摂理から見たアベルたち(5/10)

1979年12月30日(日)
アメリカ・ベルベディア

※このみ言は、1979年12月30日の聖日に、新しく80年代を迎えるに当たって、私たち統一教会員のアベルとしての心構えとホームチャーチ摂理について、10時間にわたって語られたものです。また、日本では、『摂理から見たアベルの正道』というタイトルで小冊子になりました。

 僕の僕の立場でも感謝していくことができなければ

 5時間になりましたか? 時間がだんだん長くなりますが、私は最も重要な話をします。これは、アメリカ大統領の就任式演説よりも問題がもっと大きいことを知らなければなりません。その場で居眠りした、退屈で居眠りしたとすれば、その人は霊界に行けばすべて記録されています。(私の方が)眠たいというのです。聞く皆さんより話す私がもっと眠たいのです。(笑い)もうやめますか?(「いいえ」)。やめますか、そうすれば私も楽です。12時になるのでお腹が空いたというのです。(笑い)足も痛み……。皆さんを蹴飛ばすのも、足の運動をしようとしているのです。このくらい話せば分かりますか?(「はい」)。

 神様の息子になることが簡単だと思いますか? レバレンド・ムーンが堕落したこの世界に生まれて、神様の息子になろうというのですが、神様の息子になることが簡単だと思いますか、神様の息子になることが? アメリカの大統領になることも大変なのに、韓国の大統領になることも大変なのに、神様の息子になれますか? 神様の息子になることが簡単でしょうか? それはどれほど大変ですか? どれほど大変かというのです。この歴史時代において最も大変なことです。

 このようなことを暴いて知ることだけでも、ああ、レバレンド・ムーンの頭が粉々にならなければならないのです。このようなことをどうやってすべて分かったのでしょうか? それがコンサイスに記録されていますか、図書館にありますか? それをどうやって分かったのでしょうか? どうやって分かったのかというのです。それは、皆さんが余裕をもって研究しても分からないことです。

 神様の心臓部に向かって原子爆弾を500個くらい撃ったからといってできることですか?(「いいえ」)。それでは、レバレンド・ムーンはどうやって分かったのかというのです。世界を遊覧し、遊びまわり、好きなように結婚してできると思いますか? (「いいえ」)。今日、現代の知性人たちが理解できる体系をつくっておいたというのは偉大なことです。これは、神様も今までできなかったのです。ですから、神様の心情を中心として、霊界に行った数億の霊人、数億の先生たちがいますが、彼らがレバレンド・ムーンを先生と言うのではないかというのです。偉大な先生であり、私たちが知らない天の心情を教えてくれた先生だと……。

 皆さんは、先生に対してどのように思いますか? 「先生の顔はまあまあで、聖日に来て話をしてくれる先生」、そのように思うでしょう? しかし、その背後がどうなのか分かりますか? その背後を知らなければなりません。ベールをめくってみると何があるか分かりますか? ここに出てきた祝福家庭、長くいる者たちですが、この人たちは、世の中がすべて自分たちの思い通りになると思っているというのです。しかし、とんでもないことです。皆さんもそのように思いますか? (「はい」)。行けば行くほど、だんだんと先生は新しい出発をします。ですからお母様も、先生が好きですが、先生を最も恐ろしく思っています。何の話か分かりますか?(「はい」)。好きになることばかりがよいことではないのです。

 さあ、そのような息子の責任を果たすために、このようなことを知ったのちに息子になれる使命を受け、息子として行くべきそのような立場を行ったのではなく、世の中の最も悲惨な道、雑種犬が行くべき道を歩んできたのです。最も悲惨な道を、僕の僕の立場から築いてきたこと、これが偉大なのです。それを知らなければなりません。

 私が僕の僕からこのことをして、僕のふるまいをしながらこの道を築いてきたのです。養子の橋がないので……。キリスト教の牧師、博士でも、この役割を果たす人が一人もいないので、「私がやらなければならない」と責任をもち、今までこのことをしてきたということです。

 では、僕の僕という言葉を語るとき、この言葉は誰のことを言うのですか? 僕という言葉は、他の人を言うのではなく、自分のことを言うのです。養子という言葉は、他の人を言うのではなく、自分のことを言うのです。息子のために生きなければならないという話は、他の人を言うのではなく、自分のことを言うのです、自分のことを。それが違います。

 神様の人類を救おうという切実な心情を知り、私の他にしてさしあげる人がいないので、私が行くのは息子が行くべき道を行くのであり、これが忠誠の道理だということを知ったがゆえに、このことをするのです。「息子の立場は私は嫌だ。養子の立場、僕の立場がよい。僕の僕の立場で死んでいっても、私は息子の立場で死ぬ以上の感謝をしよう」という心をもってこのことをするのです。

 ですから、サタンも讒訴できません。サタンが讒訴できないというのです。そうでなければ、サタンが「お? 神様の息子がなぜこの立場に来てこのようなことをするのか?」と讒訴するのです。息子の立場を恋い慕う必要はないというのです。この僕の僕の立場でも息子の立場のように感謝していきます。僕の僕の立場も、自分が願っていくのです、自分が願って。この立場で死んでいったとしても、息子という栄光を占有して死んでいきます。私が僕の立場で死ぬとしても、ゲッセマネの園でイエスは3度も「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈りましたが、私はそのような祈祷はしないというのです。「私が僕の僕の立場で死ぬとしても、天の栄光を受けた以上の立場で死んでいきます」と言います。

 数千年苦労して来られた神様を考えれば不平を言うことはできない

 先生もそうなのに、皆さんは何を願いますか? 神様の息子、娘になるというのですか? 「神様の僕の僕になっても、その何千倍になっても、私は感謝する」、それが統一教会で受け継ぐべき伝統だと私は考えるのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 それなのに不平を言うことができますか? ありとあらゆる無念で悔しい目にあっても、私は天の前に一度も不平を言ってみたことがありません。自分の口を開いて、「神様、なぜ私をこのようなところに送ったのですか?」と言いませんでした。私が監獄で手錠をかけられて苦労しても、「神様、なぜ私をこのような道に送るのですか? 息子として栄光の立場を約束すると言っておいて、これは何ですか?」と言いませんでした。私はどこであっても行くということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。疲れた疲れたと言い、眠れなければ眠れないと言い、お腹が空けばお腹が空いたと言い、寒ければ寒いと言わないのです、そのような立場に立っていても。それで、「統一教会の先生はそのようにしない」と言って人々が私を研究しているのです。

 なぜそのようにするのかというと、そのようにお腹を空かせた人に対して何かを願っている神様がどれほどかわいそうかというのです。それを知らなければなりません。飢え、震え、休むことができない人に対して、神様が何かを願っているという事実が、どれほど悲惨かということを皆さんは知らなければならないのです。それが何の話か分かりますか?(「はい」)。それをすべて知らなければなりません。

 神様がいるならば、その神様はレバレンド・ムーンを愛さなければなりません。愛さないとすれば、神様はいないのです。ですから、レバレンド・ムーンが行く苦労の道には、友人もつくってくださり、慰労の対象もつくってくださるのです。道が困難であれば、ご飯をつくって待つ人がいて、電車に乗っていかなければならないのに歩いていこうとすれば、乗車券を買ってくれる人がいるのです。そのようなことが先生の歴史にはあります。話はしませんが、話をしようとすれば、不思議な話があまりにも多いというのです。

 そのたびに「この責任を果たせていない男に対して、天はこのようにしてまで役事をしてくださるのだなあ。死に値する罪を犯した」、このようにして歩んできました。「私はどう扱われてもよいはずなのに、なぜこのようにしてくださるのか」というのです。それが重荷です。一生の間、負債を負った歩みをして、這いつくばり、死ぬか生きるかで生きてきましたが、皆さんは何年間、み旨のために歩んできましたか? 神様はこの歴史を何千年でも導いていかなければならないのに、その神様を思えば、私が不平を言うことができますか? 闘ってみなさいというのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 きょうが1979年度の最後の聖日です。もう80年代に越えていきます。怨恨の多い70年代は越えていき、希望に満ちた新しい80年代に向かっていかなければなりません。

 さあ、今私が80年代を迎えるようになるとき、恥ずかしくないのです。世界にレバレンド・ムーンを知らない人がいません。レバレンド・ムーンという言葉をひと言も、一度も聞いたことがない人は世界にいないでしょう。左右の間ですべて聞きました。共産圏までも私を知っています。それを知らない者は、豚のように世の中を知らず、新聞も見ず、ラジオも聞かない者たちでしょう。獣と同じです。国に関心がない人であり、世の中に関心のない人です。そのように悪いことをしたのなら、滅びなければならないはずなのに、いまだに残っていることを考えれば、一度訪ねてこなければならないというのです。レバレンド・ムーンを知らないという話はできないでしょう?

 皆さんをして、足が腫れ、体を壊すほど訪ねていって話をしなさいと追い出したというのです。あとで現れて、「ああ、レバレンド・ムーンにそのような責任があるのなら、なぜ私たちの町に来なかったのか?」と言えば、「来なかったとは何の話か? どの州でも私がすべて行って宣伝してまわっても、あなたたちが聞かなかったのではないか。私が杖をつき、非難されながら、監獄に行くほど有名になってあなたたちの州に行き、あなたたちの町に行き、すべて話をしてあげたのに聞かなかったのではないか」と私が叫び、皆さんが証言するのです。

 家という家を訪ねてまわってファンダレイジングをして、チラシをまき、このようなことをしなさいというのです。迫害を受けて追われる人に一銭でももてなせば、千万金を与えたよりも神様はもっと価値あるものと思われるので、その一銭を忘れずに記憶してくれます。ですから、富者の中には、ムーニーを後援する人が絶対にいないというのです。黒人たちと貧しいスパニッシュ系が後援するのです。

 私たちはどんどん大きくなります。どんどん大きくなるのです。裕福に暮らすアメリカの人たちよりも、私たちは繁盛するでしょう。何の話か分かりますか?(「はい」)。涙で感謝しなければなりません。自分の栄光の富と祝福を、神様の前に涙と共に感謝する心でお返ししてさしあげれば、涙と共に天がそれを返してくれます。そのようにしていこうというのです。皆さん、分かりますか?(「はい」)。

 天の息子と父母になろうとすれば天の法度と地に法度に従わなければ

 レバレンド・ムーンはお金持ちだと言うのですが、私は自分のためにお金を使いません。すべて世界のために使います。これも(ネクタイを指し示される)すべて誰かが買ってくれたのです。(笑い)どこに行ってもそうです。アメリカで最も有名な何々センター、何々食堂がよいと言うのですが、他の人たちが言うところには一度も行ってみたことがありません。しかし、マクドナルドにはよく行くのです。「あの人はレバレンド・ムーンのようだが、まさかレバレンド・ムーンがここに来るだろうか」と、レバレンド・ムーンのような人が来たと思うのであって、レバレンド・ムーンが来たとは夢にも思いません。(笑い)私がラスベガスにも、研究するために調査で初めて行ったのですが、レバレンド・ムーンのような人が現れたのであって、レバレンド・ムーンではないというのです。

 さあ、裸で踊り、胸を出してこのように踊っているあいだ、こうして見ているのです。(笑い)人が見れば、「レバレンド・ムーンがどうだ、こうだ」と言うでしょう。悪口を言うなら言って、批判するなら批判しなさいというのです。また、そこにいる有名な人を友人としてつきあうために、人にギャンブリング(gambling:賭博)をさせるのです。教育までさせます。それで先生が行って訓示もします。(笑い)私がギャンブリングを見せてあげます。しかし損はしません。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 また、私娼街にいる女性たちと道端で会って話もしました。「おいおい、これは何だ? 真昼に裸になって、これは何だ」と言ったのです。「あなたは誰か?」と言えば、「お前は兄の友人も知らないのか? この女は」と言うのです。(笑い)「なぜここに来るようになったのか?」と尋ねたりしながら、さっと歴史をたどって話をしてあげるのです。先生は世の中を知っている人です。先生は世の中を知っている人だというのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。私は知らないことがありません。私は、キャバレーの背後がどのようになっていて、私娼街の背後がどのようになっていて、マフィアの背後がどのようになっていて、この麻薬の群れたちの背後がどのようになっていて、共産党の背後がどのようになっているということをすべて知っているというのです。

 先生が自然人のように思いませんか?(「思います」)。山に行けば山人になります。すぐになります、一瞬のうちに。海に行けば漁夫になり、農村に行けば農夫になり、学校を立てれば学者になり、理論家と会えば理論家になり……。(拍手)やってみなかったことがありません。乞食までやってみたのです。そこまですれば分かるでしょう? 橋の下で眠るときは、「神様、こうして眠ります」と言います。それがどれほど詩的ですか? 神様の息子がこのように眠ります……。そのようなことがすべて……。そのようなことを文章で書いておいたものが、すべて燃えてしまいました。億千万のお金を出しても買うことができず、数百億を出しても買えないそのような宝をすべて……。監獄生活をしながら書いたものをすべて……。そのような事情は、皆さんが先生から学ばなければなりません。それを知りたいと思いませんか?(「知りたいです」)。

 さあ、話をすればみなひっくり返ります。逃げていくかもしれないので話はしません。「ああ、私は聞くのは好きだが、行動するのは嫌だ」、このように思うのに話をしますか? これから誰かがソ連に地下工作のために入っていくときは、私が話をしてあげます。ソ連で地下運動をする人たちに対して、衛星国家で地下運動をする食口に対してはすべて……。なぜですか? 聞いて即行動に移すようにです。分かりますか? 皆さんと先生がどれほど遠い距離にいるかということを知らなければなりません。

 やりがいがあるように生きようとし、自ら進んで死に向かう、その道こそが、自由に語ることのできる環境をつくってくれるのです。なぜそのように言えるのですか? 私がこのことを知り、それに直面したので、直面した境遇をよく知っているのです。私がある場でそれに直面したという逸話があり、その事実をよく知っているからです。その場と皆さんとは比較になりません。何の話か分かりますか?(「はい」)。苦労をさせるためには、そのような歴史をすべて相続してあげようと思います。秘密裏にすべて相続してあげようと思うのです。

 皆さんは、日本の食口たちの心情についてくることができず、韓国で先生が過ごしたことを知らないのです。それは何の話か分かりますか?(「はい」)。分かるのなら、皆さんが実践できなければなりません。養子になる道がどれほど難しく、その次に息子になる道がどれほど難しいか、その次には父母になる道がどれほど難しいかということを考えなさいというのです。

 さあ、息子になり、天が立てた父母になろうとすれば、天の国の法度と地の法度に従わなければなりません。それでは、天の国の法度と地の法度をどのように紹介するのですか? これを紹介しなければなりません。ところが、世の中が私に従わず、歩調を合わせないので、先生一人でも歩調を合わせなければなりません。そのようにしながら、「神様、私にも責任があるので、もう少し期間をください。時間をもう少しください。私がアメリカを生き返らせます。今までやったことのさらに10倍やってこれを完成させます」と言うのです。そうすれば皆さんは全員逃げていくでしょう。私の息子、娘の中で劣る人がいれば、その人たちの中で一人を選んでいくのです。これがアベルの行く道であり、アベルのもつ歴史観です。

 死なんとする者は生きるという心でみ旨の道を行きなさい

 さあ、摂理から見たアベルたちが行く道……。皆さん、大変な神様の息子、娘になりますか?(「はい」)。大変でもですか?(「はい」)。それでは、泣きながら活動してください。泣きながらやりなさいというのです。涙は出ても、口は閉じるのです、口は。先生は今もそのようなときが多いのです。今のこれは何も大変なことではありません。皆さんがハーバード大学に入れば、単位をとるためにどれほど苦労して勉強しなければなりませんか? それでも、泣きながらでも行かなければなりません。行かなければ死に、ついていくことができないということです。単位をとらなければなりません、単位を。

 ですから、先生は、そのコースをすべて合格するために、雨が降ろうと雪が降ろうと、人が楽しむ若い青春時代をすべて水の泡にしてこのことをするのです。このような頭をもち、このような能力をもった先生なので、心に決めたならすでに韓国の大統領をやっていたでしょう。何の話か分かりますか? 私がアメリカに生まれていれば、アメリカの大統領のようなものは、すでに問題なくやっていたというのです。そのような男が間違って神様と出会ってこのようなことをしているのですから、残忍至極な……。ああ、アベルの歴史がこのように残忍至極だとは夢にも思わなかったのです。

 今日の宗教者がこのようなことを一つも知らないまま漠然と信じ、ただ丸ごと飲み込んで「天国に行く」と言うので……。そのような天国があれば、私が一番に行くというのです。私とは千里万里の距離です。一から百まですべて真っ赤で、すべて違うので異端でしょう。異端だけになりますか。百端、千端にもなるでしょう。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 さあ、皆さん、そのようなレバレンド・ムーンが必要ですか?(「はい」)。私からそのディグリー(degree:学位)を受けるのは大変だというのです。伝統的でなければなりませんか、いいかげんでなければなりませんか?(「伝統的でなければなりません」)。マイケルでも何でも、離れた統一教会のこのような者たち……。彼らはすべて落第だというのです。中途で離れた人たちは、パス(pass:合格)できないのです。分かりますか? マイケルも離れていったこの道を皆さんが行けると思いますか? マイケルは、私が愛して、彼を出世させて、アメリカの一人の責任者として立てようと計画していましたが、皆さんに対してはそのような考えもしないのですが、ついていくのですか?(「はい」)。それではやってみなさいというのです。卒業するときになれば、だんだんと簡単になりますか、だんだんと難しくなりますか?

 私たち統一教会員の中で、先に入ってきて簡単に行こうとする人たちが落第生ですか、入ってきて1年、2年、3年たっても前進する人たちが落第生ですか? どちらの側ですか? 1年から7年かかりますか、1年から10年かかりますか? その道しか知らないというようでなければいけません。皆さんたちはどちらの群れですか? 適当に様子を見て遊びながら、ダンスパーティもして、バンケットにも行き、リゾートにも行き、人がすることはすべてしますか、あるいは「ええい、なるようになれ」と鉄の門でできた監獄のようなところに入っていき、すべて忘れて苦労をしますか?

 ホームチャーチ活動もやろうと思えば方法はいくらでもある

 さあ、「いったいレバレンド・ムーンはどんな命令までするか? 死になさいという命令以上ものがあるだろうか。早く死になさいと命令してくれればよい」と思えばすべて終わるのです。簡単です。それで「死なんとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」という言葉もあるのです。

 食べず、眠らず、休まずにファンダレイジングして死んだとすれば、死んだというその時間に生き返るのです。また、伝道をしていて、ひと月に1人ずつではなく、毎日1人ずつ伝道しようと出ていって死んだとすれば、すべて終わります。死んで倒れれば、霊界では「どこどこで人が死んだので助けてあげなさい」と12人が集まってきて救ってくれるというのです。「たった今、私たちが協助できずにあなたが死んだので、私たちがあなたの代わりになります」と言います。それで霊界が先頭に立ちます。分かりますか? それで「死なんとする者は生きる」というのです。簡単です。

 最近、皆さんは「ホームチャーチ」と言えば、「ああ、ああ、ホームチャーチ」と言うでしょう? しかし、「このホームチャーチがどれほど大変か行ってみよう! 反対する人、出てきなさい! サタンの頭、出てきなさい! 白人の頭、出てきなさい! 白人でも、黒人でも、スペイン人でも、東洋人でも、すべて出てきなさい! 一度やってみよう! 行こう! 行こう!」、こうでなければなりません。

 皆さん、言うことを聞かなければ方法があります。ラッパを「プウプウ」とひと月の間吹き鳴らし、その次には鐘をひと月の間「カンカン」と鳴り響かせ、そして夜には「チリンチリン」と鳴らしながら、ロウソクを灯してひと月の間、歩きまわってみなさいというのです。そうすれば、「あなたはなぜそのようにしているのか?」と尋ねる人がいるでしょうか、いないでしょうか?

 それが子どもなら、「君のお父さんとお母さんのところに私をつれていきなさい」と言うのです。そして、自分の家に行こうと言えば行き、「あなたの息子がしきりに来なさいと言うので来ました」と言います。そうすれば、その子どもも、「お父さんお母さん、何かよいものはない?」と言います。そのようにして行くのです。歌が上手な女性たちは、「ああ!アメリカよ、目覚めよ!」とよい歌を作曲し、毎日涙をポロポロ流しながら黙ってひと月の間、歌ってみなさいというのです。

 その次に、ニューヨークではガーベージ(garbage:ゴミ)のために問題になっていますが、荷車を1台引いていき、「ゴミをただで捨てる人は、出てきて載せなさい」と言えば、多くの人が門を開けて載せるではないですか? そのようにしてひと月、ふた月の間だけやり、お金をくれようとすれば、「あ! 私はお金はいらない」と言ってみなさい。そうすれば、お昼の時間になると、昼食を買ってくれ、夕食の時間になると夕食を買ってあげようという人、「私の家でご馳走しよう」という人が出てくるのです。それで、「あなたの家はどこですか?」と言われれば、「私に家はありません。私はドンキホーテのような人です」、このように言うのです。そのようにして、どこかに行って食べさせてくれれば食べ、一晩宿を貸してくれれば眠るのです。それが不可能ですか?(「いいえ」)。何でもできるというのです。

 また、マイクを一つ買い、小説や詩のようなものをもってどこかの家の門前に行き、詩や小説を解説してあげるのです。何がどうでこうで……。「文学を勉強したい、詩を勉強したい学生がいれば、私がよく知っているので、私のところに来て尋ねれば教えてあげる」と言うのです。何でもできるということです。

 それは何の話か分かりますか?(「はい」)。それがなぜできないのかというのです。お腹が空けば、「おばあさん、おじいさん! 私にご飯をください。私の祖父母は、私がお腹を空かせたときによくご飯をくれました。あなたは私の祖父母のようなので、私に昼食を一膳ください」と言うのです。そのように言いながらご馳走してもらうのです。それはどれほど楽しいですか? (笑い)そのようにご馳走してもらいます。昼食のときは昼食をご馳走してもらい、夕食のときは夕食をご馳走してもらうのです。それがとても楽しくなります。

 さあ、その次に日はファンダレイジングをして、カステラでも1箱買っていき、「おばあさんはとても人情に厚く、私をもてなしてくれたので、このようなおばあさんが大勢いればよいと私は天に祈りました。このようなおばあさんは私がお世話をしてさしあげなければならないので、カステラを1箱もってきました」と言えば、「ああ! この若者は私の孫より立派だ」と思います。そのようになるようになっています。そのようにして親しくなっていくのです。

 「おばあさん、私がお米を買ってさしあげます」と言えば、嫌だと言う人がどこにいますか? 戸棚を開いてみて、「これは何ですか? おばあさんとおじいさんはお年だからでしょう。私がすべて掃除してあげます」と言いながら、すべてさっさっと掃除してあげ、トイレも片づけてあげるのです。背広を着ていれば、すべて脱ぎ捨て、「背広くらい濡れるなら濡れて、洗えばいい」と言っててきぱきやれば、「いやあ! あのような青年もいるのだなあ」、そのようになるようになっているというのです。

 1日に5分だけ考えても、10種類、100種類、1000種類考えることができると私は思います。それがなぜできないのですか? どの家でも5回だけ行けばよいのです。1度行ったとき、その主人が目をむいて「このムーニー、ムーニー」と言っても耐え、2度目に行ったとき、また「ムーニー、ムーニー」と言っても耐え、そのようになれば、町中の人たちが見て「あのムーニーが何か盗んでいったのか?」と思うのです。3度目に行っても、また「ムーニー、ムーニー」と言ったとしましょう。5度か6度そのようにして町中が知るようになれば、「あのムーニーが何の過ちをしてあのようにするのか?」と思うのです。そうしてまた行ってドンドンとドアをたたき、「ムーニーが来ました、ムーニー、ムーニー、ムーニー」と言います。すると町中が知るようになり、町の人たちが門を開けて、「あなたはなぜムーニーを嫌うのか? 証拠を出しなさい。あなたのような人はムーニーの10分の1にもならない。ムーニーはこのような人だ、迫害を受けながらこの国のために生き、このように反対する人たちを愛でカバーしようとするのに、このサタンが!」と言いながら、その町の人たちが感服するというのです。このようなこともできなければなりません。

 そうして皆さん、神様に祈ってみてください。「このくらいになれば、もうムーニーとして資格がありますか?」と神様に尋ねてみてください。神様も「もう十分である」と言えば、「それでは、これから私が行って1度こらしめてあげます」と言うのです。すると神様も「そうしなさい」と言われるでしょう。それで1度しかりつけると、「ああ、私が間違っていました」と言うようになるのです。そして、町中の人たちも、その人の味方にはならず、「それはそのとおりだ。罪のない人をむやみにそのようにしたのだから、あなたば罰を受けるべきだ」、このようにムーニーの味方になるようになっています。そして、「ムーニーを調査してみないといけないな。修練を受けてみないといけないな」と思うというのです。そうすれば、その人たちが早く復帰されます。このように劇的にしなさいというのです。

(『文鮮明先生御言選集』 106-212~223)

 

 

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