【今回深掘りする原理のみ言】
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。(『原理講論』p34)

 

【前編】では、従来の神の存在証明の方法と、それに対する無神論者の反論を紹介しました。

【後編】では、「統一原理」が提示する神の存在証明として、創造原理の観点、復帰原理の観点、そして「統一思想」の観点から三つの方法を解説します。

【前編】の復習-従来の神の存在証明とその限界

(1)本体論的証明(存在論的証明)

「実在」(存在すること)を一つの属性と考え、神は完全な存在であるから、その「実在」という属性も備えている、したがって神は存在する、という考え方。

反論:観念としての「存在」と現実における「実在」を混同している。

(2)宇宙論的証明

この宇宙が結果として存在しているということはその原因がある、因果律に従ってその原因の原因を遡っていくと第一原因に到達するが、これが神である、という考え方。

反論:宇宙は物質なのだから、その物質の原因もまた物質でなければならず、宇宙の第一原因を神と呼んでもよいが、それは物質的存在である。

(3)目的論的証明(自然神学的証明)

自然や人体の仕組みの精巧さは人間の思考力や技術をはるかに超えている、これは人知を超越した神が存在するからだ、という考え方

反論:自然界や人間が存在する背景情報を知らないのだから、神によって創造されたと断定することはできない。

(4)道徳論的証明

人間が日常で従っている道徳法則や道徳的な世界秩序の源泉として神が存在しなければならないという考え方

反論:これは証明ではなく願望であり、道徳は封建社会の支配階級がその支配を維持、強化するためにつくった規範にすぎない。

(5)近代科学(量子論・生命科学)による神の存在証明

物質という実体は存在せず、従来の物質的な概念は間違いであり、生命の誕生や人間のDNA情報は、偶然ではなく知性的存在によって計画的につくられた必然の結果と考えるほうが合理的であるという考え方。

反論:人間より高度な知性をもった地球外生命体によって人間がつくられた可能性もある。また宇宙は無数に存在するため(多元宇宙論)、この宇宙がたまたま生命誕生に適していただけにすぎない。

「統一原理」が提示する三つの神の存在証明

神様や宇宙の根源に関する理論を「本体論」(「統一思想」では「原相論」のこと)と言い、一般的に思想体系の基礎となるものとされていますが、この「本体論」について文鮮明先生は、次のように語られています。

「本体論」は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても肯定されなければならず、さらに歴史の中に「逆天者は亡び、順天者は存続する」という命題が適用されてきたということが証明されなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』122-303 1982.11.25)

 

このみ言の観点から、創造原理の良心作用、復帰原理の歴史の同時性、そして「統一思想」の仮説演繹法による神様の存在証明方法について解説します。

創造原理の観点から見た神の存在証明-良心作用

「統一原理」が提示する神の存在証明の方法としてまず挙げられるのは、人間の良心作用から神様の存在が証明されるというものです。

これは、従来の神の存在証明方法のうち、本体論的証明と道徳論的証明と関連するものです。

この良心作用について『原理講論』には次のように説明されています。

古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。(『原理講論』p52)

 

このように、私たちが本来やるべきでないことをしたときには、良心の呵責を受けて苦痛を感じるようになります。

『原理講論』のp110には、人類始祖のエバが天使長と霊的に堕落したあと「創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けた」とあります。

ですから、私たち人間が良心の呵責を受けて感じる苦痛の本質は「恐怖心」ということになります。

私たちがもつ良心は、神様の創造目的が何かということを知っていて、その目的に反する行いをしたとき、良心作用によって私たちの心に「恐怖心」が生じるわけです。

心が恐ろしく感じるというのは、自分の心に何らかの力が働いた結果であり、その力の出所が良心なのです。

それでは、この良心からどのようにして人間の心に作用する力が発生するのでしょうか?

『原理講論』は、創造原理の授受作用の原則から、人間の良心作用を次のように説明しています。

 では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。
 すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。(『原理講論』p52)

 

このように、創造原理に背く行為をしたとき、その結果として私たちの心に「恐怖心」が生じるのは、神様と良心が授受作用して発生した力によるものだということです。

人間の良心作用による神の存在証明について、文鮮明先生も次のように語られています。

 主体と対象が私たちの良心の中で作用するのを見るとき、その良心作用は、主体がなくては作用できないというのが天地の原則です。良心が作用を継続して高次元の何かを追求するのを見るとき、高次元の主体がなければならないという結論を下すことができます。
 ですから、良心の主体となる神様が存在しないと言うことはできません。神様は絶対的に存在します。神様が絶対的に存在しないと言う人は、絶対的に良心作用を否定しなければなりません。良心があることを絶対的に認める限り、神様は絶対的に存在します。(『文鮮明先生御言選集』56-166 1972.5.14)

 

「統一原理」によって授受作用による力の発生原則が明らかにされたことにより、これまで証明ではなくただの願望であると批判されてきた従来の道徳論的証明が、一つ次元をあげた神の存在証明方法になったのです。

復帰原理の観点から見た神の存在証明-人類歴史の同時性

(1)一つの公式に従って展開してきた人類歴史

「統一原理」が提示するもう一つの神の存在証明は、人類歴史が一定の法則にしたがい、一つの目的に向かって発展していることを明らかにすることで神様の存在を証明するというものです。

この証明方法は、自然界を中心にした目的論的証明の観点を、人間を中心とする歴史に応用したものと言うことができます。

人類歴史と神様の存在について記述されている『原理講論』の箇所を引用してみましょう。

 人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば、かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。
 それゆえ、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経、また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知るということは、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。(中略)これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。(『原理講論』p35)

 

この復帰摂理歴史の公式が「統一原理」の復帰原理であり、それが具体的にどのように展開されてきたのかについて、『原理講論』では、ユダヤ民族とキリスト教の歴史を中心に詳細に説明されています。

第一、第二、両イスラエルの歴史を中心として、同時性をもって展開せられた復帰摂理時代と、復帰摂理延長時代の内容をなしている各時代の性格を対照してみることによって、事実上、人類歴史は、生きて働いておられる神のみ手による、一貫した公式的な摂理によってつくられてきたということを、一層明白に理解することができるであろう。(『原理講論』p467)

 

この第一イスラエルとはユダヤ民族、第二イスラエルとはキリスト教徒のことで、公式的な摂理の典型例としては、モーセ路程とイエス様の路程があげられます。

我々はここにおいて、モーセがいかにして復帰路程のための、公式的な、あるいは、典型的な路程を歩いたかということを明らかにしたのである。これが将来、イエスの歩まれる道を、そのとおりに予示されたものだということについては、本章の第三節を対照することによって、なお詳しく理解することができるであろう。我々はここにおいて、モーセを中心とした摂理一つだけを見ても、神がおられて、一つの絶対的な目的を指向し、人類歴史を導いてこられたということを、否定することはできなくなるのである。(『原理講論』p400)

 

ヨハネ福音書5章19節を見ると、イエス様は、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」と語られています。

「統一原理」では、このみ言について、神様がモーセを立てて見せてくださった摂理をイエス様ご自身もそのまま歩まれることを意味していると解釈しています。

以上のように、「統一原理」は、人類歴史が復帰摂理の公式に従い、一つの目的に向かって展開してきたこと、そしてどのように歴史が繰り返されてきたのかを明らかにしました。

自然や人体の仕組みの精巧さに着目した従来の目的論的証明に対して、「統一原理」は、人類歴史の目的と法則を明らかにすることで神様の存在を証明しています。

(2)神の存在を証明する蕩減復帰摂理史観

キリスト教が共産主義や唯物思想に対して、それらの理論を克服できなかったことが『原理講論』では次のように記述されています。

 神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現われたとしても無理からぬことである。このようにして現われたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。
 共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。(『原理講論』p27)

 

このように、共産主義はキリスト教の中から生まれてきたのですが、マルクスやレーニン、スターリン、ニーチェなども、キリスト教の家庭で育っています。

特に、共産主義思想には唯物史観という明確な歴史観があるのですが、キリスト教には明確な歴史観がありませんでした。

ここにキリスト教が共産主義や唯物思想を克服できなかった主な理由の一つがあると考えることができます。

また、「神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界」(『原理講論』p159)という原理があることから、人類歴史に共産主義が生じるようになった過程は、一人の信仰者が神様に対する信仰を失っていく過程と見ることもできます。

実際の信仰生活でも、私たちが明確な摂理観や歴史観をもてず、摂理の方向性が分からなくなったとき、自分の中の唯物的な価値観が唯心的な価値観よりも強くなることがあります。

そして、いつの間にか唯物的な価値観を優先して物事を考え、判断し、行動する自分になってしまいます。

そのようにして神様に対する信仰が揺らぎ、心霊が下がって霊的な復興がなくなっていくと、信仰生活が形式化、儀式化していき、最終的には信仰を失うようになるのです。

しかし、「統一原理」の蕩減復帰摂理史観であれば、共産主義の唯物史観を克服することが可能で、ここに「統一原理」の価値があります。

「統一原理」の価値について文鮮明先生は次のように語られています。

 「統一原理」が偉大なことは何かと言えば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのかということが分かるようになっているのです。その次に、どのように堕落したのかという実質的な論理があります。
 その次には歴史観があります。歴史時代において神様が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのかということがはっきりしているというのです。そうして過程を通して目的の世界に到達するということを理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。(『文鮮明先生御言選集』208-296 1990.11.20)

 

誰もが客観的に確認できる史実を中心に構築される「摂理的同時性の時代」による歴史観は、神様の存在を証明し、唯物史観の試練を受ける信仰者たちに霊的な復興の力を提供してくれるものです。

「統一思想」が提唱する神の存在証明-仮説演繹法

文鮮明先生の思想を体系化した「統一思想」が提唱する神の存在証明の方法は、「仮説演繹法」と呼ばれるものです。

まず、「科学的である」ということについて語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

科学的であるとはどういうことですか。仮説的なことが、現実的事実に合うようになるとき、科学的であると言うのです。(中略)科学的であるということは、理論に合わなければなりません。理論は仮説と証明と現実が一致しなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』89-75 1976.7.11)

 

「統一思想」が提唱する科学的な神の存在証明方法は、「仮説演繹法」と呼ばれるものです。

「仮説演繹法」による神の存在証明方法について『統一思想要綱』では次のように説明されています。

神の存在の証明を仮説的方法で行うということは、無神論者たちに対して神の属性に関する理論(原相論)をいったん仮説として認めさせておき、その仮説から導かれる結論を自然科学の実験や観察の結果と対照してみて、その結果と完全にまた例外なく一致するということを明らかにすることによって、この原相論が真説であることを公認させる方法をいう。(『統一思想要綱』p774)

 

「仮説演繹法」は帰納法の一種とも言われ、科学の世界では仮説の証明方法としてよく使われている手法です。

これは、仮説として立てた法則から予想される現象を演繹し、観察や実験を重ねてその予測を帰納的に確かめ、最終的に法則の確からしさを検証するという方法です。

仮説発見(アブダクション)⇒ 仮説演繹法 ⇒ 仮説証明

ニュートンの万有引力やダーウィンの進化論も、この「仮説演繹法」を用いて証明が試みられています。

「統一思想」では、最初の仮説にあたるのが「原相論」で、この「原相論」から導かれる結論が何かというと次の二つになります。

被造万物はすべて神の性相と形状の二性性相に似ているので、必ず無形の性相的側面と有形の形状的側面を備えている。すなわち鉱物、植物、動物、人間など、すべての被造物が、例外なく、そのような性相と形状の相対的側面をもっている。(『統一思想要綱』p776)

被造物は必ず神の陽性と陰性の相対的属性に似て、陽性と陰性の相対的属性をもつか、または陽性個体(要素)および陰性個体(要素)の相対的関係を成して存在する。(『統一思想要綱』p779)

 

この結論が自然科学の実験や観察の結果と完全に一致すれば、「原相論」は真説となり、神様の存在が証明されるということになるわけです。

以上が「統一思想」が提唱する神の存在証明の方法になります。

 

このことから、『原理講論』の「創造原理」が二性性相から始まっている理由の一つは、最初に神の存在証明を行っているからだと言うことができます。

『原理講論』では、被造世界の性相と形状の実例を挙げながら、最後に究極の第一原因として神の存在を次のように論じています。

 

 今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。(『原理講論』P四五~四六)

最後に

従来の神の存在証明方法は、主に自然界の法則性や秩序性から神の存在を証明しようとしてきました。

それに対して「統一原理」が提示する神の存在証明方法は、人間の良心作用や人類の歴史発展の法則性といった、人間を中心としたものです。

それは、「万物は神の二性性相が象徴的な実体として分立された実体対象であり、人間はそれが形象的な実体として分立された実体対象」(『原理講論』p48)であるため、人間の方が万物よりも神様に似ているからです。

ただ、無形の神様を理性だけで認識することはできないので、神様の存在が理論的に証明されたとしても、最終的には神様との霊的な出会いを自ら体験しなければなりません。

 

以上で、「統一原理」が提示する神の存在証明方法についての解説を終わります。

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