いつ父の前に私は立つのか

       『文鮮明先生御言選集』 第3巻9~23ページ 1957年9月8日

 

 聖句:ヨハネによる福音書3章1~21節(口語訳)

 1パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 2この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 7あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 9ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 10イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 11よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 12わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 13天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 14そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 15それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 19そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 20悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 21しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

 

 皆さんと共に考えようと思うみ言の題目は「いつ父の前に私は立つのか」です。このような題目でしばらくの間、お話いたします。

 父の前に立つべき真の信仰者の態度

 地上に生きている人間たちは、いくら立派で、いくら優れていたとしても、それ自体は堕落の血統をもって生まれた存在です。言い換えれば、原罪をもっているというのです。
 それで、今まで人間たちは犯罪の歴史を経てきたのであり、この世界で、あるいは宇宙で悪と対決し、分かるようでもあり分からないようでもある、このような闘いの路程を経てきました。そして、私たちが希望の一日を期待して進み出ようとするとき、そこでは、広野における無数の諸条件がその行路の妨げとなっていることを、皆さんは生活で、あるいは生涯路程で体験したでしょう。
 そうであれば、「どのようにすればこのような環境から解き放たれるのだろうか」ということが、今まで歴史過程を経てきながら、良心的で善なる人たちが渇望してきた標柱であり標準だったことを、皆さんはよく知っているでしょう。
 ところで、私たちがきょうの私よりもあすの私がより善であろうとすれば、絶対的に実存される神を私たちの生活圏内に引き入れなければなりません。すなわち、その神を何か論理的な神や観念的な神としてのみ認識するのではなく、生活における実証的な神として認識しなければならないのです。これは、私たち信仰者にとって非常に重大な問題です。
 人間は堕落したために、どのみち堕落の運命から抜け出していかなければならない道が残っています。このような人間が行くべき道に対して、今まで大勢の預言者と道人たちが、あらゆる誠心と忍耐と至誠を尽くしましたが、その道はいまだ最後まで行くことができないまま、宇宙的な運命の道として残されているのです。
 また、人間が犯した罪によって生じた壁も一つや二つではなく、行っても行っても終わりなく立ち塞がっているので、私たちはこれを崩して越えていかなければならない立場に立っています。このような立場に立っている人間たちは、信仰の対象、すなわち絶対的な神、絶対的な実存体の神を欽慕してきましたが、彼らはそれに対して、理解できない様々な事実があることを感じるようになっていたのです。
 ですから皆さんは、漠然と観念的にのみ神の実存を認識しようとしてはいけません。しかし、論理的な面でのみ神の実存を認識しようとしても無理でしょう。なぜなら、論理圏内にだけとどまる神ではないからです。論理的に神を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、ここには問題点が多いのです。
 それでは、このような環境で生きている今日の私たちは、どのようにすれば、真の主と父の前に出ていくことができるのでしょうか。私たちが父の前に出ていこうとするのは、人間の歴史的な希望であると同時に、神様の摂理の目標となっているという事実を知らなければなりません。
 では、このような環境にいる私たちが神様を訪ねていき、信仰の道を訪ねていくようになるとき、私たちが行く道を何が妨げるようになりますか? まず、自分でも気付かずに生じる疑心が前途を妨げるのです。また、罪悪の試練が妨げるのであり、予期せず不意に襲撃する死亡の力が行く道を妨げるでしょう。私たちは、このような疑心の峠を越えなければならず、罪悪の峠を越えなければならず、死亡の峠を越えていかなければなりません。
 そして、人間たちは、各自が永遠の理想と関係が結ばれ、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の生涯の目的を支配してくれることを願う、そのような欲望を抱いてきました。また、このような永遠の関係を結ぶことができる、その一つの基準を人間たちは、我知らず待ち望んできたのです。人間はこのような過程を必ず経ていかなければなりません。
 また、皆さんは、生活圏内で神の実存を体恤することを願っていて、神の実体と出会うことを欽慕しています。しかし、その神の実体を信仰の対象として立てていこうとするとき、様々な疑心が生じることが多いでしょう。だからといって、その疑心の条件に引っかかって進むことができないようではいけません。それを通過しなければなりません。そして、皆さんは、死亡の大きな影の下にいることを感じなければならないのです。
 それでは、このようなことを感じた後にはどのようにしなければなりませんか? それらを自分の心に抱えているだけでは、真の信仰の道を行くことができません。このような問題を解く道がないというのです。皆さんが、神様がいらっしゃることを認めるなら、自分がもっているあらゆる疑心を神様に率直にさらけ出す、そのような信仰の対象者の立場にとどまることができなければなりません。また、自分のあらゆる罪悪による苦難、すなわち自分自ら犯した自犯罪から血統的に受け継いだ遺伝的な罪まで、すべてを率直に神様に告白できなければなりません。
 また、それだけでなく、前途を妨げているあらゆるものと闘うべき運命にあるにもかかわらず、永遠の希望の世界に向かって一歩一歩、前進しなければならないにもかかわらず、永遠の生命の理想を感じることができる約束の天国に入っていかなければならないにもかかわらず、いまだに無力な死亡圏内にとどまっていることを私たちは克服しなければならないのです。

 疑心の解明方法‐勇気ある信仰

 今、皆さんに父なる神を訪ねようと願う心があるなら、皆さんは、今までもってきた疑心と罪悪と死亡の内容を外に出してしまわなければなりません。皆さんが今までとどまっていたその場、罪悪の歴史と因縁を結んでいるその堕落の環境では、神様や善と関係を結ぶことはできないのです。皆さんが善になることのできる環境は、そのような環境ではない新しい環境でなければなりません。
 それでは、皆さんがこのような環境を抜け出るためには、どのようにしなければなりませんか? 皆さんは、「私はこのような不足な姿ですが、お父様、受け入れてください」という懇切な心情をもたなければなりません。そのような心情が皆さんの心の中に定着すれば、皆さんは永遠の生命の世界に近づいていくことができるようになるのです。
 そして、皆さんがいる周囲の環境から生じるようになった疑心を、包み隠さず に「お父様、私の心と体からこれを除いてください」と言うことができ、罪悪に捕らわれているこのような自分を、父の前やある信仰の主体者の前に、そっくりそのまま委ねることができる勇気をもたなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んでいくことができないのです。
 神様が人間を訪ねてこられるとき、どのような条件を提示されるのかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は、信仰で自分のすべてのものを忘れ、疑心が生じる環境を打破して、信じることができる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境をつくらなければならず、死亡の環境を打破して、生命の環境を造成しなければなりません。
 このようなことをすべて果たした後にこそ、永遠であられる神様の愛を中心とする、神様の無限大の栄光を神様に代わって歌うことができ、神様の権限を自ら現すことができるようになります。そのような一時を望んで、人間たちの心が動いてきたのです。この事実を誰も否定できないでしょう。
 今日の私たちは、私たちがとどまっているこの罪悪の環境を無慈悲に清算してしまわなければなりません。また、自分のあらゆるものを父の前にさらけ出すことができ、今まで結んできた父との関係においてもっていた疑心をすべて解明でき、今までもっていたあらゆる罪悪の要素を打破してしまうことができ、今まで属していた死亡の権勢から解脱できる信仰の基準をもたなければなりません。
 そうしようとすれば、どのようにしなければなりませんか? 皆さんがもっている疑心を解明できる道を探さなければなりません。生命へと進んでいくことができる道を探さなければなりません。もしこのような道が人間の世界になければ、神様は訪ねてくることができないのです。自分の過ちを悟り、悔い改めることができるよう、良心を刺激してくれる実存体が神様であれば、その神様が望む最大の希望と生命と人倫の基準を、皆さんは必ず立てなければなりません。そのようにできる一日、歴史的な終末時代がいつかはどのみち来なければならないのです。
 それでは、このような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどのくらい考えてみましたか? 事実、今日の皆さんは、宇宙とこの社会と世界、さらには皆さん自身についても、疑心を抱き得る環境にいるのです。このようなあらゆる問題を解明してくれる中心存在が誰かというと神様です。また、人間たちが心配しているあらゆることをご存じの方も、ひとえに神様お一人であられ、それを解決してくださる方も、ひとえにお一人の絶対的な存在であれる神様なのです。
 したがって、皆さんは、皆さんと関係をもつこのようなすべての宇宙的な疑心を背負い、「神様、私は今、宇宙に対するあらゆる疑心をもってきましたので、あなたと私の間に天倫的な因縁があるとするならば、私をお捨てにならないあなたであることを知っておりますので、このすべての疑心を受けて解明してください」と言いながら、神様に委ねてしまうことのできる度胸もなければならないというのです。
 このように、疑心を生じさせる問題を解決しようにも解決できない立場に立ったとき、これを解決することを信仰の道理と理解し、それを解決するために困難な闘いをして生きる人がいれば、彼は一人で歩んでいきますが、最後には、普通に歩んでいる信仰者たち以上の場に進んでいくことができるのです。
 私たちが、善の道をさえぎりながら悪の道を開こうとするサタンの仕業を退け、個人的に勝利の目標に向かって開拓していこうとするときは、自分の疑心をすべて信仰の主体者の前に率直に告白しなければなりません。
 告白するそれ自体も聖なることだと言えるのですが、自分が直面した宇宙的な意識の限界に対して挑戦する真の誠実性をもって天の前に「お父様! 神様!」と呼ぶときは、お父様も彼と向き合ってあげなければなりません。神様には、そのような人に向き合ってあげなければならない責任があるのです。
 天倫が真実を蹂躙することはなく、神様が真を捨てておくはずがありません。ですから皆さんは、皆さんの心に疑心となるあらゆる事実を解決するために、真実なる心で、忠実と忠節と精誠の心をもって神様にすがって訴えることのできる、このような覚悟をもたなければなりません。
 この疑問が解明されなければ、私たちは罪の道を打開する方法がありません。いくら大きな恩恵を受けたとしても、疑問が完全に解明されなければ、また倒れることがあるというのです。

 歴史的な疑心の障壁を崩されたイエスのみ言

 堕落の起源を回顧してみるとき、アダムとエバが堕落するようになったのは、疑心をもったためでした。ですから、復帰の過程にある私たちに何かの疑心があれば、これを解明しなければならないのです。疑心が大きくなれば大きくなるほど、その心が強く拘束されます。それで、疑問を解明するため、神様の前に大胆に進み出ることができる勇気と覚悟をもった人にならなければなりません。
 長い歴史を経てきながら、人間たちは、人生観や宇宙観については多くの疑問点を解こうと努力してきました。しかし、いまだその疑問点は完全に解明されていません。今、その疑問となることを解明するため、その問題に正面から挑戦し、天の前に忠実な姿であらゆる精誠を尽くす人がこの地に現れたとすれば、神様がその人を立ててくださるのであり、また、その人の疑問を解いてくださるでしょう。
 長い歴史を経過しつつ、このような天倫の秘密を明らかにするために、大勢の預言者たちが来ては行きました。しかし、人類が懸念してきた全体的な内容を解明することはできませんでした。それで、このような宇宙的な疑問を解明してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、解決されていない人間たちの罪を解決してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、死亡の問題を解決してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければなりませんでした。
 人類のこのような疑問と死亡と罪を解決してあげられる方は、ただイエス様だけでした。そして、イエス様は、4000 年歴史の過程で来られた誰よりも、神様のために真実な生活をされた方です。自分を超越し、宇宙的な疑心を解明するために努力されたのであり、自分の一身の栄光を超越し、宇宙の栄光のために苦労されたのであり、自分のすべてのものを振り返ることなく、ただ神様のみ旨を成し遂げるために無限に犠牲になっていかれました。
 そのような一貫した心と生活によってイエス・キリストは、歴史を代表し、天の前に一番の先鋒者として立てられました。それでイエス・キリストは、歴史的な疑心の障壁を押し分けて立ち上がり、自信をもって「わたしを信じなさい」(ヨハネ福音書14章1節)と叫ばれたのです。
 「わたしを信じなさい」と言われたイエス様のこの一つのみ言が、どうして信仰の基準になり得たのか、また、どうして「わたしを信じなさい」という信仰の基準をイエス様は立てられるようになったのでしょうか? あまりに多くの疑問を解明しようとすれば時間が必要であることをご存じのイエス様であられたため、これを短縮させ、ある時になれば自然と分かる道を紹介してあげようと、イエス様はそのように語られたのです。
 イエス様は、地上の人間世界のことだけでなく、天の世界についてもご存じでした。それでイエス様は、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ福音書3章12節)と語られたのです。人間の言葉では、疑問の峠を越えることができません。必ず天のみ言を通してこそ、あらゆる疑問が解明され得るのです。
 それでは、天のみ言を聞くことができるときはいつでしょうか? そのときは、人類が訪ねもとめてきた最後のとき、キリスト教で言う最後の審判の日なのです。神様はそのときを基準として、あらゆる復帰摂理をしてこられました。そこで、あらゆる疑心と死亡と罪の条件と要素を除去する新しいみ言がこの地に現れるようになるとき、そのみ言を受けることができる皆さん自身になっているのか、ということが問題になります。
 皆さんがこのようなみ言を受け入れることを願うならば、皆さんは、イエス様が天のために忠誠を尽くされたのと同じように、イエス様のために忠誠を尽くす人にならなければなりません。また、尊い礼物を受けようとするときには、それを受けることができる器が必要であるのと同じように、今後、全体的な疑問を解明する価値をもつみ言が現れるようになるとき、皆さんは、それを受け得る自らになっていなければならないことを知らなければなりません。

 神様と因縁(関係)を結ぶ道

 それでは、何によってこのみ言を受けることができるのでしょうか? それは、まさに皆さんの精誠と忠誠です。イエス様が4000年の歴史を代表し、天に対して忠誠を尽くしたのと同じように、皆さんも、6000年の歴史に代わり、天とイエス様の前に忠誠を尽くさなければなりません。このような皆さんにならなければ、全体的な解明がなされる時代に、到底進んでいくことはできないのです。
 それでは、このような解明のみ言は、どのようなみ言なのでしょうか? これは皆さんが聞くことのできなかった新しいみ言として現れるでしょう。また、このみ言はどのようなみ言なのでしょうか? このみ言は、個人的な疑問を解明してくれるみ言であると同時に、世界に関する疑問と宇宙に関する疑問を解明してくれるみ言として現れるでしょう。
 このみ言はまた、どのような体系を備えたみ言なのでしょうか? これは、一言で表現するのは難しいのですが、おおまかにお話すれば、6000年間流れてきた疑問の歴史を解明できる具体的な内容を備えたみ言です。これからの時代は、そのような具体的な内容を備えたみ言が実際に現れるのです。
 そして、今後現れるそのみ言を私たち個人に適用させてみれば、そのみ言は、私たちの生活環境を支配できるみ言として現れるのであり、また、そのみ言を通して、永遠の世界を目的としている絶対者の治理(ちり:国や地域を受け継いで治めること)の権限と私たちの生活は、密接な関係を結ぶことができるようになるのです。
 そのみ言は、このような具体的な内容をもたなければなりません。そこで私たちが神様と一体化したそのみ言と一体になれば、その一体となった場には、いかなる疑心や死亡や罪悪も侵犯してくることができないのです。
 そして、そのみ言は、私たちの信仰を完成させてくれる絶対的なみ言でなければなりません。また、私たちをして、絶対的な善を指向するようにできるみ言でなければならず、永遠の生命を感じるようにできるみ言でなければなりません。
 今まで人間たちが追求してきた真理探究の歴史を見てみると、人間たちの最初の探究対象は宇宙でした。すなわち、この宇宙はどのようなものなのかという問題をめぐって、人間たちは苦心してきました。その次には、人間を中心として探究してきました。すなわち、人間とは何かという問題をめぐって苦心したのです。このように人間は、理性を中心として今まで真理を探究してきたのですが、人間のその理性は完全なものでしょうか? そうではありません。理性それ自体だけでは完全になることができません。そして、その理性は、人間たちをして絶対的な価値を増進させることができず、永遠の人間の生活理念にはなり得ないのです。
 ですから、人間たちは絶対者、すなわち宗教的に言えば、「神」を認めざるを得なくなりました。しかし、その「神」は、人間たちが犯した罪の赦しを請うための人倫的な「神」でした。論理を超越した「神」として、個々人の人間と関係を結ぶ「神」となることはできなかったのです。どこまでも人間的な思考による「神」でした。このような神観は完全な神観ではありません。
 正しい信仰者たちは、このような立場から一歩飛躍し、絶対的な「神」を認めています。しかし彼らは、絶対的な「神」を認めながらも、信仰生活において、自らがその「神」といかなる因縁(関係)も結ぶことができていないのです。論理的な立場にとどまっているだけで、どのようにすればより飛躍して神の実存を感じることができ、その実存する神が生活の中でどのようにして私と因縁(関係)を結ぶことができるか、という問題は解決できずにいるのです。
 私たちは、これを解決してくれる理念をもたなければなりません。そして、その理念は、宇宙論を代理し、人間の理性の価値を代理し、人間の生命の価値を代理して、絶対者の理念、すなわち神の理念にまで通じることができなければなりません。そのような理念が私たちと関係を結ばなければならないのです。それは、どんな人間の表現でもできません。どんな人間たちの人格修養によってもできないのです。

 神様と出会うことのできる信仰の基準

 今日の私たちが天倫の新しい理念圏内に生まれた以上、私たちは、自らの生涯期間中に天宙的な理念を探し求めなければなりません。神の理念に通じたイエス様であられたことを知らなければならず、最高の良心基準と最高の善の基準に立たれたイエス様は、神の全体的な性稟を代理する方であることを、私たちは、自動的に信じることができ、知ることができる境地まで行かなければならないのです。
 それでは、どうして私たち自身は、イエス様のようになれないのでしょうか? それは、私たちが今何をするとしても、そのとどまっている環境では、何かをやろうとする私たちの心を抑圧する力が強く押し寄せてきているからです。人々はこのような事実を忘却しています。また、私の良心が最高の善、すなわち絶対者の実存に向かっているとしても、そのような心が順調に行動に移されていないのです。なぜそうなのかというと、堕落の応報により、この世界が罪悪の世界になったからです。
 私たちの本心、本性の力を抑圧している、私の心の力よりもっと強い暗闇の勢力が私たちを抑圧しているのです。この暗闇の勢力をキリスト教ではサタンと言うのです。私たちは、この暗闇の勢力をどのように打破していくのかということを考えざるを得ません。
 暗闇の勢力と私たちの体にある悪の諸要件は、私たちをして疑心をもたせ、罪悪の行動をするようにし、私たちを死亡の世界へと引きずっています。私たちは、これを防いで押し出すことのできる環境をもたなければなりません。このような環境を探し立てようとする宗教が、まさにキリスト教なのです。
 それでイエス様は、自身が神様を信じて立ち上がったのと同じように、私たちに「わたしを信じなさい」と語られたのです。その「わたし」というのは、イエス様だけが成就した「わたし」でしたが、それと同じ個人をつくって人間世界に拡張させる運動を誰がするのでしょうか? これは、人間の力でできることではありませんでした。神様がしなければならないのです。しかし、ここには人間の信仰が必要です。
 言い換えれば、イエス様が神様を信じることによって、周囲の環境に広がっている暗闇の勢力を生活の中から退けられたように、私たちが神様を信じて立ち上がるようになるとき、瞬間的にサタンが私たちのやることと私たちが動くところに現れますが、結局、天が現れてくださり、サタンを退けてくださるのです。この一つの基準を立てるために、イエス様は信仰の条件を立てられたのです。
 それでは、私たちが信仰の条件を立てようとすれば、どの基準まで信じなければならないでしょうか? 皆さんが想像して信じることができる程度の適当な信仰ではいけないのです。皆さんの考えが及ぶ程度まで信じることではいけないというのです。その基準は、今日この世界で信じている基準ではありません。偉大で尊い神の実存体のために信じなければならないのであれば、その偉大で尊い神の価値と比較し得る信仰の基準を皆さんが立てなければなりません。
 それでは、現在の人間たちは、どの程度まで信じていると言えるでしょうか? その信仰の程度は、イエス様が「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ福音書3章12節)と語られたのと同じく、とても低いのです。イエス様は、このように人間たちの信仰の程度について落胆するみ言を語られました。そうだとすれば、今日、信仰をもつ人々が絶対的な信仰の基準を立てることができるか、これが問題です。
 今日までキリスト教は、聖書の中の神様としてのみ信じてきました。しかし、神様の中にも信仰があります。神様ご自身も、無限なる創造の理念がある限り、その理念を実現させるための信念があるのです。神様ご自身も、信じていらっしゃる何かがあるというのです。ですから、私たちは、無限大の信仰を追求していかなければなりません。私たちがそのような信仰を所有すれば、聖書の中にあるあらゆるみ言を信じることができるでしょう。
 また、聖書の中にあるあらゆるみ言を信じることができてこそ、イエス様がこの地に来られて語ることのできなかったみ言まで、皆さんが考えることができるのです。そこで、イエス様が語ることのできなかった部分を皆さんが見出してこそ、宇宙的な疑心の峠を越えていくことができ、宇宙的な死亡と苦難、そして宇宙的な罪悪の歴史を経てきた先祖たちを慰労してあげることができるのです。
 皆さんが今、信仰の主体であられる主を信じていますが、イエス様を信じることだけで終わってはいけません。皆さんは、イエス様を信じることによって、その信仰の条件を通して、永遠の生命を懸けてイエス様との関係と因縁を結ばなければなりません。そして、皆さんはイエス様と信仰の関係を結んだその基盤の上で、神様の実存まで感じなければなりません。皆さんが本当にイエス様を信じれば、このようなことを成し遂げられるでしょう。
 無限なる信仰の路程を探究していく人々は、無限なる発展を成し遂げることができます。今日の一般のキリスト教徒たちは、このような事実を知らずにいるのです。このような無限なる信仰の理念に魅了され、天国が成就することを願う真正なる信仰者を天は待っていらっしゃるという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 真の信仰者は悪なる環境に影響されない

 これから皆さんは、自らが歩んでいる信仰路程で、生命の条件を通過できなければならず、天倫の秘密に通じることができなければならないため、その道を探し立てるべきであることを知らなければなりません。それらに通じたのちには、疑心の峠を越え、罪悪の峠を越え、死亡の峠を越え、悪を中心とするあらゆる欲望の峠をすべて越えなければなりません。
 それでは、その峠をすべて越えたのちには何をしなければなりませんか? その次には、神様を私たちがお迎えしなければなりません。信仰の主体であられ、善の主体であられ、生命の主体であられるその方を、私たちの心に迎え入れることができなければならないのです。これがイエス様が「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ福音書14章20節)と語られたみ言と同じ一体の境地です。
 無限大の希望をもった創造主、神様を信じ、その神様を自身の心にお迎えして泰然自若たり得るその姿は、どれほどすばらしいでしょうか? 神様は、私たちがそのような姿になることを願っていらっしゃるという事実を、皆さんは知らなければなりません。
 霊界の事実は、本に記録するとすれば、何万冊の本でもすべてを記録できないほど多くの内容があります。今まで人間たちに見せてあげ、教えてあげた霊界は一部分なので、今までの霊界を紹介した本では全体の霊界を解明することはできません。
 聖書に記録されたみ言が、人間の行くべき信仰路程の全体を含んでいるみ言なのか、全体の価値を回復させることのできる内容を備えているのかと言うとき、私はそうではないと言いたいのです。このようなことを言えば、批判する人がいるかもしれませんが……。それで、信仰の条件としてイエス様は「わたしを信じなさい」と言ったのであり、神様は人間たちがイエス様を最大の価値をもつ方と信じるようにするため、様々な役事をされたのです。
 そうして、私たちがイエス様を信じ、イエス様と関係を結んでいけばいくほど、より直接的に神様が私たちの生活を主管なさることができ、神様の主管を受けることによって、私たちは神様の対象の位置で神様の価値と連結され得るのであり、神様と心情的な関係を結ぶことができます。このように、神様の真理も私たちの生活の中で現すことができ、神様の真理と相対する要素を私たちはもっているのです。
 結局は、あらゆる主義、思想を統合させ、あらゆる民族を統合させることのできる生活環境を建設しなければなりません。そのような生活環境圏内に入ってこそ、善の希望をもつことができ、善の生命を所有することができ、善の絶対的な価値を現すことができるのです。人類がそのような立場に立てば、神様はある特定民族の神様ではなく、万有の神様としてお出ましになることができるのです。皆さんが生前にそのようにならなければ、皆さんは神様の直系の息子、娘になることができません。
 今日の皆さんは、他でもない道をすでに進み出ています。他でもない道をすでに歩んでいるのです。そして皆さんは、信仰の標準を宇宙的な創造主の人格に定めて信仰しています。皆さんの信仰の標準を達成する日には、悪の要素が皆さんから消えるでしょう。そのようになれば、皆さんはこの世界のあらゆるものを消化できるのです。
 真なるものは、悪と一緒にいたとしても、その悪の影響を受けて変わることはありません。ですから、環境がいくら悪くても、神様の真の息子、娘になれば、その環境に支配されないでしょう。このような真の信仰者にならなければ、天倫と相対できないだけでなく、神様の前に立つことができません。
 それでは、イエス様はどうして自らを神様のひとり子と言われたのでしょうか? イエス様がこのように人間たちが到底信じがたい条件を提示されたのは、これを信じれば、瞬間的に飛躍できる恵沢を彼らに下さるためでした。そこで、人間たちが無限の信仰でイエス様を信じ、真心から天に向かって叫ぶようになれば、信仰が飛躍的に成長するようになります。
 天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、その分だけ霊界も皆さんを通してより大きく役事することができ、皆さんが無限の信仰心を所有すれば、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像できないほどの超感覚的な世界の事実と宇宙の事実を、一度に感じることができるのです。ところが、人間はこのような驚くべきことを失ってしまったのです。
 行って、行って、また行かなければならないのが無限の世界を指向する信仰者の姿勢だとすれば、ある限界圏内にとどまらせる信仰を唱える群れを退けるため、終わりの日には、宇宙的な大きな闘いをしなければならないでしょう。

 神様の前に立つことのできる真の息子、娘になろうとすれば

 今までの歴史路程を見てみると、新しい時代を紹介するために来た多くの預言者や烈士たちは、ほぼすべて追い出されました。彼らを追い出した人は、私たちの先祖たちでした。イエス様が来られたときにも、ユダヤ教徒たちは、イエス様を嫌い反対したのです。彼らは知りませんでした。自分たちが信じているものが一番だと考え、宇宙を代理し、天宙を代理する救援摂理を自分なりに判断していたのです。このように私たちの先祖は、天倫の道に逆らい、天倫の役事を壊す過ちを数限りなく犯してきました。
 それでは、今日この終わりの日において、誰が100%の信仰を所有できるのでしょうか? 罪悪を退けるための闘いに立ち上がった皆さんがそのような立場に立たなければなりません。そして、その信仰の基礎の上に透徹した責任感をもち、絶え間ない努力で実践していかなければなりません。皆さんがこのような立場に立たなければ、無限の愛の理念をもって新郎の名で来られる方の前に、対象の資格で立つことができず、また、無限に生育し、繁殖せよと言われた神様と関係を結ぶことができないのです。
 このように見るとき、罪とは何かというと、信じることができないことです。神様が送られた人物を信じることができないことが罪であり、その方のみ言を信じることができないことが罪になるのです。ですから、皆さんは、宇宙的な神様の理念を受け入れなければなりません。そして、確固たる信仰をもっていかなければなりません。しかし、皆さんがこのような信仰をもって進んでいこうとするとき、皆さんの心の中には、それと反対の疑心が生じるでしょう。
 それは、皆さんの心に悪の勢力が作用するからです。その悪の勢力は、皆さんの心に不安と恐怖を感じさせます。ですから、皆さんがその悪の勢力に飲み込まれる信仰ではいけません。このようなことを消化して越えていける雅量をもって進まなければならないのです。このような立場に立たれたイエス様であられたので、その方は十字架を背負う場も避けることがなかったのです。このようなイエス様を誰が非難できるでしょうか? 神様を真心から信じる人であれば、イエス様を到底、非難することはできないでしょう。
 イエス様のような立場で、私たちは新しい信仰路程を訪ね歩んでいかなければなりません。私たちが本当に新しい信仰路程を歩んでいけば、そこで私たちは、実証的な事実、神様と因縁を結んだ事実、神様と関係を結んだ事実を見出すことができるでしょう。そのようになれば、ここから統一を念願される創造主の理想を実現させる道を探し出すことができるのです。
 今日、死を覚悟して新しい信仰の道に従って立ち上がった皆さん、皆さんが絶対的な信仰で神様の希望に向かって進んでいけば、そのような信仰路程を通して、皆さんは神的な価値を求めることができるでしょう。ですから、皆さんは、このような信仰をもって責任感を感じなければならず、このような信仰をもって実践する真の使徒たちにならなければなりません。そのような皆さんにならなければ、父の前に到底、立つことができません。絶対的な父の前に真の息子、娘として立てず、忠臣の姿で立てないのです。
 今から私たちは、絶対的な父の前に真の息子、娘として立つために、新しい信仰でこのあらゆる疑心の世界、このあらゆる死亡の世界、このあらゆる罪悪の世界、このあらゆる恐怖の世界を越えなければなりません。私たちが天の要求する信仰の内容を知ったなら、それを立証させることのできる基準を立てて天の前に進み出なければなりません。そのようにできなければ、到底、神様の真の息子、娘になることはできないのです。
 このような信仰をもって立ち上がるとき、神様と永遠の関係を結ぶことができ、永遠の善と永遠の生命を享受することができ、苦痛からの永遠の解放を受けることができ、永遠の天国圏内で暮らすことができることを肝に銘じなければなりません。

 

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