祈祷の重要性(2/3)
 
1979年4月15日
 

 私たちの力が不足なときに祈祷が必要

 
 自分とその言葉(「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」)の距離がどれほど遠いかということを、皆さんはよく知っているのです。「私はそれを知らない」と言う人もすべて知っています。皆さんは「私はその言葉を知らない」と言いますが、すべて知っているというのです。その立場と遠いですか、近いですか? (「遠いです」)。私たち統一教会の教会員たちは、考えは立派ですが「私とは関係ない」と思っています。
 
 すべてが問題です。これも問題で、これも問題で、これも問題で、すべてが問題だというのです。その問題がどれほど大きいでしょうか? 家庭では家庭くらい大きく、国では国くらい大きく、国家では国家くらい大きく、世界では世界くらい大きく、天宙では天宙くらい大きいのです。すべて放棄してしまえばよいのですが、放棄できないというのです。どうするつもりですか? 
 
 先ほど話したように、人は誰しも自分の所願成就をしようとするとき、自分の力ですると同時に、自分が不足なときは協助を受けてしなければならない、そのような原則に従って協助を受けられる道がないかと考えるのです。私を助けてくれる先生はいないか、私を助けてくれる誰かがいないか、と考えます。さあ、それできょうの題目のように「祈祷の重要性」という問題が出てくることを知らなければなりません。
 
 皆さんの力では不足でしょう?(「はい」)。それでは、祈祷をするときはどのようにしなければなりませんか? 祈祷する姿勢が必要だというのです。「私は一生、永遠にわたって間違いなく行きます。私は行きます」という決定的姿勢をもたなければなりません。否定的姿勢を避けなければならないというのです。「風よ吹け! 暴風よ吹け! 台風よ吹け! あらゆる迫害よ来い! 来ても私は行く。100回死んでも行く」という、そのような決定的姿勢をもたなければなりません。
 
 そうでなければ、天が協助してくださらないのです。今までの復帰歴史で、神様が協助するたびにすべて騙されてきたのであり、いつも損害を被ってきたので、皆さんを信じて協助していけば、間違いなく騙されるようになる、というのです。神様はご存知です。皆さんがいくら決心したとしても、「この女、この男! 見てみよう。3年くらいたてばふらふらするだろう」というとき、神様が3年たつ前に成し遂げてくださるでしょうか? 3年待ってみるというのです。
 
 3年後に変わるのが明らかで、そのときになって事故が起きるのが明らかなのですから、様子を見てみなければならないのであって、それを成し遂げてあげてよいでしょうか?(笑い)私が神様でもそうするというのです。皆さんが神様ならどうしますか?(「同じです」)。ですから、私たちの姿勢が問題です。決定的姿勢が必要だということです。「私は、死ぬとしても、統一教会の教会員として、神様の息子、娘として死ぬのであって、他の者として死ぬことはない。いくら迫害を受けても変わらない」、それが必要なのです。(歓声、拍手)
 
 皆さんが祈祷していくら騒いでも、その姿勢ができていなければ、絶対に成し遂げられません。それは空祈祷(からきとう)です、空祈祷。かえって祈祷しないほうがよいのです。分かりますか?(「はい」)。ですから、姿勢が必要です。決定的姿勢が必要だというのです。「私は10年、いや20年…。私は今若く、ぴょんぴょん飛び跳ねる若者だが、背中が曲がるそのときにも、このみ旨のために行くことは同じだ。神様がそのように行く以上、私も行くのは同じだ。変わらない」、これを決定しなければならないのです。
 
 さあ、先生も祈祷したでしょうか、しなかったでしょうか?(「祈祷しました」)。私が願ったことを、神様はすべて成し遂げてくださいました。最初は何を願ったかというと、絶対的信仰を願いました。世の中の人が誰も信じることができないことを神様が言われれば、信じることができる私になる!ということです。その次に2番目は何かというと、絶対的な知恵です! 絶対的な知恵を願いました。その次に3番目は、絶対的な愛を願いました。そのような観点をもって一生を歩んできてみると、いつ成し遂げられたのかも分からないうちに、すべて成し遂げられていたというのです。
 
 ですから、そのような愛をもった方は、国境を超越し、あらゆる人種を超越し、すべての人を連結させざるを得ません。そのような知恵を願ったので、原理を探し出し、新しいこの世界観を立てることができたということです。そのような姿勢が必要です。絶対的な姿勢が変わってはいけません。
 
 

 祈祷はより大きなことのためにしなければならない

 
 皆さんはそうだというのです。ここにいる未婚の女性たちは「ああ、私は嫁がなければならないのに…」と考えますが、嫁ぐために行く道が変わってはいけません。また未婚の男性たちは、結婚するために変わってはいけません。線に例えて言えば、ふつうのときはこのようになりますが、そのときにはもっと太くなると考えるのです。結婚しなくてもよく、結婚が問題ではないというのです。(笑い)これが太くなければなりません。細くなってはいけないのです。ふつうはこれがこのようになります。(板書しながら語られる)(笑い、拍手)
 
 ですから、重要な問題ほど、それが自分の信仰の道を薄くし、狭くすると考えてはいけないというのです。厚くすると考えなければなりません。「私がこういうときはこのようにしなければならない」とあらかじめ計画を立てて、すべて整備しておかなければならないのです。
 
 自分の理想的な相対を得て結婚し、楽しく暮らしていて夫が死んだ、妻が死んだというとき、「ああ! 私はもう知らない」、これではいけないというのです。「ああ! 神様が私を愛しているなら、なぜ妻を連れていき、なぜ夫を連れていったのか?」、そのように考えるのではなく、「これは何か起きるからこのようなことが起きた」、このように考えなさいというのです。神様が自分から貴いものを奪っていったのなら、奪っていった神様は、より貴いものをくださる神様だということを知らなければなりません。父母はそうだというのです。
 
 蕩減復帰原則を考えれば、蕩減というものが本当にありがたい言葉なのです。「このような峠道を蕩減する者は私しかいないから私を選ばれたのだな!」とありがたく考え、神様の前に「その次は何ですか?」と祈祷できる余裕をもてば、驚かれるのです。100年、1000年をおいて見てみれば、子孫が福を受けるというのです。
 
 もしそのように考えて天に感謝し、忠誠を尽くせば、神様が成し遂げてあげまいと思っても、成し遂げてあげなければならないということです。そうだと思いますか?(「はい」)。では、皆さんにそのような困難なことが起きれば、ひたすら泣きわめきますか、どうしますか?(「泣きわめきません」)。蕩減法を知る人たちが、自分によいことがあれば感謝し、よくないことがあれば不平を言う、そのようになっていますか? よくないことがあっても感謝できますか? 「それはできない」と考える人ではいけないというのです。
 
 さあ、私たち統一教会の教会員たちが教会に入ってきて、3年くらい働き、3年をすぎると、キラキラしていた目がこのように下がっていくのです。(「そうではありません」)。そうだというのです。私の話が正しいでしょう?(「そうではありません」)。(笑い)そして、10年後にはどうですか?(「変わりません」)。そうですか、言葉では簡単だというのです。(笑い)実際は難しいのです。(「そのとおりです」)。
 
 皆さんが祈祷するとき、祈祷の重要性というものは何ですか? 祈祷は絶対に必要ですが、祈祷は必ずそのような姿勢を備えたところでしなければなりません。それが成立していなければ、いくら祈祷しても役に立ちません。
 
 見てください。既成教会で大勢のキリスト教徒たちが、どれほどたくさん祈祷しますか? 「既成教会は滅びよ」と祈祷したでしょうか? 滅びないように祈祷したのに、なぜ滅びますか? なぜ滅びるのですか? なぜ滅びますか? では、統一教会の教会員のあなたたちも祈祷しますか?(「はい」)。何のために祈祷するのですか? 統一教会のために祈祷するのですか?(「違います」)。統一教会のために祈祷する必要はありません。より大きなもののために、国のために祈祷し、世界のために祈祷しなければなりません。それはどういうことですか? より大きな十字架を背負うということです。統一教会に責任をもつのも大変なのに、統一教会を信じるのもうんざりするほどなのに、これより大きな国のために十字架を背負うというのです。皆さん、そうですか?(「はい」)。統一教会より小さいサイズでいくら祈祷してみても、成し遂げられないというのです。(笑い)
 
 そのように十字架を背負うということは、世界を愛し、国を愛するための訓練です。訓練であることを知らなければなりません。私たちがお互いに愛するための訓練です。より大きなものを愛するための訓練であることを知らなければなりません。皆さん、そうですか?(「はい」)。そのように生きるようになるとき、祈祷しなくても神様が祝福してくださるのです。
 
 

 神様の義とみ旨にかなう祈祷は必ず成し遂げられる

 
 皆さんが長老教や監理教(メソジスト派)に行ってじっと祈祷を聞いてみてください。「神様! 私たち長老教団を祝福してください! 私たち監理教団を祝福してください! 私たち教会員たちを祝福してください! 世の中はすべて滅びる兆しが見えるので、私たちの息子、娘を愛してください!」、すべてそのような祈祷をしているというのです。そのような祈祷をいくら1000年しても、聞いてくれません。神様はどれほど耳が痛いでしょうか。ですから、耳をすべて塞いでいるのです。分かりますか? どのように祈祷しなければなりませんか?「私たちの教団を犠牲にして世界を救い、神様を解放します」、そのような祈祷をすれば、神様の耳がぱっと開くのです。本当にぱっと開きます。(笑い)人と同じです。同じでしょう、違いますか? それが理解できますか?(「はい」)。
 
 祈祷は、自分を中心としてすれば成し遂げられません。いくら祈祷してもだめです。世界と神様が願われる目的である神の国と神の義のために祈祷しなければなりません。神の国と神の義のために冒険が必要なら、その冒険を通して前進するようになるとき、神様が「よし! やりなさい! やりなさい!」と言われるのです。それで非難される場に訪ねていくようにするのです。そこでぶつかれば、神様は「一度ぶつかればどのようになるか?」と思って……。そうして自力で克服するようになれば、神様は「は~、よいな」と言って待つのです。人と同じです。さあ、闘いもせずにおじけづいているのに、神様がその人を助けてくれるでしょうか? 世の中にそのような道理がどこにありますか?(笑い)ですから、善意の問題が起こしなさいということです。(拍手)
 
 レバレンド・ムーンがアメリカに来て、アメリカの人たちが200年かけて基盤を築き、裕福に暮らしているのに、手綱をかけてしきりに悪口を言うので、「私たちを戯弄(ぎろう)しているのではないか」と言っています。そうしているからといって、それは私がアメリカを破壊させるためではないのです。アメリカをかわいそうに思い、新しい道に導くためです。(歓声、拍手)
 
 そして、世の中が騒ぎ、この怨讐が大きいので闘わなければなりません。「神様! 私に力を下さり、闘うことができる勇気を下さい」と祈ってこそ、「うむうむ、分かっている」、このように通じるのであって、闘うこともせずに、「ああ! 神様、すべてやってください」と祈っても仕方がないというのです。前者のように祈祷してこそ、神様がもっと聞いてあげたいと思うのであって、祈祷だけして座っていて何ができるのですか。ですから、皆さんは間違いなく、「私はいくら苦労しても、間違いなくこの道を行く」というとき、神様がいくらテストして待ってみても間違いないと思うとき、その次にわあっと押してくださるのです。そうしてある段階を経ていき、「神様に祈祷しなければならない」と考えれば、神様がすぐに成し遂げてくださるのです。それを知らなければなりません。分かりますか?(「はい」)。
 
 祈祷するとき、祈祷する場所以上に、祈祷できる姿勢が必要だということを知らなければなりません。祈祷するよりも、その時間に人のために犠牲になり、人のために奉仕すれば、それがもっと貴いというのです。祈祷は、自分の精誠をすべて尽くしても力が足らないときにするのです。自分でできるのに祈祷が必要ですか。ですから、祈祷しようとすれば、神の国と神の義のためにしなさいというのです。世界のために祈祷し、神様のために祈祷するのです。そのような祈祷は、いつでも神様が祝福してくださるのです。
 
 さあ、皆さん、神様も祈祷するでしょうか? (「はい」)。それを考えてみてください。神様も祈祷するでしょうか?(笑い)神様も祈祷するというのです。皆さん、父母のことですが、父母が愛する子女に対して、どれほど心で「こうなればよいが」とつぶやきますか。それが祈祷だというのです。それは誰のためにするのですか?
 
 統一教会があれば、統一教会のレバレンド・ムーン、その人は何がどうでこうで……。統一教会がどうでこうで、そのように「うまくいかなければならない、うまくいかなければならない」とぶつぶつつぶやく、それがすべて祈祷なのです。祈祷がそうです。皆さんがみ旨を中心として切迫した立場で一人闘っていきながら、ひたすら「冒険してみよう」とつぶやいてみたのかというのです。それが祈祷なのです。
 
 祈祷をしている立場で必ず考えなければならないことは、「祈祷しながら行動しよう」と考えることです。祈祷してすべて成し遂げてくだされば行動しようとするのではなく、祈祷しながら行動しようと考えなければならないのです。それがどういうことか分かりますか?(「はい」)。そのようにする人は、間違いなく神様が共にいます。そのように祈祷しなければなりません。自分の力が及ばないとき、深刻に祈祷するのです。
 
 祈祷は必ず成し遂げられます。それが自分個人のためのものではなく、神様の義とみ旨に伴う祈祷は、必ず成し遂げられなければなりません。それが成し遂げられなければ、私たち人間がサタンを屈伏させることができないというのです。考えてみてください。6000年間、神様を泣かせてきたサタンを屈伏させることができるのかということです。できないのです。ですから、祈祷が必要なのです。祈祷が絶対に必要です。皆さんが祈祷するときは、どのくらい深刻でなければなりませんか? あらゆる準備をして祈祷しなければなりません、すべてのことを。二つの心ではなく、一つの心で。
 
 皆さん、未婚の男女がこれから結婚しなければならないというとき、自分が結婚を決定するのは深刻な問題です。私たち統一教会は、すべて先生がしてあげるのでそうではないですが、それを皆さんが決定すると考えてみてください。深刻な問題だというのです。それほど深刻なことはないのですが、それ以上に深刻でなければならないのです。それ以上に深刻な立場を求めていかなければなりません。そのような祈祷は必ず成し遂げられます。また、自分の愛する父母が息絶えようとする、そのような瞬間がどれほど深刻かというのです。それ以上にならなければなりません。ですから、夜通し祈祷しながらも眠ることができず、居眠りできない立場で祈祷しなければなりません。何の話か分かりますか?(「はい」)。そのような祈祷は必ず成し遂げられます。必ず神様が役事してくださるのです。
 
 10年前にそのような祈祷をしていれば、10年間、その祈祷を中心として願い、神様の前に約束したことを中心として、自分が実践していかなければなりません。そのような姿勢をもたなければならないのです。そのような姿勢をもって祈祷すれば、必ず成し遂げられます。かといって、祈祷が早く成し遂げられたと喜ぶのではなく、また成し遂げられるのが遅いと悲しんではいけないというのです。行けば行くほど、待てば待つほど、より大きな福を得て、より大きく成し遂げられるということです。
 
 

 祈祷はどのようにするのがよいのか

 
 さあ、私がここで神様のために祈祷するのは、このような世界のためです。こういうときは、ここに段階が多いのです。段階が多いいというのです。祈祷を成せば、ここから成してこのようにいくのではなく、このように入ってくることを知らなければなりません。ある人は、福がこのくらい来たのに、これを切ってしまうということです。(板書しながら語られる)そのような役事です。世界的な問題を祈祷すれば祈祷するほど……。今日の統一教会が世界のために祈祷すれば……。皆さんが一生懸命に精誠を尽くして伝道するとき、伝道できなくても、「伝道できない」と心配する必要がありません。そのようにしていけば、共産世界からすべて崩れていくのです。
 
 さあ、ここでこれがアベル圏であれば、これはカイン圏であり、カイン圏がアベルに向かって入ってくるようになっているということです。(板書しながら語られる)しかし、時間がかかるのです。ですから、皆さんが祈祷をするときは、一生ではなく、何千年後に成し遂げられることを今から祈祷するのです。先生はそのような祈祷をしているというのです。先生の一生でこのような祈祷を成し遂げてもらうのではなく、何千年まで引き延ばして成し遂げられるときは、その祈祷が成し遂げられるまで統一教会は滅びないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。
 
 ですから、粘り強い祈祷は絶対に必要なのです。そのような祈祷をする統一教会の群れが多ければ多いほど、全世界の運勢と福をすべてここから動かすことができます。祈祷するときは、涙と血と汗を流さなければなりません。それは根と同じであり、ここから咲いてくる花と同じです。イエス様もゲッセマネで祈祷するとき、血と汗を流しながら祈祷したでしょう? そのような深い祈祷です。その祈祷は10分の祈祷ではありません。1時間、2時間、10時間、24時間の祈祷を……。
 
 それでは、祈祷するとき、どのように祈祷するのがよいですか? どのような姿勢をするのがよいかというのです。できるだけひざまずいて祈祷するのが最もよいのです。この体は拘束しなければなりません。体の苦痛と不便を克服し、それ以上の深刻なものがなければならないということです。それ以上に深刻でなければならないのです。そうでこそ天の人になります。そうでこそ神様の前に行くのです。分かりますか? それで祈祷の必要性があるのです。
 
 イエス様も夜通し祈祷したのであり、過去に天の仕事をした人たちも、祈祷しなければ大きなことができなかったのです。神様のみ旨がいつ成し遂げられるか分からず、自分が祈祷して成し遂げられるか分からなくても、そのような祈祷の姿勢をもつことによって、待つ心ができなければなりません。皆さんは、祈祷をしておいてすべて忘れてしまうでしょう?(「いいえ」)。忘れてしまうというのです。先生は今、3次7年路程に対する最後の段階の祈祷をしています。一人でいるときは、静かに座って何もしていないようですが、それを考えているのです。ですから、祈祷がどれほど重要かということを皆さんは知らなければなりません。
(『文鮮明先生御言選集』 104-103~110 1979.4.15)
 
 
 

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