない理由を説明されながら、天使長の主張を次のように語られています。
堕落した天使長が神様を讒訴しても、神様であられるがゆえに、たとえ天使長は堕落したとしても、神様が立てられた法度を遵守せざるを得ません。神様は絶対者であられます。
それゆえ天使長がすでに堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、または規則に従って主管せざるを得ないのです。これは、神様が堕落以前の天使長にしようとされたことが何であろうと、堕落したのちも、変わらずにそうせざるを得ないことを意味します。ですから天使長は、神様に「神様、あなたは私を完成期まで、完成期ののちまでも愛されることになっています」と言うのです。
そして、天使長は、長成期まで神様の愛を受けました。それ以降には愛を受けることができませんでした。「たとえ私がサタンになったとしても、神様は私を変わらずに愛されなければなりません」。これが正に天使長が讒訴する内容なのです。そのため、神様がなされるべきことを完遂されるときまで、天使長を追い出すことができません。これが天使長という存在です。
天使長は、「神様自身だけでなく、その息子のアダムと娘のエバも、やはり私を完成期まで愛さなければならない。それが原則だ」と言います。ですから、皆さんがこの天使長を追い出そうとすれば、まず皆さんの責任分担を完遂しなければなりません。
そうするときまでは、皆さんが天使長を追い出すことができないということです。そのため、神様は、神様御自身とその子女が天使長を充分に愛したという条件を立てることを願われるのです。(『文鮮明先生御言選集』52-87 1971.12.22)
このように、天使が存在する理由から見ても、人間の「責任分担」は、天使長が認めるまで愛することによってみ言の「完成実体」になることです。
まとめ
文鮮明先生は、怨讐を愛さなければならない理由について次のように語られました。
サタン主権の世界に生きている私たちは、そこから本然の立場と世界に復帰するために、怨讐を愛し、カインを真の愛で自然屈伏させなければなりません。
それは、アダムが天使長に対して真の愛で自然屈伏させることができなかったがゆえに、その蕩減復帰の条件として必要になったことです。
罪の影さえもない創造本然の世界では、人間の堕落というのは、可能性としてはあったとしても、想定外中の想定外の出来事です。
創造本然の人間にとって、戒めのみ言を守ることは当たり前のことで、守るか守らないかという選択の自由の問題ではありません。
ですから、戒めのみ言を守った上でみ言の「完成実体」になり、三大祝福を完成することが人間の「責任分担」になります。
そして、そのみ言の「完成実体」とは、三天使長を真の愛で治め、自然屈服させることができる真の愛の人格を完成することです。
これが堕落した人間がメシヤの祝福を受ける前に3人の信仰の子女を伝道しなければならない理由であり、アダムとエバが「責任分担」を完遂できなかったことを蕩減復帰することなのです。
【人間の責任分担】
①神様の戒めのみ言を守る:絶対性の基準を立てること
②天使を自然屈伏させる:信仰の三子女を復帰すること
③三大祝福の完成:氏族的メシアとして勝利すること