【今回深掘りする原理のみ言】
一つの父母のもとにある同じ子孫として、同一の喜怒哀楽の感情をもっていながら、これを表現する言語が異なるために、互いに通じあうことができないということほど不幸なことはないであろう。それゆえに、再臨の主を父母として頂く、一つの大家族による理想世界がつくられるとするならば、当然言語は統一されなければならないのである。(『原理講論』p603~4)

 

「統一原理」と『原理講論』の関係についての記事では、UPMCの『原理講論』に対する考え方をお伝えしました。

そこでは、無形なものを有形なもので表現することの限界性について言及しましたが、今回は主に翻訳の限界性についてです。

具体例を挙げながら、なぜ『原理講論』を原語の韓国語で読む必要があるのかをお伝えします。

外国語を日本語に翻訳することの限界性

外国語を日本語に翻訳すると、どうしてもそこには限界というものが生じてしまいます。

その代表的な例としては、誤訳とニュアンスの相違という問題です。

翻訳の限界①誤訳

日本語の『原理講論』にも誤訳が少なからず存在しますが、ここではその一つを例としてあげます。

霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。(『原理講論』p120)

 

誤:霊人
正:霊通人

ここは明確な誤訳ですが、最新版の日本語『原理講論』ではきちんと修正されています。

霊界にいる霊人と地上にいる霊通人とでは、意味もニュアンスもかなり違ってくると思います。

『原理講論』の最新版が出るたびに購入される方は少ないので、古い『原理講論』で間違った内容をそのまま読んでいる方が大半なのではないでしょうか。

これ以外にも「新生」が「重生」に修正されるなど、日本語の『原理講論』が発刊されて以降、より原語に近づけようとする努力が今も続けられています。

翻訳の限界②ニュアンスの違い

この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいるが、このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものであるがゆえに、まさしくこれは霊的存在でなくてはならないのである。(『原理講論』p98)

 

韓国語の『原理講論』で「引きずって」の箇所を確認すると「이끌어」(イクロ)となっていて、これは「이끌다」(イクルダ)という言葉の変形です。

「이끌다」を韓国語の辞書(朝鮮語辞典・小学館)で調べてみると、以下のような意味になっています。

1 (牛馬や人の手などを)引く,連れる.
2 導く,指導する; 率いる.
3 (目・注意を)引く.

さらに、この「이끌다」を縮約した言葉に「끌다」(クルダ)という言葉があるので、それを調べてみると次のような意味があります。

1 (物を)引きずる,引く,引っ張る
2 (水道・ガスなどを)引く
3 (声を)延ばす

「이끌다」には「引きずる」という意味はなく、「끌다」には「引きずる」という意味があります。

韓国語の原語を正確に翻訳するなら、ここは「引きずって」ではなく、「引いて」か「率いて」というのが適切でしょう。

「引きずって」と「引いて」ではかなりニュアンスが違ってしまいます。

ニュアンスの違いによる「統一原理」理解への影響

ニュアンスの違いは「統一原理」の正しい理解に影響しますので、「引きずる」という意味の「끌다」(クルダ)という言葉についてもう少し調べてみましょう。

「引く」という意味の言葉としては、もう一つ「당기다」(タンギダ)という言葉があります。意味は以下のとおりです。

1 引く,引き寄せる,引き付ける,引っ張る
2 (弦などを)張る,引っ張る
3 (期日や時間を)繰り上げる,早める

「끌다」とほぼ同様の意味になりますが、この2つの言葉を比べるとニュアンスに違いがあるんです。

どちらも物体の一部やそれにつながったひもを握り、自分の方に力を入れることによって、それが自分の近くに来るようにすることを意味します。

ニュアンスが違うのは、引かれてくるものが物質だった場合、床や地面にくっついた状態で引っ張られるのが「끌다」で、そのような意味が含まれていないのが「당기다」です。

つまり、引っ張られる物と地面との間に摩擦が生じて引っ張られるのが「끌다」で、引っ張られる物が何の抵抗もなくすんなり引っ張られるのが「당기다」です。

ですから、韓国に行くと、ドアノブのところに「pull(引く)」の意味で書かれているのが「당기세요」(タンギセヨ)です。

以上のことから、「끌다」という言葉には、引っ張られる物に抵抗があり、それを無理やり自分の方に近づけるというニュアンスがあることが分かります。

この2つの言葉のニュアンスの違いについては、日本人の私が個人的に感じたことではなく、『類似語使い分け韓国語辞典』(任洪彬編著・国書刊行会)の96ページに書いてあることです。

まとめると、「이끌다」と「끌다」では「引く」と「引きずる」の違いがあり、「引きずる」の場合、引かれる対象に自ら引かれていく意志がない、もしくは抵抗しているというニュアンスが強くなるということです。

たしかに、サタンとその勢力は強大な力をもち、私たち人間を常に悪の方向に引っ張っていこうとしています。

しかし、最終的に悪の方向に行くか、善の方向に行くかは、私たち自身の選択にかかっているというのが「統一原理」の観点です。

堕落の責任は天使にあるのか人間にあるのかについての記事でもお伝えしましたが、人間が堕落した責任は、天使よりも人間により大きな責任があるのです。

ですから、本来「引いて」か「率いて」の意味の「이끌어」を「引きずって」と訳すと、責任の所在が人間よりも天使にあるかのような印象を与えてしまいます。

こういったニュアンスの問題は一見すると小さなことに思えますが、この違いが「統一原理」の正しい理解を妨げてしまうので注意が必要です。

※この辞書は全文が韓国語で書かれ、編著者はソウル大学教授です。

言葉の壁は心情の壁

ここまで翻訳の限界ということで誤訳とニュアンスの違いを紹介しましたが、もう一つとても重大な問題があります。それは「心情の壁」という問題です。

私が今までに体験したこの「心情の壁」に関するエピソードを2つ紹介します。

韓国でのエピソード

私が韓国に滞在しているとき、私と日本人2人と韓国人1人の4人で一緒に車に乗る機会がありました。

そのときは韓国に来て間もないころで、まだ韓国語もよく分からなかったので、日本人同士で日本語で談笑していました。

そのときに同乗していた韓国人が冗談まじりに一言こう言ったんです。

「같이 웃고 싶은데 말이 안통하니까 그것도 못한다」

意味は「一緒に笑いたいけど、言葉が通じないからそれもできない」ということです。

日本人3人のうち、韓国滞在が長い人がいたので、その人から意味を聞いたあと、「ああ、喜怒哀楽の感情は同じでも、言葉が通じないとそれを共有できないんだな」とあらためて実感しました。

正にこの記事の冒頭で紹介した『原理講論』の一節を体験を通して実感したわけです。

金元粥先生とのエピソード

かつて36家庭の金元粥(キム・ウォンピル)先生が病気治療と療養のため日本にひと月ほど滞在されたとき、そのサポートスタッフの一人として働いたことがありました。

当時、療養先が静岡県の熱海だったため、東京の一心病院で治療するさいには新幹線で往復されるのですが、そのときにも何度か御一緒させていただきました。

金元粥先生は日本語が達者でいらっしゃったので、他のスタッフとはすべて日本語で会話されていましたが、私と話すときだけは韓国語で話されました。

そして、療養を終えて韓国に帰られるさい、金元粥先生が私に一言韓国語でこのように語られたのです。

「자네하고는 한국말으로 대화하니까 심정이 통한다.」

意味は「君とは韓国語で対話するから、心情が通じる」ということです。そして、直筆で色紙にこのように書いてくださいました。

私の方は36家庭の先生にお仕えするということで、失礼がないようにという思いで頭が一杯でしたし、心はいつも緊張しきりでした。

一方で金元粥先生は、異国の地にいながら韓国語で会話できることで多少なりとも心情が楽になられたようです。

このことからも、言葉が通じることで心情が通じやすくなるんだなと実感しました。

『原理講論』を原語で読むことの重要性

日本語の『原理講論』を読み込むことで、知識としてはある程度「統一原理」を理解することはできます。

しかし、無形なものを有形なもので表現することによる限界、また韓国語から日本語に翻訳することによる限界を考えると、その理解はかなり限定されたものと言えます。

たとえ日本語の『原理講論』を完全に理解したとしても、おそらく「統一原理」の50%も理解したことにならないでしょう。

だからといって日本語の『原理講論』だけでは三大祝福を完成することができない、ということではないと思います。

三大祝福を完成するために必要なみ言はすべて公開されていますので、情報量としては十分です。

ただ、『原理講論』のp134に「人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造された」とあるように、完成するために神様の心情が体恤できなければなりません。

堕落も正にこの神様の心情が体恤できなくなってしまったことを意味しますので、単に知的に「統一原理」を理解しているだけでは三大祝福を完成することはできないのです。

神様の心情を体恤するには、やはり父母の言葉である韓国語を通じるのが一番の近道です。

ここに韓国語の『原理講論』を読む必要性が出てくるのですが、かつて私は、40日間で韓国語の『原理講論』を8回通読したことがあります。

このときは数十人の修練生たちと、それこそ朝から晩までずっと韓国語の『原理講論』を訓読しました。

日本語ではないので意味が分からない所も多々ありましたが、それでも8回読み終わったあと、心情的に相当引き上げられたことを実感しました。

神霊と真理のバランス

神様の心情を体恤することが私たちの成長と復活にはかかせないのですが、そのための神霊と真理について記述されている箇所を『原理講論』から引用します。

人間は霊人体と肉身が一つになってはじめて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、はじめて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識を持つようになるのである。(『原理講論』p168~9)

 

このように、神霊面にばかり偏ってもいけませんし、真理面にばかり偏ってもいけないんですね。

ここで『原理講論』を執筆された劉孝元(ユ・ヒョウォン)先生のご夫人であられる史吉子(サ・キルヂャ)先生の証を一つご紹介します。

お父様は、「劉孝元は、瞳の真ん中が青みがかっているのを見ると、ドイツ系(ゲルマン民族)の血統を受けて書いたのであって、純粋な韓国人であれば書けなかった」と言われました。なぜならゲルマン民族は頭脳が非常に優秀で、論理的であり分析的な民族だからだそうです。(史吉子先生)

 

『原理講論』はとても理路整然と書かれていますが、それは執筆者の劉孝元先生が韓国人の情緒とゲルマン民族の論理性を兼ね備えていらっしゃったからではないでしょうか。

韓国語の原語で『原理講論』を一度も通読したことがない人は、「自分はまだ統一原理を十分に理解できていない」と思ったほうがよいです。

韓国語の『原理講論』を訓読することで、心情の復活が間違いなく早くなるので、日本語で読むだけでなく、原語で『原理講論』を読むことをぜひチャレンジしてみてください。