日本語の『原理講論』には「聖霊」という言葉が47ヵ所に記述されています。
韓国語の『原理講論』で同じ箇所を見てみると、「성령」(ソンニョン:聖霊)と「성신」(ソンシン:聖神)の二つの言葉で表記されています。
今回は、この「聖霊」と「聖神」の意味の違いや、なぜ韓国語の『原理講論』ではそれらが区別して使われているのかを洞察してみたいと思います。
韓国語の『原理講論』と日本語の『原理講論』の比較
韓国語の『原理講論』には、「성령」(ソンニョン:聖霊)という言葉が14ヵ所、「성신」(ソンシン:聖神)という言葉が63ヵ所あり、「성신」(ソンシン:聖神)という言葉の方が圧倒的に多いです。
日本語の『原理講論』では、聖書の聖句を直接引用しているところを除き、どちらもすべて「聖霊」と訳されています。それぞれ例文を挙げてみましょう。
그러나 예수님이 못다 하시고 돌아가셨던 그 말씀은 영원히 비밀로 남아지는 것이 아니라, 진리의 성령이 오시면 그가 너희를 모든 진리 가운데로 인도하시리니 그가 자의로 말하지 않고 오직 듣는 것을 말하시며 장래 일을 너희에게 알리시리라(요 16 : 13)고 계속하여 말씀하신 바와 같이, 그 말씀은 반드시 성령에 의하여 새로운 진리로써 가르쳐 주시게 되어 있는 것이다.
개성을 완성하여 하나님의 성전을 이룸으로써, 성령이 그 안에 거하게 되어 하나님과 일체를 이룬 인간은 신성을 갖게 되므로 죄를 지으려야 지을 수 없게 되고, 따라서 타락할 수도 없게 된다.
죄악의 자녀들을 다시 낳아 주시기 위하여 그 참 어머니로 오신 분이 바로 성신이시다.그러기에 예수님은 니고데모에게 성신으로 거듭나지 아니하면 하나님 나라에 들어갈 수 없다고(요한복음 3장 5절) 말씀하셨던 것이다.
이와 같이 성신은 참 어머니로서, 후해와로 오신 분이시기 때문에, 그를 여성신으로 계시 받은 사람이 많다.그리고 성신이 여성신이시기 때문에 성신을 받지 않고서는 예수님 앞에 신부로 설 수 없는 것이다.이와 같이 성신은 여성신이시기 때문에 위로와 감동의 역사를 하시는 것이며(고린도전서 12장 3절), 또 해와가 지은 죄를 탕감복귀하시기 위하여 죄를 씻는 역사를 하시지 않으면 아니되는 것이다.그리고 예수님은 남성이시므로 하늘(양)에서, 성신은 여성이시므로 땅(음)에서 역사하시는 것이다.
罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントI一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。(『原理講論』p264~5)
『朝鮮語辞典』(小学館)で「성신」を調べてみると、「キリスト教の聖霊」とあるので、翻訳としては間違いではないです。
では、なぜ韓国語の『原理講論』では「성령」と「성신」に分けて表記されているのでしょうか?
韓国語『原理講論』の「성령」(聖霊)と「성신」(聖神)の違い
「성령」(聖霊)14ヵ所と「성신」(聖神)63ヵ所をすべてチェックしてみた結果として言えることは、神の御霊を意味する場合は「성령」(聖霊)、イエス様の相対としての霊的真の母を意味する場合は「성신」(聖神)と表記されているようです。
上記の例文がその典型的な文章ですが、「성신」(聖神)の場合は、第七章キリスト論の重生論で多く使われ、そのほとんどがイエス様と対になって出てきます。
また、『原理講論』後編のモーセ路程でも、次のような表現があります。
⇒후해와의 신성이신 성신
⇒인류의 모성신되신 성신
⇒밤(음)의 불기둥은 여성신으로서 그들을 인도할 성신을 상징
このように、韓国語の『原理講論』では「성령」(聖霊)と「성신」(聖神)を明確に区別して使い分けているのですが、残念ながら日本語の『原理講論』ではすべて「聖霊」と表記されています。
キリスト教の聖霊とは?
聖書を見ると、「聖霊」という言葉が出てくるのは新約聖書からで、旧約聖書では「神の霊」や「主の霊」という言葉が使われています。
そして、その意味は、すべて神の御霊を意味していて、「統一原理」の重生論のような女性格の神という意味はありません。
聖書における「聖霊」とは、広義の意味では、人類の救済と重生のために個人と歴史に働く神様のあらゆる霊的活動を意味しているのです。
ただ、「聖霊」を女性格の神と見る観点が全くなかったわけではなく、初期のクリスチャンたちが聖霊を女性的存在と見ていた証拠はいくつか残っています。
そもそも、ヘブライ語で霊を意味する「ルーアッハー(ruach)」という言葉は女性名詞です。
また、使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエス様が「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
そして、『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文があります。
韓国語の『原理講論』が聖霊と聖神を区別している理由
それでは、どうして韓国語の『原理講論』では「성령」(聖霊)と「성신」(聖神)を区別して表記しているのでしょうか?
おそらく、もともと『原理講論』はキリスト教伝道を目的として書かれたものだったので、聖書の意味する「聖霊」と「統一原理」の意味する「聖霊」を混同させないためだったのではないでしょうか。
そのため、キリスト教の解釈にはない女性格の神を意味する場合は、「성신」(聖神)と表記したのだと考えられます。
日本語の『原理講論』に出てくる「聖霊」の二つの意味
以上のことをまとめると、日本語の『原理講論』に出てくる「聖霊」には、神様の御霊という意味と、イエス様の相対としての霊的真の母という二つの意味があるということです。
「聖霊」に対する聖書の観点を知らずに「統一原理」を学ぶと、「聖霊」=女性格の神・霊的真の母とだけ理解してしまうので、注意しないといけないですね。
創造原理の三段階原則で、完成は蘇生、長成がなければ成立しないのですから、旧約聖書と新約聖書の土台の上で成り立つ『原理講論』についても、聖書的観点が必要です。
特に日本人は、真の神様以外のものを神格化しやすい民族性があります。ですから、「聖霊の役事」というとき、「聖霊」=女性格の神・霊的真の母というイメージだけをもっていると、「真の母」を神格化して唯一なる神様に対する信仰から外れ、そのまま偶像崇拝に陥ってしまうこともあるので気をつけましょう。
青坡洞前本部教会の真のお父様の机上にある揮毫