【今回深掘りする原理のみ言】
 人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。
 もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。
 したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。(『原理講論』p22~3)

 

上記のみ言に「いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能」とあります。

ここで、「人間は矛盾性をもっているのに、実際に生まれているのでは?」と疑問に思うかもしれません。

今回は、「矛盾」と「矛盾性」の違いや、「統一原理」で言う人間の矛盾性とは何かについて深掘りしていきます。

人間の矛盾性は後天的なものか先天的なものかという問題の重要性

人間の矛盾性は人間が創造される前からあったのか、それとも創造された後に生じたのかという問題は、とても重要な問題です。

それはなぜかというと、人間が堕落したのかどうかという問題につながるからです。

もし人間の矛盾性が先天的なものだとすれば、人間の心と体の対立も、人間同士の対立も永遠に解決されることはなく、宗教の救済もメシヤを迎える必要性もなくなるからです。

さらには、唯一なる神様の存在さえも疑わしいものになり、最終的には無神論に陥ってしまう危険性があるのです。

「統一原理」では、人間の矛盾性は人間が堕落することによって生じた後天的なものであり、もともと矛盾性をもっていたのであれば、生まれることはできなかったとしています。

「矛盾」と「矛盾性」について

(1)「矛盾」と「矛盾性」の意味の違い

「矛盾」という言葉の意味について辞書で確認してみると、次のようになっています。

「矛盾」:事の前後がくいちがうこと。つじつまの合わないこと。一貫性がない。一致しない。同じ人の言行や文章などが前と後とでくいちがって、つじつまが合わないこと。また、自分自身の言動が矛盾すること。

『原理講論』でも、神様が人間の堕落行為に干渉されなかった理由を説明しているところで「矛盾」という言葉が使われています。

未完成期にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、これは人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性をもつこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うということになるのである。したがって、このような人間をして万物を主管せしめることは、不可能であるばかりでなく、未完成な人間を完成した人間と同一に取り扱うという矛盾を招来することにもなるのである。(『原理講論』p131~2)

 

これは、もし神様が人間の堕落行為に干渉してしまうと、ご自身が定められた創造原理とご自身の行動が一致しなくなるということです。

一方で「矛盾性」という言葉は、一般的にあまり使われない言葉で、『原理講論』でも冒頭の「総序」にだけ使われています。

そして、その意味は、一貫性がなく一致しない矛盾した性質ということになります。

ですから、「矛盾」が言行の不一致など見て分かるものなのに対して、「矛盾性」はその存在の内部にある二つの対立する性質のことなので、目で見ることはできません。

例えば、ある路線バスがA地点行きと表示されているのに、B地点の方向に走っていれば、乗客もそれを見ている人もその矛盾がすぐに分かります。

もしその路線バスにB地点に行きたい人が乗り込み、行き先を巡って運転手と口論になったとしたらどうなるでしょうか?

中にいる乗客は事情が分かりますが、外にいる人には、なぜバスが止まったままなのか、中で何が起きているのか分かりません。

(2)「統一原理」で言う人間の矛盾性とは?

それでは、「統一原理」で言う人間の矛盾性とは何かについて『原理講論』で確認してみましょう。

 ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
 存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。(『原理講論』p22)

 

このように、人間の心には、善の欲望を指向する本心と悪の欲望を指向する邪心があり、それらが対立し争っているとしています。

そして、その具体的な例として、宗教人たちが当面している修道生活の矛盾性を挙げています。

今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へとひきずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。(『原理講論』p28)

韓国語の原文との比較

「統一原理」では、以下のように矛盾性を内包した人間は破滅状態にあるとしています。

存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。(『原理講論』p22)

 

韓国語の『原理講論』でこの箇所を確認してみると、次のようになっています。

존재하는 것은 무엇이든지 그 자체 내에 모순성을 갖게 될 때에는 파멸된다. 따라서 이와 같이 모순성을 가지게 된 인간 자체는 바로 파멸상태에 놓여 있는 것이다.

 

日本語で「破壊」と訳されているところは、原文では「파멸(パミョル:破滅)」となっていて、この原文を直訳してみると次のようになります。

存在するものは、いかなるものであっても、それ自体内に矛盾性をもつようになるときには破滅する。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間自体は、正に破滅状態に置かれているのである。

「破壊」と「破滅」では言葉の意味やニュアンスが微妙に異なるので、それぞれの意味を確認してみましょう。

「破壊」:器物、建物、秩序、組織などをやぶりこわすこと
「破滅」:人格、家、国、説教などがくずれて成り立たなくなること

どちらもマイナスイメージがある言葉ですが、「破壊」の方がより希望的な一面があります。

例えば、「創造的破壊」という言葉があるように、新しいものを創造するために、あえて古いものを破壊することがあります。

私たちが成長するときも、古い自分を壊して新しい自分に生まれ変わるとも言えます。

ですから、「破壊」とは、それ自体が目的ではなく、そのあとに新しいものを生み出すことを前提としている場合もあるということです。

一方で、「破滅」の場合は、すべてを消滅させてしまうことが目的になり、次に何かを生み出すのではなく、滅ぼすこと自体が目的になっています。

「統一原理」にある人間の破滅状態というのは、サタンに侵入された結果です。

そのときのサタンは「死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑」(『原理講論』p109)したのですから、「破壊」したというより「破滅」させたという表現の方がよりふさわしいでしょう。

ですから、「統一原理」では、矛盾性を内包した人間を破滅状態にあると表現しているのです。

存在論的矛盾と目的論的矛盾

日本語の「破壊されざるを得ない」という表現をより「統一原理」的に解釈すれば、存在が破壊されるのではなく、目的が破壊されることを意味していると考えることができます。

「統一原理」でいう破滅状態とは、「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録3章1節)状態のことです。

堕落した人間は、本来の創造目的に向かって進むことができず、その責任分担を果たせないので、神様から愛を受けられず、肉的には生きていても、霊的には死んでいるということです。

もし、人間が生まれる前からそのような破滅状態だったとすれば、「被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となる」(『原理講論』p109)神様の愛を受けることができない存在なのですから、生まれることは不可能だったでしょう。

また、目的性の観点から見ても、「生まれる」という方向性に対して相反する方向性、つまり「生まれない」という方向性が同時に存在することになってしまいます。

さきほどの路線バスの例えで言えば、バスの内部で起きた争いの決着がつくまで、そのバスはA地点にもB地点にも行くことができず、止まったままです。

その争いで勝った方が目的とする方向にバスは走り出すのであって、同時に二つの方向に向かっていくことはできません。

このように、一つの存在の中に相反する二つの目的が生じるようになると、もともとあった目的を達成できなくなります。

このような状態にあることが「統一原理」で言う破滅状態であり、人間は創造されたあと、その成長期間に堕落したことによって、創造目的を達成できない状態になっているわけです。

したがって、「統一原理」で言う人間の矛盾性とは、存在論的な矛盾のことではなく目的論的な矛盾のことを意味しているのです。

「統一原理」から見た善と悪

「統一原理」では、存在論的に善の存在があり悪の存在があると考えるのではなく、目的論的に一つの存在が善の目的に向かうか悪の目的に向かうかによって善悪が決定すると考えています。

ですから、復帰摂理についても『原理講論』では次のように説明しています。

 本来の欲望は創造本性であるがゆえに、この性稟が神のみ意を目的として結果を結ぶならば、善となるのである。しかし、これと反対に、サタンの目的を中心としてその結果を結べば悪となるのである。
 この悪の世界も、イエスを中心とし、その目的の方向だけを変えるならば、善なるものとして復帰され、地上天国が建設されるということは(前編第三章第二節(二)参照)、このような原理を見て明らかにされるのである。
 したがって、復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理であるとも、見ることができるのである。(『原理講論』p118~9)

 

人間の矛盾性についても、目的性を中心として見るのが「統一原理」の観点であり考え方です。

「光があれば陰ができる、善があれば悪もある」といった善悪二元論的な観点で人間の矛盾性を見てしまうと、人間はもともとそのような存在だったと考えるようになってしまいます。

「統一原理」から見たとき、陽と陰は主体と対象の関係なので一つの存在内で調和できますが、善と悪は主体と主体の関係なので、一つの存在内で対立するのです。

今までの宗教者たちは、自分たちの中に矛盾性があることは認識していましたが、なぜそうなのかその原因が分かりませんでした。

原因が分からないのですから、対処の仕様がありませんし、いろいろな説が生まれてきました。

人間の矛盾性とその原因について明確な解答を提示しているのが「統一原理」です。

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