【今回深掘りする原理のみ言】
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。(『原理講論』p34)

 

罪のない世界が天国だとすれば、何よりもまず神様の存在を信じ、実感できなければなりません。

今回は、従来ある神様の存在証明の方法とその限界を紹介しながら、「統一原理」が提示する神様の存在証明の方法について深掘りしてみたいと思います。

まず【前編】では、従来の神様の存在証明の方法とそれに対する無神論者たちの反論についてご紹介します。

従来の神の存在証明方法とその限界

神様の存在証明の方法としては、イマヌエル・カント(1724~1804)の分類に従って次の4つに分類されるとされています。

 本体論的証明(存在論的証明)

 宇宙論的証明

 目的論的証明(自然神学的証明)

 道徳論的証明

この4つの証明方法について、それぞれどのような内容なのか、そしてその限界について以下に解説します。

(1)本体論的証明(存在論的証明)

本体論的証明とは、「実在」(存在すること)を一つの属性と考え、神は完全な存在であるから、その「実在」という属性も備えている、したがって神は存在する、という考え方です。

しかし、カントは、「Aである」(Aという属性を持つ)ことと「Aがある」(Aという実体が存在する)こととは別であるとし、観念としての「存在」と現実における「実在」を混同していると批判しました。

また、本体論的証明は、不完全な人間が神を完全な存在として理解しているのは、神が実際に存在するからだ、という考え方でもあります。

これをもう少し説明すると、不完全なものから完全なものが生じるはずはないのに、不完全な人間の心に完全性の概念が存在している、これは完全な存在から不完全な人間に注入されたものと考えざるを得ない、この完全な存在こそ神である、と考えるわけです。

例えば、「原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない」(『原理講論』p264)ということと同じです。

これに対して無神論者は、「神は完全である」という定義が正しいとしても、それは人間が考え出したものであって、神の実在を証明することにはならないと反論します。

(2)宇宙論的証明

宇宙論的証明とは、この宇宙が結果として存在しているということはその原因がある、因果律に従ってその原因の原因を遡っていくと第一原因に到達するが、これが神である、という考え方です。

例えば、私は自分で生まれて来たわけではなく、私の両親から生まれてきました。

そして、その両親もそれぞれの親によって生まれてきたはずですし、またその親にも必ずその生みの親がいるはずです。

このように、私たち人間はもちろん、動植物や他の一切のものを生み出し、存在せしめた最初の原因的存在がいるということになり、その第一原因として存在しているのが神様だというわけです。

しかし、この宇宙論的証明は、無神論者から全てのものに原因があると前提しておきながら、第一原因というそれ以上原因をもたない極点を定めるのは非論理的だと反論されます。

また、宇宙は物質なのだから、その物質の原因もまた物質でなければならず、宇宙の第一原因を神と呼んでもよいが、それは物質的存在だと主張されてしまいます。

(3)目的論的証明(自然神学的証明)

目的論的証明とは、自然や人体の仕組みの精巧さは人間の思考力や技術をはるかに超えている、これは人知を超越した神が存在するからだ、という考え方です。

例えば、使徒パウロは「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められる」(ロマ書1:20)と語っています。

しかし、この目的論的証明は、無神論者から、結果から原因を推論するにはある一定の背景情報が必要だが、我々は自然界や人間が存在するようになった背景情報について何も分かっていないと反論されます。

つまり、無神論者は、神が自然界や人間を設計しつくりあげた場面を見たこともなく、その証拠と断定できる痕跡は一つもみつかっていないというわけです。

例えば、道端に時計が落ちているのを見たとき、私たちはこの時計が自然に生み出されたものではなく、誰かによってつくられたものだと認識できます。

それは、時計というものを設計する人がいて、それを製造する人がいることを知っているからです。

『コイサンマン』(ブッシュマン:1981年)という映画がありますが、その中でブッシュマンたちは、初めて見たコーラの瓶を神様がくれた道具だと一族あげて大喜びするシーンがあります。

しかし、私たちは、コーラの瓶がなぜ、どのようにしてつくられたのかを知っているので、ブッシュマンたちのようには考えません。

なので、無神論者は、自然界や人間が存在する背景情報を知らないのだから、神によって創造されたと断定することはできない、地球以外の天体にいる知的生命体によって人間がつくられた可能性もあると反論します。

また、世界が美しく精妙にできている理由は、ダーヴィンの自然選択説によって説明できるとも主張します。

(4)道徳論的証明

道徳論的証明とは、人間が日常で従っている道徳法則や道徳的な世界秩序の源泉として神が存在しなければならないという考え方です。

良心の声を神の声とみなし、それに従うという考え方も道徳論的証明の範疇に入ります。

カントは、「人間に良心があり、罪を犯せば罰を恐れるのは神がいるからだ」だと主張しています。

しかし、この道徳論的証明は、無神論者から、これは証明ではなく願望であり、道徳は封建社会の支配階級がその支配を維持、強化するためにつくった規範にすぎない、と反論されてしまいます。

 

以上、4つの神の存在証明の方法は、すべて有神論の立場からの論理で、神様を信じている人は、こういった神の存在証明をそのまま受け入れることができます。

しかし、上述したように、無神論者たちからはいくらでも反論される余地があるのです。

それでは次に、20世紀以降、科学が飛躍的に発展した現代では、神の存在についてどのような状況になっているのかを見てみましょう。

近代科学による神の存在の暗示と無神論者の反論

(1)神の存在を証明しつつある近代科学

古典物理学の大前提は、「物体は、誰が、いつ、どこで測定しても同じ結果になる。観測者の有無に関係なく自然現象は同じように発生する」というものでした。

ところが、素粒子の世界では、このような大前提が成立しないことが「量子力学」によって証明されました。

つまり、「意識によって世界が変わる(観測者効果)」ということが証明されてしまったのです。

これは、それまでの物質観が間違いであり、物質という実体は存在しないことを意味します。

20世紀の現代物理学の発見は、物質という実体は存在しないこと、従来の物質的な概念は間違っていることを明らかにしました。

ですから、当然「唯物論」というような思想は成立せず、宇宙は物質だから第一原因も物質的存在だという無神論たちの宇宙論的証明に対する反論も、ここで否定されるのです。

また、生命科学の分野でも、人間の遺伝子研究が進み、その実体が明らかになると、突然変異という偶然が重なった結果と考える方が非合理的と思われる状況になってきています。

人間のDNA情報は30億以上あると言われていますが、このような膨大な情報が物質的進化の結果として偶然にでき上がったとは考えづらいのです。

生命が偶然に誕生する確率は10の4万乗分の1と言われ、これは1のあとに0が4万個つく数です。

例えば、300億年を秒数に換算しても10の18乗ですから、10の4万乗分の1というのは、ほぼ無限大と言える数値です。

こうなると、もう生命の誕生や人間のDNA情報は、偶然ではなく知性的存在によって計画的につくられた必然の結果と考えるほうが合理的です。

(2)近代科学の神の存在証明に対する無神論者の反論とその限界

しかし、それでも唯物論的な考え方の人たちは、地球外生命体(いわゆる宇宙人)による人間創造説や多元宇宙論などを主張します。

多元宇宙論とは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学による論説です。

この多元宇宙論だと、私たちがいるこの宇宙は無限に存在する宇宙の中の一つで、たまたま生命誕生に適した環境になっているだけだということになります。

ただ、人間以上の知性をもった地球外生命体が存在するという証拠はいまだにありませんし、多元宇宙論も観測や観察、実験で証明する方法は今のところみつかっていません。

 

以上のように、科学の発展にともない、神様が存在することがますます証明されつつあることは確かです。

 

~【後編】につづく~

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