【今回深掘りする原理のみ言】
人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。(『原理講論』p27)

 

上記の文章のなかに「最も大きな罪」という表現がありますが、キリスト教のすべての教派で姦淫を最も大きな罪としているかどうかについては議論の余地があります。

韓国語『原理講論』の原文を確認しつつ、姦淫の罪に対する「統一原理」とキリスト教の伝統的な解釈を比較しながら、「最も大きな罪」という表現について深掘りしてみたいと思います。

韓国語『原理講論』の原文を確認

まず韓国語の原文とその日本語の直訳文を確認してみましょう。

【韓国語原文】
인간의 노력으로는 도저히 수습할 수 없는 사회악이 또 있다. 음란이 바로 그것이다. 그러므로 기독교의 교리는 이것을 죄 중의 가장 큰 죄로 다루고 있으면서도, 오늘의 기독교 사회가 현세인들이 몰려가는 이 윤락의 길을 막을 수 없게 되었으니, 이 또한 얼마나 눈물겨운 실정인가!【韓国語原文の直訳】
人間の努力では到底収拾できない社会悪がさらにある。淫乱が正にそれである。したがってキリスト教の教理は、これを罪の中の最も大きな罪として扱っていながらも、今日のキリスト教社会が、現代人たちが追われていくこの淪落の道を防ぐことができなくなったのであるから、これまたどれほど涙を禁じ得ない実情だろうか。

 

「最も」の箇所は「가장」(カヂャン)という言葉になっているのですが、この言葉の意味は辞書では次のようになっています。

「가장」(カヂャン):副詞

最も,何より,いちばん,最高に,非常に

※小学館朝鮮語辞典より

以上のように、日本語の翻訳としては間違っていないことが分かります。

それでは、次に、キリスト教の教理では姦淫を「すべての罪の中でも最も大きな罪」としているのかどうかを確認してみましょう。

姦淫の罪に対するキリスト教の教理

キリスト教成立の母体となったユダヤ教では、十戒の中に「あなたは姦淫をしてはならない」(出エ二〇・14)とあるので、この罪に対しては大変厳格でした。

初期のキリスト教でも、アウグスティヌスに代表されるように、姦淫を最大の罪とし、性欲そのものを原罪と解釈する傾向が強く、現在もカソリックではそれが教理の中核となっています。

ただ、アレクサンドリアのクレメンス(140頃~211頃)は、「性交とは罪深いものではなく、神の原初の創造の一部」とし、結婚は神の祝福であるとして「禁欲主義」や「独身主義」を否定しました。

そして原罪とはあくまでも「神の戒めに対する不服従にあった」と主張したのですが、この見解はプロテスタントにも見られ、ルターは原罪を「利己心」と考えていました。

以上のように、キリスト教のカソリックでは、伝統的に姦淫を最も大きな罪と見なしてきたのですが、クレメンスのような反対意見も存在し、プロテスタントでは原罪に対して異なった見解をしていることも事実です。

ですから、キリスト教のすべての教派で姦淫を「すべての罪の中でも最も大きな罪」としているわけではないことを理解しておいたほうがよいでしょう。

「가장」(カヂャン)と「제일」(チェイル)

韓国語の「가장」(カヂャン)という言葉は副詞ですが、これと類義語にあたるのが「제일」(チェイル)という言葉です。

「제일」(チェイル)の意味を韓国語の辞書で確認してみると次のようになっています。

「제일」(チェイル):名詞

1 最初,一番,第一.
2 最も大切なもの.
3 《副詞的に用いられて》 いちばん(に),最も

※小学館朝鮮語辞典より

「가장」と類義語ということでは、名詞の「제일」(チェイル)が副詞的に使われるときの上記3の意味がそれに該当します。

この二つの言葉の違いは、「제일」(チェイル)が「いちばん,最も」という意味だけなのに対して、「가장」(カヂャン)にはそれ以外に「非常に」という意味もあることです。

もし韓国語の原文が「가장 큰 죄」ではなく「제일 큰 죄」であれば、キリスト教の実情に必ずしも一致しているとは言えなくなります。

しかし、「가장 큰 죄」であれば「非常に大きな罪」と訳すこともできるので、キリスト教の教理全般と合致していると言えます。

日本語の翻訳としては「가장」も「제일」も「最も」と訳して問題ないのですが、教理として理解する上では、以上のようなことも把握しておいたほうがよいでしょう。

「統一原理」と伝統的キリスト教神学との相違点

ここで参考として、「統一原理」と伝統的キリスト教神学との相違点を三つ挙げておきたいと思います。

(1)性欲について

キリスト教の教理に多大な影響を与えたアウグスティヌスは、欲望の一つである性欲を「原罪」と同一視する傾向がありました。

しかし、「統一原理」は、性欲それ自体は神様の創造目的を完成するための善なるものとして、もともと人間に与えられていたと見ています。

欲望について『原理講論』には次のように記述されています。

我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である。なぜなら、創造目的は喜びにあるのであり、喜びは欲望を満たすときに感ずるものだからである。(『原理講論』p118)

 

そして、欲望を「往々にして罪であると考える」理由を「統一原理」では、「その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである」(『原理講論』p21)としています。

この見解は、先ほど紹介したクレメンスの見解と通じるところがありますし、ユダヤ教の「性は神が望んだ人間のあり方の不可避的な一側面であり、独身の人間は不完全である」(『諸宗教の倫理学──性の倫理』九州大学出版会 p10)という考え方とも似ている側面があります。

また、ペラギウスの弟子ユリアヌス(386-454)による「アウグスティヌスは性的不節制と(性的)欲望、それ自体を混同している」(E・ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』ヨルダン社 p291)との指摘もあります。

(2)肉体の死について

アウグスティヌスは、パウロの主張にならい、「肉体の死」はアダムの犯した罪の結果によってもたらされたものだと理解しました。

正統的キリスト教はアウグスティヌスの主張を採用してきましたが、「統一原理」は、堕落による死を霊的な死のみとし、肉体の死は自然なものと見ています。

『原理講論』の前編第5章復活論の「死と生に対する聖書的概念」には、人の生死について次のように説明されています。

 ルカ福音書九章60節の記録を見れば、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に、イエスは死人を葬ることは、死人に任せておくがよいと言われた。我々はこのイエスのみ言の中で、死と生に対して互いにその意義を異にする二つの概念があるということを知ることができる。
 第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」に対する生死の概念である。このような死に対する生は、その肉身が生理的な機能を維持している状態を意味する。第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」に対する生死の概念である。
 それではどうしてイエスは、現在その肉身を動かしている人たちを指摘して、死んだ人と言われたのだろうか。それは彼らがイエスに逆らって、神の愛から離れた位置、すなわちサタンの主管圏内にとどまっていたからである。ゆえに、この死は肉身の寿命が切れる死を意味するのではなく、神の愛の懐を離れて、サタンの主管圏内に落ちこんだことを意味する死のことなのである。
 したがって、このような「死」に対する「生」の意義は、神の愛の主管圏内において、神のみ言のとおりに活動している状態をいうのである。それゆえに、いくらその肉身が活動しているといっても、それが神の主管圏を離れて、サタンの主管圏内にとどまっているならば、彼は創造本然の価値基準から見て、死んだ人であるといわなければならない。
 これは、黙示録三章1節に記録されているように、不信仰的なサルデスにある教会の信徒たちに、「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と言われたのを見ても分かる。
 その反面、既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ一一・25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きている者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。
 イエスは、また続けて、「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の懐で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。
 ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。(『原理講論』p208~9)

 

この肉体の死についてもユリアヌスは、「アウグスティヌスは生理学を倫理学と混同している。死は罪に対する罰ではなく、ちょうど性的興奮や陣痛のように、ひとつの自然的過程であり、すべての生ける種にとって自然かつ必然的、そして普遍的である。そうした過程には、人間の選択は関与しない──そして罪とも関わらない」(E・ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』ヨルダン社 p293-4)と主張しています。

(3)原罪の遺伝について

アウグスティヌスは原罪の遺伝を「生物学的」なものと見る傾向がありますが、「統一原理」では、「罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた」(『原理講論』p104)としています。

つまり、原罪の遺伝は、血液や遺伝子といったものを通じて生物学的に受け継がれていくのではなく、血のつながりを条件として法廷論的に罪の讒訴が子孫に及ぶというのが「統一原理」の見解です。

もし神が、アダムとその供え物に対応しようとすれば、サタンもまた、アダムと血縁関係があるのを条件として、アダムと対応しようとするのはいうまでもないことである。(『原理講論』p290~1)

サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。(『原理講論』p273)

 

したがって、伝統的なキリスト教の教理と「統一原理」は、原罪の遺伝について、生物学的要素そのものによって遺伝するのか、それを媒体もしくは条件として讒訴条件が伝播するのかといった違いがあるということです。

※「統一原理」は、アウグスティヌスとその神学を完全に否定しているわけではなく、かえってアウグスティヌスを神様の復帰摂理で重要な役割を担った摂理的中心人物とし、摂理的同時性の観点から、旧約時代のモーセの立場を新約時代において蕩減復帰する人物だったと見ています。

まとめ

キリスト教のすべての教派で姦淫を「最も大きな罪」としているわけではないことから、韓国語の原文では「最も」だけでなく「非常に」という意味もある「가장」(カヂャン)が使われていると考えることができます。

「제일」(チェイル)であれば「最も」と訳すしかないのですが、「가장」(カヂャン)であれば、「非常に大きな罪」と解釈することもでき、キリスト教の教理全般の事実に則しています。

また、「統一原理」は、カソリックの伝統的な教理と同じように姦淫を「最も大きな罪」としていますが、性欲そのものを堕落の結果とは見ていません。

性欲は創造本然のものであり、それを用いる方向性とタイミングを間違ってしまったのが人間始祖アダムとエバの霊肉の堕落だったとしています。

最初の堕落行為は、神と同じように目が開けるようになりたいと願う、すなわち、時ならぬ時に時のことを望む過分な欲望が動機となり(創三・5)、非原理的な相対である天使長と関係を結んだことから生じたものであるのに対して、二番目の堕落行為は、最初の行為が不倫なものであったことを悟って、再び神の側に戻りたいと願う心情が動機となって、ただ、まだ神が許諾し得ない、時ならぬ時に、原理的な相対であるアダムと関係を結んだことから起こったものだからである。(『原理講論』p291~2)

 

エバは、未完成の段階で本来相対すべきではない天使長と霊的に堕落し、その立場で再びアダムと肉的な血縁関係を結んでしまったことが肉的堕落となりました。

 

『原理講論』p27にある「最も大きな罪」という表現に関する考察は以上です。

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