神に対する体恤と私たちの自覚(1/3)

 1972年6月25日

 どれほど天と共に生きようとしたか

 題目が少し長いです。「神に対する体恤と私たちの自覚」です。信仰生活をする人にとって、神様との関係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神様がいらっしゃるなら、その神様と私たち、または私がどのくらい密接な関係をもっているのか、あるいは生活過程でその関係をもつことはもちろん、その生活を通して、一生という生涯路程をどのように連結させていくのか、という問題が最も重要なことです。

 もし堕落圏内にいる人間たちを救おうとされる神様がいらっしゃるなら、その神様は、24時間なら24時間いつでも、この地上に生きている人間たちに対して無関心ではいられないことをまず知らなければなりません。

 この地上の堕落した世界でも、愛する子女をもつ父母がいれば、その父母も子女に対しては24時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも考えるのです。子女を考える以上の困難なことがあるときは分かりませんが、そうでない限り、堕落した世界でも、いつでも子女を考えざるを得ないのが父母の心情であることを私たちは知っています。

 このような心情を推し量ってみるときに、堕落していない本然の世界の主体である神様がいらっしゃるなら、その神様は、今日の人類を自分の子女として見つめている限り、その子女たちに対して、無関心でいられないことは言うまでもありません。これは当然の事実です。24時間、私たちのために心配していらっしゃる天がいる、それが言葉だけでなく、事実だということを感じる人がいれば、その人は天と遠い位置にいないという事実を、自ら感じるでしょう。

 「私が行こうと来ようと、どんな行路に立っていても、あるいはどんな環境にいても、その場には私だけがいるのではない、天が共にある、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるあらゆるものを認識するのは、私だけが認識するのではない、私が見る視線を通して神様が私に求める、そのような同感の視線がここに手助けしていて、私が出す手には、天の同情のみ手が宿っている」、このような立場に立っていることを、私たちは忘却しやすいのです。見て、感じて、感覚するあらゆることは、天と主体対象の関係で一体的に行動していることを実際に感じる人がいれば、その人は悪の場に出ていこうとしても出ていくことができないでしょう。他のことをしようとしてもできないでしょう。

 このような観点から見るとき、天は私たち人間に対してそのようにしているにもかかわらず、天に対する私たち人間が、天と共にいようとしたのかというのです。このような問題について考えてみるとき、皆さんの生活を分析すれば分析するほど、不孝にしかならないという結論を下さざるを得ません。

 真であられる父母の心情をもって訪ねてこられたその神様が、父的愛をもった主体であられる方だと考えるとき、私たちがどれほど神様のために心配し、その方が心配されるのではないかと自らの生活を節制し、あるいはその方が苦痛を感じるのではないかと自らの環境を整理しながら、随時天を第一とし、自らの環境的なあらゆることを相対的与件として一致化させるための努力をしているのか、そのような努力をしている人であれば、その人は一人でいても一人でいるのではありません。

 もしそのような立場にいて、天が同情し、天が見るとき、「私がおまえを守った甲斐があったと感じる」と言われるなら、天がそのような人に対して……。その人が被害を受けたり、あるいは傷つけられる環境にいるようになれば、その場は天が傷つけられる場であり、天の悲しみが直接的に連結される場なので、その環境が悪の環境であれば悪の環境であるほど、悪が勝利するよりも、善なる天の前に屈伏するよう、そのように打開させられていくものであることは、言うまでもないことです。このような観点から見るとき、そのような生活的な土台や何かの根拠地を、皆さんの生活の裏面に、あるいは生活の表面に確定しなくては、天を体恤することはこの上なく難しいことなのです。

 生活の中でも神に対する体恤が私たちの生命の要因

 皆さん、「愛」と言えば、これは漠然とした言葉です。愛というものは、一人で、言葉では理解ができないのです。父母の愛という言葉をいくら説明してみても、父母をもつことができなかった人には、それは到達できない境地なのです。あるいは、夫婦の愛をいくら説明してみても、一人で暮らしている人には理解することができません。また、父母の愛がどれほど大きいかと言っても、子女を生み、子女を育ててみたことがない、このような体験をもつことができなかった人には、それは到達できない境地なのです。

 結局は、自分が感じる主体や対象の圏内で、それと私との行動的な一致点を備えることのできるところで、それが喜ぶことを私が喜ぶことができ、その願いが私の願いになることができ、そのすべてが私のすべてと連結され得る、その場においてその相対に対する愛の感じを感じるのが私たちの日常生活であることを考えるとき、「神様」と言えば漠然としているということです。その漠然とした神様が、私と共にどのような環境で一致点を感じるのか、出発点を提示するのか、これが最も重要なのです。

 皆さんが祈祷の時間にだけそのような因縁を結ぶことができるとすれば、その祈祷の時間以上の環境を自分の生活圏内に連結させることができる努力をせずに、神と同行している事実を体恤することは不可能です。

 神様と私たち人間を見るとき、神様と言えば気高い感じを受けますが、私の父と私、このような関係……。神様はどのような神様かといえば父です。「私たち人間は神様の子女だ。私は息子だ。息子だが、二人といない息子だ。神様はその息子の父だが、世界の数多いその誰とも比較できない最高の父だ」ということです。

 皆さんが信仰生活で、そのような内情的な面をどのようにして内心にその幅を広げ、その圏を広げるかということが問題です。それが考えだけでなく、実践生活で、実践環境でそれをどのように適応させるかという問題を扱うときは、「私の愛する父が願う心情的要求、すなわち愛の父が要求しているのがこれではないか、だから私はこのように実践しなければならない」と考えなければなりません。実践するその一日の生活も、あるいは一月の生活ももちろんですが、一生の生活をそのように見て、自分一人で報告し、自分一人で感じ得る生活をする、ここではじめて体恤というものが始まるのです。漠然と祈祷するときに始まるのではありません。

 神霊的な体験がある人たちの多くがもつ弊害は何ですか? 祈祷や集会をするときはそのようなことを感じますが、生活面での同化した体恤圏、または同化させることのできる体恤圏に対しては忘却することを、私たちはしばしば見るのです。それではだめです。私が祈祷をしてもしなくても、その環境で天が共に役事していることを感じる自我を、どのように確認して確定するか、ということが最も重要なのです。ですから、神に対する体恤が私たちの生命の要因になることを、皆さんは知らなければなりません。

 立体的な立場で神様の心情を体恤せよ

 「神様がいる、神様がいる」というのは、言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見るときに、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私がいる前にいたのではないか、私が考える前にいたのではないか、私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないか、という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。

 認識して知るのが原則ではないですか? 知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いということを知って感じるのではなく、寒ければ寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように、神様がいらっしゃるなら、神様がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

 それでどのような環境で認識されるのかというとき、皆さんは神秘的な祈祷の中で、祈祷の時間にだけそれがなされることを願うのではないですか? しかし、大多数の人は、自分が精誠を尽くすその時間にそのような因縁が結ばれるのです。もちろんそうです。私たちは、常習化した罪悪圏内に生活圏をもち、善とは遠い距離にあるので、あらゆる精誠を尽くして心と体が統一され、善に近くなれば近くなるほど接触点が近くなることは間違いないことですが、それが正常なことですか? 私たちの生活面でそれが正常なことにはなり得ないのです。

 私が聞き語る、このあらゆることも、平面的ではなく立体的でなければなりません。私が「あなた」と言えば、「あなた」と言うときにも、その響く音波の伝達としてだけでなく、その裏面には必ず心情的内情が天と共に加重されているという立場で語り、聞くときも、やはりそのような面を聞くことができる、このような体恤的な立場が何よりも貴いのではないですか?

 このような生活を皆さんがするようになれば、飛んでいく鳥の鳴き声も偶然ではありません。吹いてくる風の音も偶然ではありません。朝に昇ってくる太陽の光も、自分には無限なその何かを教えてくれるのです。このような環境的な土台の上で、これをどのように自分が体恤するのか、私が体でどのように感じて体験をするのか、それをどのように感じるのかが問題なのです。

 宗教は考えから出発するものではありません。宗教というものは体恤から始まるのです。宗教の認識というものは、何かの観念的な知識的論理を通してなされるのではなく、実質的であり実際的な体験を通してなされるのです。体験をもつことができない信仰は、長久な信仰になり得ず、体験をもつことができない信仰の場は、自信をもつことができません。いくら自信をもったとしても、環境が食い違うようになるときは、その自信も流されてしまうのです。

 それでは、孤独なときに、その孤独は私だけの孤独ですか? 孤独だった天があるため、天と共に孤独になる立場に立つようになるとき、私が孤独である前に、先に天が孤独であることを感じることができれば、この人は不幸な人ではありません。

 喜ぶときも、私だけが喜ぶのではなく、天と共に喜ぶのです。私が喜ぶ前に、先に天が喜ぶのです。私は平面的に喜びますが、神様は立体的な立場に立って喜びを感じられ、喜ぶ私をご覧になって私に同調してくれ、私の歌に、あるいは私の踊りに刺激を加えることによって私に勧告されるのです。そのような環境で天が私を抱いてくださる立場に立つようになれば、それはどれほど幸福でしょうか? そのような場を体験した人がいれば、その体験した瞬間というものは、永遠に忘れようにも忘れることができません。

 どこに行っても、その感じが私を支配しているというのです。山に行っても、野原に行っても、家に行っても、都市に行っても、職場に行っても、一人で密室にいても、どのようなところでも、自分が喜ぶ感じのそのあらゆる因縁というものは、いつでも自分の心と自分の生活目標の中で、自分の生活環境を収拾しながら明日へと導いていくことを感じることができるのです。

 体恤的感情を実現してこそ新しい自覚が形成される

 ですから、一人でいても、考えることは何かというと、喜んだそのときを再現させようとするのです。あるいは、孤独で悲しかったときに、神様が私に「強く雄々しくあれ」と勧告したことがあるなら、そのような場で新しい決意と新しい覚悟ができる心を再現させることができるのではないかと考えるのです。

 そのような立場を自ら感じ、そのような環境で自分の信仰生活を維持していく人がいれば、この人は不幸な人ではなく幸福な人です。その人が直面している環境と生活している舞台がいくら悲惨で凄惨だとしても、その人は不幸な人ではありません。孤独で凄惨な環境が、その人にとって孤独で凄惨なまま終わるのではなく、その孤独は未来に加重された希望を促進させ、その凄惨さは現在だけでなく、未来に新しい希望を促進させる原動力になるのです。ここではじめて信仰の価値を知ることができます。

 このような環境ではじめて私だけではないというそのような境地になり、自分自らが「私はこのような人である。神様がいらっしゃる。その方は全知全能の神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚した立場に立ち、自分のあらゆる所信を一つの目的に決定的に集中させて進み出るようになるとき、そこには新しいことが起こるのです。人間が想像できない新しい結果が起こるようになるというのです。

 そのような体恤的な場で、自分の新しい自覚をどのように確定するのかというのです。暴風雨が吹いてくるそのような環境の先端の場に立ったとしても、押し出されない自覚、いかなる困難な死線が私の前に立ち塞がることがあっても、それは問題にならないという自覚をしなければなりません。また、「神様は生きていらっしゃる。神様はあらゆる悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。それで私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?」、このように自覚する立場で、はじめて神様に代わることができる道が開かれるようになるのです。

 皆さん、ヨシュアとカレブを代わりに立て、少数の群れを導いてカナンの福地を訪ねなさいと命令された神様は、第一に、何の命令をしたのかというと、「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア記一章五~六節)と言いました。「強く、また雄々しくあれ」というのは、ただ漠然とした立場で「強く雄々しくあれ」と言われたのではなく、「天が共にあるのだから、強く、また雄々しくあれ」と言われたのです。共にいらっしゃるというのです。

 神様は、皆さんの困難に対して備え、背後で背水の陣を敷いて皆さんを訪ねてきており、皆さんと同伴していらっしゃるという事実を知らなければなりません。苦痛が加重するほど、その苦痛は皆さんを滅ぼすための苦痛ではなく、皆さんの価値を打診するための苦痛なのです。神様はこのように見ようとするのです。

 困難にぶつかるようにするのは、その困難によってその人に被害を与えてマイナスになるようにするためではなく、悪なるサタン世界の前に、悪なる歴史時代の人類の前に、失敗の原則に従ってきた人類の前に、また失敗の原則を提示するサタンの前に、彼らとは違うことを提示するための一つの条件に過ぎないのです。

 その受難の道を克服することによって、歴史はそこに頭を下げるようになります。皆さんが困難な環境を打開していくようになるとき、その環境に身を置いていた人類は、新しい希望の人物として追い求めるようになるのです。これが歴史的な事実です。

 ですから、そのような神様に対する体恤的感情を、どのくらい自分の生活の周辺に誘導して実現化させるか、ということが問題です。その実現化させる事実が、自分を中心として表現されるとき、自分だけでなく、自分の生活の周辺に新しい自覚圏を形成させることができるのです。

 完全な対象が出てくれば主体形成は自然と起こる

 完全な主体がいれば完全な対象は生じるというのが天地の道理だということを、皆さんは原理を通して学んでいます。完全なものが出てくれば、主体の形成は自然と起こるのです。なぜか? 不完全な圏内であるほど、完全なものが出てくれば、その完全を追い求め、そこに行きなさいとか行くなとか言わなくても、必ずついていくようになっているのです。

 どのようについていくのですか? 人間には欲望があります。欲望によって、愚かな人であれ優れた人であれ、簡単によくなる道があれば、誰でもついていこうとするのです。ですから、自分が簡単によくなるそのような主体と出会えば、本心が分かります。

 それは世の中でもそうではないですか? 皆さんが道を歩いていて、すれ違う人をさっと見ても、公然と心が引かれる人がいるというのです。ある人を見ると、何かを要求されているわけでもないのに憎らしい人がいます。何も要求されていないのに、見るだけで気分が悪いというのです。これは、その先祖から自分とは相容れない因縁が結ばれているからです。その子孫であれば必ずそうだというのです。

 ですから、人間の心は磁石と同じです。磁石の粉のようになっているのです。分かりますか? 神様が絶対的な磁石の主体なら、人間は小さな磁石の粉と同じだというのです。そのようになって人間は引かれていくのです。「私は引かれていく」ということが必要なのです。

 皆さんが道に出ていくときや、あるいは市場に行くとき、「きょうは市場に行くが、どのような人に会うだろうか」と思うときは、自分という観念を脱け出してそのような観念をもって行きなさいというのです。「私は小さな磁石だが、神様が役事されているなら、必ず神様と授受しているだろう。授受しているから強い磁石の作用が起こるのではないか? だから私がその近所に行けば、私の心が引かれることがあるのではないか?」、そうしてそちらに訪ねていくのです。そのような生活態度が必要です。

 お店に行くとしても、自分の心が引かれるところに行って物を買うのです。皆さんは、恣意的であれ故意的であれ、このような生活習慣を育んでいかなければなりません。

 子どもたちが言葉を学ぶときに、言葉を学ぶその息子が「アボジ」という言葉を理解して「アボジ」と言いますか? 「アボジ」という言葉を知らずに「アボジ」と言うとき、その息子が「アボジ」という言葉を知っているのかということです。それは習慣化されていくと、「あ! このようになれば、これがアボジなのだな!」と思うのです。子どもたちが言葉を学ぶのを見れば、本当に不思議です。その抽象名詞のようなものも、すべてどのように理解して納得するようになるのかというのです。それを説明して教えてあげようとすれば、百科辞典をすべて動員しなければならないにもかかわらず、何もなくそのような言葉をきちんと学んでいくのです。

 信仰生活は正にそうでなければなりません。そうでなければならないのではないですか? そうしようとすれば、皆さんは、生活面で細部的な分野と多く向き合っていかなければならないというのです。そうではないですか? 多く向き合えば、自然と習慣性によって分かるようになるのです。説明される前に自然と自分の解明圏が広がるようになります。それと同じように、皆さんはいつでも、「私は小さな磁石のような鉄分だ」という考えをもたなければなりません。

 それでは、私の心はどこに行かなければなりませんか? 皆さん、朝起きたら、ただそのまま起きてきのう生きていたその自分、金某なら金某、朴某なら朴某として、「私が昨夜寝て起きたのだから、私はきのうのその自分に間違いない」、そのように考えてはいけないというのです。

 幼子のような心をもたなければなりません。幼子は、主体に対して求めるすべてが総合的です。幼子にとっては、母親以外には願うものがないのです。他の欲望の対象がありません。母親なら母親だけを考えます。一切のあらゆる生命が、感覚器官や意識器官がすべて母親に動員されているのです。お乳を飲んでも母親、お乳を飲むためにも母親、母親以外は知りません。そのような意味で見るとき、幼子の心情をもたなければならないのです。そのようになれば、皆さんが一人で寝るときも、母親の懐に抱きかかえられ、父親の懐に抱きかかえられて眠るようになります。そうだというのです。そのようになるのです。

 皆さんがそのような生活をすれば、寝て起きたとき、自分で自分の手を見ても、手が輝いているのを感じるのです。「私は私ではない」と感じる、そのような境地があります。あるときは、深い懐に抱きかかえられて無限の愛の圏内に浸ることができる、そのような圏内があるというのです。

(『文鮮明先生御言選集』 58-288~ 1972.6.25)

 

 

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