祈祷の重要性(1/3)
 
1979年4月15日
 
 

 私たちが信仰の道を行く目的

 
 人はだれしも、自分の望みを遂げることを願わない人はいません。それでは、その望みをどのように成就するのかというその鍵は、天にあるのではなく自分にあるのです。自分がこのことを成就するためには、自分ひとりの力でできる道と、協助を受けてできる道、二つの道があることを常に考えなければなりません。ですから、私の望みが大きければ大きいほど、そこに対する自分がするべき責任が大きいのであり、自分自身ができなければ、協助を受けなければならない力が比例的に大きくなることを、皆さんは考えなければなりません。
 
 皆さんが教育上、よく知っているように、小学校に入れば、小学校の課程を中心として卒業することが目的だというときは、その小学校を卒業するためには、先生と自分の努力が合わさらなければなりません。中学校も同じであり、高校も同じであり、大学も同じです。そのようなところで自分が願ったことを100パーセント完成させることは、とても難しいことです。
 
 ですから、100パーセント完成できる人の姿勢がどうあるべきかということを知らなければなりません。どのような姿勢をもたなければならないのでしょうか? そのようにしようとすれば、いつもそれについて考えなければならないのであって、他のことを考えていてはいけません。勉強なら勉強に対して全力を尽くさなければなりません。全力を集中させ、そこにあらゆるものを投入しなければならないのです。「あるときは遊びまわり、あるときは何々をして、あるときは友人と会わなければならない」、そのような考えは2次的なことです。
 
 このような観点から見るとき、私たちの信仰の道というものは何ですか? 神様の息子、娘になる道です。神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘の中でも、種類が多いのです。息子の中には養子もいて、親不孝者もいて、普通の人もいて、父母のために孝と誠を尽くす孝子もいて、さまざまな種類の息子がいるでしょう。このような観点から見るとき、真の息子、娘になるということは、とても難しいことです。
 
 真の息子、娘になろうとすれば、真の父母に対して、二つの心ではなく一つの心になり、あらゆる精誠を集中して父母と一つになり得る道をとっていかなければなりません。その道以外にはないというのです。世の中の父母ではなく、宇宙を創造された神様を父母として侍り、その息子、娘になるということを考えてみてください。それは簡単なことではありません。簡単なことではないというのです。皆さんが神様に対して、「天のお父様、天のお父様!」と呼んだからといって、「何だ」とすぐに答えるのではないのです。さあ、皆さんが天のお父様という考えを中心として、神様がいるのかいないのか分からない立場で、お父様の認識圏内に入っていくのはとても難しいのです。
 
 堕落とは何ですか? 神様から離れたことです。ですから、私たち人間は、神様との関係を結ぶことができない距離に立っているのです。私たちが今から神様を訪ねて入っていかなければなりません。例を挙げて言えば、世の中にもそのようなことがあるでしょう? 子どもが父母と別れて暮らしていて、その父母に会えば、父母に会ったにもかかわらず、その子どもが父母のことが分からないのです。そのような子どもと同じように、私たちもそのような父母と子女と同じ立場にいるということです。
 
 それでは、その方をどのようにして父として迎えることができるでしょうか? そのようにしようとすれば証拠が必要です。こうだからこうで、こうだからこうで、こうだからこうだという……。そして、自分としての証拠が必要であり、証人としての証拠が必要です。その父母を私が知っているとしても、父母の考えと子女の考えが互いに違うときには通じないというのです。
 
 ですから、どのようにしなければなりませんか? 父母が願うその願いを自分の願いとして引き継がなければなりません。言い換えれば、父母の願いが私の願いになり、私の願いが父母の願いにならなければならないのです。「願いは一つしかない」と言うことができなければなりません。
 
 それゆえ、父母様の行く道が私の行く道であり、父母様のすることが私のすることにならなければなりません。父母様が精誠を尽くせば精誠を尽くした分だけ、子女も父母と同じ立場で精誠を尽くさなければならないのです。そこからあらゆる父母が願うみ旨が私のみ旨として成就され得るのであり、その結果をもって互いに喜ぶことができるということです。成就したその願いをめぐって、私だけが喜ぶのではなく、父母様も喜ぶということです。
 
 そのようになれば、そのこと一つをもって互いの力になるのであり、互いの慰労になるのであり、互いの激励になり得るのです。そして、そのようにしていくことを1年継続し、2年継続し、一生の間継続し、その父母が行くとおりに永遠に継続していかなければなりません。
 

 神様が願われた創造理想世界

 
 このように考えてみるとき、今日の私たち信仰する人たちは、「神様の息子になる」と言いますが、神様の願いとは何でしょうか? 神様の願いが何かということを、私たちははっきりと知らなければなりません。神様の願いが何ですか? 神様の願いの中には、私たちが食べて、寝てという、そのような日常生活とは関連がありません。それはだれもが皆することです。聖書にあるではないですか。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章31~33節)とそのように定義が下されているのです。
 
 それでは、「神の国と神の義」とは何かということです。私たち統一教会で言えば、それは地上天国理想になるでしょう。創造理想世界です。神の国というのは、アメリカの中の国ではないというのです。神の国の中のアメリカです。また、義というものは、アメリカの中の義ではありません。神の義の中にあるアメリカの人たちの義にならなければなりません。アメリカとアメリカの人の義というものは2次的であって、1次的にはなり得ません。そのようなものが1次的になれば、何でも入ってしまうでしょう? 神の国と神の義の定義が2次的だとすれば、私たちの個人的な義と個人的な何かの願いというものは、何次の等級にも入ることができません。
 
 それでは、神の国と神の義があるとすれば、神の義がアメリカの国ならアメリカの国に背負われなければならず、アメリカの国はアメリカの家庭に背負われなければならず、アメリカの家庭はアメリカの人に背負われなければなりません。
 
 この丸いものがアメリカだとすれば、このようなものが民族になり、氏族になり、家庭になり、個人になります。小さいだけであって、形は同じということです。それで、これを描いておけば、これはここに入っていき、ここに入っていき、ここに入っていくのです。これを中央線に十字で描けばすべて同じです。どこにでもすべて通じます。合わせれば、それがずれないということです。これを大きく見れば、大きな国、小さな国、このようになり、このセンターを中心として一つになるのです。ですから、この軸にあらゆるものがぶらさがっています。(板書しながら語られる)そうすればよいのです。そのような論理こそが、ここに連結される個人から全体にまで関係を結ぶことができます。
 
 それでは、どのようにしなければなりませんか? 個人が世界を求めていこうとすれば、国を捨て、民族を捨て、家庭を捨てて行くのではありません。個人が世界を求めていこうとすれば、家庭を求め、氏族を求め、民族を求め、国家を求めて逆さまに上がっていかなければなりません。このように行かなければならないということです。
 
 これを逆さまに描いて、私が個人の立場でここに立っていれば、私にこのようなものが駆けつけてくるのです。心が引かれていきます。このような絵になるのです。(板書しながら語られる)したがって、私が行くところに家庭がついてきて、私が行くところに氏族がついてきて、民族がついてきて、国がついてきて、世界がついてきて、霊界がついてきて、全天宙がついてきて、神様がついてくるということです。機関車と同じです。
 
 今日のアメリカの若者たちはどうですか? アメリカはどうですか? アメリカは「世界は必要ない。アメリカが一番だ」と言うのですが、それは落第です。すでに神の国圏内からアメリカは脱落しているのです。神様が世界をかけ、神の国のみ旨を成し遂げようとする立場にいるなら、彼らは神様のみ旨の前に裏切り者の立場で反旗を掲げた人たちだ、このような結論が出てくるというのです。国民たちの中では、「ああ、そのようなことは知らない」、そのように言っています。
 
 アメリカで言えば、あらゆる人種が混ざっていますが、「ああ、私たち白人だけが必要であって、他の人は必要ない」と言います。それは、すでにそのくらい神の国と神の義の圏内から離脱させられていることを意味するのです。それは何かというと、人種圏をアメリカでつくっているということです。
 

 宇宙の根本は父子の関係

 
 ですから、問題はどこにあるのですか? (板書されたものを指しながら語られる)個人を中心としてこのような全体を連結させておけば、上から一つの大きな連結体になります。これを一つおけば、一つの円形になり得る中心をいつでも決定することができます。この宇宙全体がそのようにできる場を必要としていることを、皆さんは知らなければなりません。
 
 それでは、ここの核心は何ですか? 核心は父子関係です。家庭で言えば、父母を中心として子女が集まったところです。この家庭全体を中心として、この家庭自体が父母の立場に立ち、その周囲の家庭が一つになって子女の立場に立つとき、それが氏族になります。そのような観念を連結させなければなりません。
 
 さあ、会社のようなところで社長と言えば、社長はだれですか? 父母の立場です。従業員は何ですか? その会社を中心として、子女の立場に立っているのです。ですから、その従業員たちは、会社の社長のために働くのではないというのです。会社の社長はその従業員のために働くのであり、従業員たちは、「私たちの家のために働き、私たちの会社のために働く」、このような観念をもたなければなりません。では、国で言えば、国の大統領は何ですか? 国の父です。国の父だということです。それでは、国民は何ですか? 子女の立場だというのです。いつでも中心存在は父を代表します。父のような心をもった社長であれば真の社長であり、父のような心をもった大統領は真の大統領だという結論が出てくるのです。
 
 このような観点から見るとき、神の国の大統領は、神の国の父と同じですが、自分の父より下か上かというのです。そのようなときは、自分たちの父も大統領をだれよりも愛さなければなりません。自分を生んだ父が大統領を愛するとき、子女の自分よりもっと愛する神の国の父だという観念をもたなければならないのです。また、その父は、子女に対しても、親である自分を愛するよりも神の国の責任者をもっと愛することを願わなければならないということです。
 
 ですから、国のためには家庭を捨てていき、父母を捨てていっても正義なのです。国の大統領はどのようにしなければなりませんか? 世界が一つの国になれば、世界の大統領のためにそのような観念をもち、この世界は宇宙を創造された神様に対して、そのような観念をもたなければなりません。その連結的な内容は同じだということです。
 
 それでは、国のためになぜそうしなければならないのですか? 結局は、この個人から神様まで訪ねていくための一段階、一段階と同じです。そのようにしてこそ、神様にまで到達するので、不可避的に国の王を自分の父母よりも敬い、世界の主権者を自分よりも敬っていかなければならないという結論が出てくるということです。(板書されたものを指しながら語られる)ですから、会社なら会社自体が父子の因縁を中心として、より次元の高い国のために忠誠を尽くそうという会社は正しい会社だという結論が出てくるというのです。
 
 それでは、統一教会はどうですか? 統一教会も同じだということです。統一教会も父子の因縁ができ、父子関係で結ばれた者たちが、統一教会のために動くのではなく、国のために動くということです。さらには、世界のために動くという同様の観念をもたなければなりません。毎日のように先生は、皆さん統一教会の教会員たちに、「苦労して国のために生きなさい」と教えてあげるのであって、「統一教会のために生きなさい」とは教えません。
 
 このような観点から見るとき、統一教会が事実そのように行けば、統一教会は神の国のために生きる教会になり、神の国の義を立てるための教会になります。これを知らなければなりません。そうであってこそ、はしごを登るように上がっていくのです。そのようになる日には、氏族的なメシヤになり、民族的なメシヤになり、国家的なメシヤになり、世界的なメシヤとして橋をかけ、天宙的な神様と連結されるようになります。この中心がずれていますか、合っていますか? (「合っています」)。
 
 それで先生が昔、祈祷をするときですが、「この宇宙の根本は何ですか」と、深刻な立場でそのような祈祷をしたときがあったというのです。そのとき、答えは何だったかというと、「父子関係だ」というものでした。それが成立する日には、この宇宙は、一つの世界になるのであり、この世界は平和の世界になるのです。
 
 それでは、皆さんのような若い人たち同士はどのようになりますか? 若い人たち同士がどのように父子関係になりますか? 兄あるいは弟の関係になるのです。そのように考えなければなりません。姉か兄になり、弟妹になるのです。それでは、それがどのようになりますか? 父母と子女の因縁を中心として、そのように展開するのです。そのようになれば、父母はどのように考えますか? 父母が皆さん同士、弟が父母よりも兄をもっと愛するからといって、父母は嫉妬しないというのです。喜びます。父母が喜ぶということです。
 

 神様の息子、娘になる方法

 
 統一教会の皆さんは、先生を中心として、心情的に縦的紐帯をもって横的に連結させ、先生より皆さん同士がもっと愛することを先生は願うということです。神様もそれを願うのです。父母の願いは、愛を中心として子女同士、互いに父母よりも愛することです。それが真の息子、娘になる方法だというのです。それはどれほどすばらしいですか? そのようにできる人は、父母に最も近い人になります。そこに異議がありますか? そこに反対する人がいますか? (「いません」)。それは、法を知らず、何も知らなくても「イエス」と言うのであって、「ノー」と言う人はいません。分かりますか?
 
 それでは、統一教会で真の人はだれかというとき、先生のために忠誠を尽くし、先生を愛する人よりも、兄弟のために忠誠を尽くし、兄弟を愛する人が真の人です。これを知らなければなりません。それは、個人の父母もそうですが、一つの会社の社長もそうであり、国の大統領もそうでなければなりません。その原則はすべて同じです。世界の大統領もそのように考え、神様もやはりそのように考えるのは同じだということです。それが違うと思いますか?(「思いません」)。
 
 それがすべて同じだと言うなら、皆さん全体が歓迎しますか、歓迎しませんか? 「ああ、これは私たちの父母ならそうだが、会社や国はそれとは関係ない」と言うことができますか? それが許されますか?(「いいえ」)。それは簡単なことです。どれほど簡単でしょうか。
 
 さあ、もう分かったでしょう。神様の息子、娘になる方法は何かというとき、あらゆる分野で、神様の心情的紐帯を私が誘発させることができ、そこで心情的紐帯を結ぶことができ、統一させることができる、そのような自分にならなければならないことを、今分かったというのです。
 
 さあ、それでは、このような小さな個人を中心として、このように考えるようになれば、これがここに来たからといって、他の国の人ですか、同じ国の人ですか?(板書されたものを指しながら語られる)(「同じ国の人です」)。木で言えば、ポプラの木ならポプラの木であるのと同じです。違うことはありえません。これを少しはがしても同じであり、枝が小さくても同じです。これと同じように、どこに行っても同じ種類の1人の人間のモデルが形成されます。それでは、「私はその父子関係は嫌だ! それ以上のものがどこかにあればよいのに…」と思うなら、探してみなさいというのです。
 
 そのように見るとき、神の国がどのように形成されるのかというと、このような原則によって形成されるのです。神の国と神の義がこのような原則を中心として関係を結んで形成される、このような観念がきちんと入ってくるというのです。その関係を平面的に言えば、主体と対象の関係です。それは何かというと、私が主体だとすれば、これは客体だということです。ですから、この父子関係の、主体と対象の関係がどれほど価値があり、どれほど重要ですか。
 
 ですから、自分が仕事をするとしても、その仕事自体が「一つは主体であり対象だ」という因縁を中心として、愛を中心として連結されていくと考えてみてください。勉強するのも、自分が貴いほど勉強が貴いのです。自分が文字を読むときも、「ああ、A、B、C、この文字はきょうはすべて愛らしい」、このように心が……。それは全体がそうでなければなりません。人に対しても、動物に対しても、万物世界に対しても、このような因縁が連結されるということです。
 
 ですから、この世界のあらゆる万象を神様の愛、父の愛を体恤して照らしてみるときは、すべて通じるというのです。すべてが吸収されます。そこでは幸福圏が広がり、和動が広がり、統一圏が広がります。考えてみれば、神様も今、先生のこと以外は考えないだろうと私は考えているのです。(笑い・拍手)
 
 皆さんはもう分かったでしょう。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかということを思いわずらうことなく、神様が願う神の国と神の義とは何かということが分かったというのです。もう神の国と神の義が何か分かったということです。それが食べて、飲んで、生きることより劣るのかというのです。それは愛です、愛。神様の愛が、宇宙を動かすことのできる愛が宿っていて、その愛以上のものはないのですから、「これ(衣食住)をすべて無視してしまっても、その愛の世界を求めていきなさい」と神様は勧告したというのです。(板書されがものを指しながら語られる)そのような心をもって生きなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 104-95~101 1979.4.15)
 

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