【今回深掘りする原理のみ言】
被造世界の主権を握っているサタンが、現実生活を通して、人間に侵入してくる関係上、今までの宗教の道は、現実を見捨てなくては行かれない道であると見なされてきた。(『原理講論』p494)

 

先回の【前編】では、信仰者が罪を犯してしまう理由とサタンの侵入経路である「現実生活」について解説しました。

今回は、さらに具体的にサタンが侵入してくるタイミングや戦略、それを防ぐ「信仰基台」復帰の意義について深掘りしてみたいと思います。

サタンが侵入してくるタイミング

蕩減復帰摂理歴史を見てみると、サタンが侵入してくるタイミングとしては、主に次の三つになります。

1 新しい摂理を出発する最初の3日間

アブラハムはこのようにイサクを再び神の側に分立させるための新たな摂理路程を出発するために、モリヤ山上で彼を燔祭としてささげるまで、三日期間を費やした。ゆえに、この三日期間は、その後も引き続いて新しい摂理路程を出発するとき、サタン分立に必要な期間となったのである。(『原理講論』p327)

 

「新しい摂理路程を出発するとき、サタン分立に必要な期間となった」ということは、この最初の3日間にサタンが入りやすいということになります。

この時にサタンは、私たちの動機を微妙にずらして自己中心的なものにし、侵入できる条件をつくろうとしてきます。

2 一つの摂理期間の長成期完成級の時期

善悪二つの主権の歴史路程が交差するときを終末という。そしてさらにこのときは、アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期を、蕩減復帰するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきかを知らずに、混沌の中に陥っていったように、いかなる人間も思想の混乱を起こして、彷徨するようになるのである。(『原理講論』p164)

 

アダムとエバは、成長期間の長成期完成級でサタンに侵入されたので、一つの路程の中で長成期完成級、つまり全体の3分の2にあたる時期になると、様々な試練を受けるようになります。

その路程や人によって具体的な現象は異なるのですが、怪我や病気になるといった肉身的な試練の場合もありますし、人から認められない、自分の失敗で他者に迷惑をかけてしまうといった対人関係の試練もあります。

いずれにしても、「エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌」(『原理講論』p127)となったことが再現されます。

そのようにして、私たちに愛の減少感をもたせ、他者から愛を奪うことでそれを満たそうとさせるのがサタンの戦略です。

3 一つの摂理期間が終わった直後

イエスが荒野で四十日の断食を終えられたとき、サタンがその前に現れて、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・3)と試練してきた。(『原理講論』p412)

 

サタンは、40日断食の最中ではなく、それが終わってからイエス様を試練してきました。他にもこのような例があります。

人間の創造直後に、天使長がエバの愛を犯そうとし、また、カインとアベルが献祭するときにも、サタンが彼らに侵入する機会を待ち伏せていたのと同様に(創四・7)、洪水審判が終わろうとするときにも、サタンが、ノアの家庭に何か侵入する条件がないかとねらっていた。(『原理講論』p306)

 

サタンは、私たちが一つの路程を終えたあと、特に承認欲求に相対基準を合わせて侵入してこようとします。

承認欲求とは、「認められたい」、「褒められたい」といった欲求のことで、神様や他者に感謝できないように誘導しようとしてきます。

つまり、傲慢な思いをもたせて神様や霊界の協助を忘れ、感謝する心をもたせないようにしてくるのです。

サタンが侵入する条件

1 善悪分立の原理的意義

【前編】でも言及しましたが、サタンが侵入できる条件についてさらに深掘りしてみましょう。

サタンも、ある対象を立ててそれと相対基準を造成し、授受の関係を結ばなければ、その存在、および活動の力を発揮することができない。ゆえに、いかなる存在でも、サタンが侵入できる条件が成立し、サタンの相対となって、サタンが活動できるようになったときに、そこで罪が成立するのである。(『原理講論』p308)

 

この「サタンが侵入できる条件」とは何かについて『原理講論』では次のように説明しています。

信仰生活は、自身を供え物の立場に立てておいて、善と悪に分立させ、神が喜ばれるいけにえの供え物としてささげる生活である。ゆえに、我々が常に、神のみ旨を中心として、自身を善と悪に分立させないときには、そこにサタンの侵入できる条件が成立するのである。(『原理講論』p338)

 

このように「サタンが侵入できる条件」とは、「み旨を中心として、自身を善と悪に分立させない」こと、とあります。

それでは、善と悪を分立することに関して、その原理的な意義を確認しておきましょう。

 創造原理によれば、人間は本来、一人の主人にのみ対応するように創造された。それゆえ、二人の主人に対応する立場に立っている存在を相手にして、創造原理的な摂理を行うことはできない。もし神が、アダムとその供え物に対応しようとすれば、サタンもまた、アダムと血縁関係があるのを条件として、アダムと対応しようとするのはいうまでもないことである。
 そうなると結局アダムは、神とサタンという二人の主人に対応するという非原理的な立場に立つようになる。神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。
 このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。(『原理講論』p290~1)

 

このように、「み旨を中心として、自身を善と悪に分立」するというのは、神様から見れば、それはその人が神様だけが対応できる立場に立つことを意味します。

このことから、復帰摂理路程における善の立場か悪の立場かというのは、神様だけが対応できるのか、それとも神様とサタンの両方が対応できるのかによって決まるということになります。

そして、神様のみ旨を教えてくれるものが真理であり、み言ですから、み言を中心として神様だけを絶対信仰する立場に立つことが「み旨を中心として、自身を善と悪に分立」するということになります。

2 アブラハムの象徴献祭失敗の教訓

それでは、善と悪に分立しないとどうなるのか、アブラハムが鳩を裂かずに捧げたことによって象徴献祭に失敗したことから確認してみましょう。

 アブラハムが鳩を裂かずにささげたことは、サタンのものをそのままささげた結果となり、結局、それはサタンの所有物であることを、再び、確認してやったと同様の結果をもたらしてしまったのである。
 このように、蘇生を象徴する供え物である鳩がサタンの所有物として残るようになったので、蘇生の基台の上に立てられるべき長成と完成を象徴する羊と雌牛にも、やはりサタンが侵入したのである。したがって、この象徴献祭は、みなサタンにささげたという、結果に戻ってしまったので、鳩を裂かないことが罪となったのである。
 象徴的供え物に荒い鳥が降りたということは(創一五・11)、何を意味するかを調べてみよう。人間始祖が堕落したのち、神が摂理されるみ旨の前には、必ずサタンがついてくるのである。すなわち、創世記四章7節を見れば、カインとアベルが献祭をするときにも、サタンが門口に待ち伏せていた。そればかりでなく、ノアのときにも、審判直後に、サタンがノアの家庭に侵入する機会をねらっていたということを、からすによって表示してくださった(創八・7)。
 このようにアブラハムが象徴献祭をするときにも、その供え物に侵入する機会だけをねらっていたサタンは、彼が鳩を裂かないのを見て、すぐその供え物に侵入した。聖書はこの事実を、荒い鳥が供え物の上に降りたということでもって象徴的に表しているのである。(『原理講論』p323~4)

 

このように、善悪に分立しなければサタンの所有物となり、サタンに侵入されてしまうということです。

そして、文鮮明先生は、アブラハムが鳩を裂かなかった理由について次のように語られています。

アブラハムは絶対信仰をもたなければなりませんでしたが、祭物を裂かないことによって荒い鳥が下りてきました。小さな祭物を軽んじたのです。大きな祭物は裂くことができましたが、小さな一羽の鳩を裂かないことによって、その祭壇をはげわしで象徴されたサタンに奪われてしまったのです。(『文鮮明先生御言選集』267-81 1995.1.2)

 

本来、神様に捧げる供え物は、その大小に関係なく精誠の限りを尽くして供えるべきものです。

しかし、アブラハムは、小さな祭物を軽んじたことによって、神様に捧げる供え物をサタンに奪われてしまいました。

これは、アブラハムの心にもサタンが相対基準を合わせて侵入できる条件が成立していたことを意味しています。

「信仰基台」を復帰する意義

1 神様の立場から見た「信仰基台」復帰の意義

私たちがサタンの所有から解放されて神様の元に復帰するためには、神様だけが対応できる立場に立たなければなりません。

そのために、最初に立てなければならない条件が「信仰基台」なのですが、その意義を神様の立場から見てみましょう。

新約時代においては福音のみ言、さらには、そのみ言の実体たるイエスが、「信仰基台」造成のための条件物であったのである。人間が堕落したのちにおけるこのような条件物は、人間の側から見れば、それは「信仰基台」を復帰するためのものであるが、神の側から見るときには、それはどこまでも所有を決定するためのものであったのである。(『原理講論』p279)

 

人間が「信仰基台」を立てるのは、神様から見れば、それはその人が神様の所有であることを決定するためなのです。

ですから、サタンに侵入され、その所有物になることを防ぐために必要なのが「信仰基台」です。

2 堕落した人間でも完成できるものとは?

一方で、創造原理には、「神は彼らが完成したのちに初めて直接主管する」(『原理講論』p130)という原則があります。

堕落した人間が「信仰基台」を復帰した段階では未完成なのに、その段階で神様がその人と相対基準を結んで対応し、サタンに対して所有権を主張できるのでしょうか?

「信仰基台」を造成するための条件について、『原理講論』には次のように記述されています。

「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。そうして、この成長期間は数によって決定づけられていくものであるがゆえに、結局この期間は、数を完成する期間であるということもできるのである。(『原理講論』p277)

 

このように「信仰基台」を造成するための条件の一つに「数を完成する」というものがあります。

堕落した人間は、心情や愛の人格といった内的な基準では完成していなくても、この数を完成するという外的な基準は立てることができます。

ですから、条件的ではありますが、私たちが数を完成することによって、神様が干渉できる条件が成立するのです。

それでは、復帰の路程で具体的にどのような数を完成しなければならないのか、『原理講論』から引用してみましょう。

人間始祖が堕落しないで、十二数、四数、二十一数、四十数などによる「信仰基台」を立てて、創造目的を完成し、このような数の完成実体にならなければならなかったのである。しかし、彼らの堕落によりこれらすべてのものが、サタンの侵入を受けたので、復帰摂理歴史路程において、これらを蕩減復帰する中心人物は、十二数、四数、二十一数、四十数などを復帰する数理的な蕩減期間を立てなければ、「信仰基台」を復帰して、このような数の完成実体復帰のために必要な「実体基台」は造成することができなくなっているのである。(『原理講論』p448)

 

このように、12数、4数、21数、40数といった数が復帰路程には必要なのですが、その中でも特に40数は、サタン分立数として大変重要な数になっています。

アダムからノアまでの期間は、四十数を復帰するための蕩減期間であった。しかるに、当時の人間たちの淫乱によって、この四十数蕩減期間がサタンの侵入を受けたので、神はノアの箱舟を中心として、四位基台を完成する摂理を再びなさるため、サタンの侵入を受けたこの四十数を復帰する蕩減期間として、四十日審判期間を立てて、「信仰基台」を復帰しようとされたのである。このようにして、四十数は、その後の蕩減復帰摂理路程において、「信仰基台」を復帰するためのサタン分立数として必要になった。(『原理講論』p305)

 

ですから、サタンの侵入を防ぐためには、私自身が40数の数理的な蕩減条件を立てて「信仰基台」を復帰しなければならないのです。

謙虚と従順と忍耐の心にサタンは侵入できない

今この記事を読んでいるあなたは、「自分はサタンに狙われている」という自覚がありますか?

全体目的だけを追っていると、ともすれば観客席からボクシングなどの試合を見ているような感覚に陥ってしまうことがあります。

しかし、個体目的の観点から見れば、そのリング上で、今まさに相手と向き合っているのはあなた自身なのです。

サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ一・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。(『原理講論』p116)

 

そして、「サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている」(『原理講論』p412)ので、命懸けで私たちを道連れにしようとしています。

このように、常にサタンに狙われている私たちは、どのような心構えで歩めばよいのか、ノア家庭からそれを学んでみましょう。

 ハムはたとえノアが裸になって寝ているのを自分では善くないことだと思ったとしても、(かつての箱舟の建造の場合のように、ここには何か深い訳があるのだということを賢明に悟って、分からずとも)あくまでそれを善いこととして見なければならなかったのである。
 しかしハムは、自己を中心として(自己の基準で)天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表したので、神がアダムから一六〇〇年も待って、四十日洪水審判を行使して立てられたノアの家庭を中心とする摂理は、結局成し遂げられなかったのである。これは、我々が神への道を歩むに当たっては、どこまでも謙虚と従順と忍耐の心がなければならないということを見せてくださっているのである。(『原理講論』p313)

 

蕩減復帰路程では、全体の摂理であれ、個人路程であれ、私たちの理解の範囲を超えた出来事がいくらでも起こります。

そのような出来事に直面したとき、自己の基準で判断したり、むやみに他者を批判したりするのではなく、神様と一問一答しながら、そこにどんな意味があるのかを尋ねもとめる必要があるのではないでしょうか?

 

【現実生活を通して侵入してくるサタン世界の構造がよく分かる参考書籍】

■大ウソ医学にだまされない極意

 

 

 

 

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