【今回深掘りする原理のみ言】
アダムは神のみ言を信じないで堕落してしまったので、「信仰基台」をつくることができなかった。したがって、彼はみ言の「完成実体」となることができなかったので、創造目的を達成することができなかったのである。それゆえに、堕落人間が創造目的を成就し得る基準を復帰するためには、まず初めに、人間始祖が立てることのできなかった、その「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。(『原理講論』p278)

 

神様とメシヤに対する信仰をもっているからといって、その人に「信仰基台」が立っているとは言えませんよね。

それでは、「信仰」と「信仰基台」の違いとは何でしょうか?

「信仰基台」というのは「信仰」+「基台」ですから、「基台」とは何かを理解することによって、「信仰」と「信仰基台」の違いが分かりそうですね。

また、「統一原理」には、四位基台、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台など、「基台」という言葉を含む概念がたくさんあります。

それらはすべて「統一原理」の根幹をなす重要な概念なので、「基台」について理解することは、「統一原理」のより深い理解につながることになります。

今回は、「信仰」と「信仰基台」の違いについて、深掘りしてみたいと思います。

「信仰」について

最初に、「信仰基台」の「信仰」という言葉について深掘りしてみましょう。

「信仰」の意味

「信仰」という言葉を国語辞典で調べてみると、次の二つの意味があることが分かります。

1 神や仏などを信じとうとぶこと。誠心を捧げて信ずること。
2 一般的に、信頼して疑わないこと。

大概の場合は、1の意味で使われることが多いのですが、「学歴信仰」のように、2の意味で使われることもあります。

韓国語の『原理講論』を確認すると…

次に、この記事の冒頭で紹介した『原理講論』の一節と同じ箇所を、韓国語版の『原理講論』から引用してみましょう。

아담은 하나님의 말씀을 믿지 않고 타락하였기 때문에 ‘믿음의 기대’를 세우지 못하게 되었고, 따라서 그는 말씀의 완성실체가 되지 못하여 창조목적을 달성할 수 없게 되었던 것이다. 그러므로 타락인간이 창조목적을 성취할 수 있는 기준을 복귀하기 위하여서는, 먼저 인간조상이 세우지 못하였던 그 ‘믿음의 기대’를 탕감복귀(蕩減復歸)하지 않으면 아니 된다.(韓国語版『原理講論』p248~9)

 

日本語の「信仰基台」を韓国語にそのまま翻訳すれば、「신앙기대(シナンキデ)」になるはずですが、韓国語版の『原理講論』に「신앙기대」という言葉は一度も出てきません。

韓国語版の『原理講論』では、日本語の「信仰基台」にあたる箇所は、上記のようにすべて「믿음의 기대(ミドュメキデ)」になっています。

一方で、日本語の「実体基台」は、韓国語でもそのまま「실체기대(シルチェキデ)」になっています。

「믿음」と「신앙」のニュアンスの違い

それでは、韓国語で「믿음(ミドュム)」と「신앙(シナン)」では、意味やニュアンスに違いがあるのか、辞書を調べて確認してみましょう。

「신앙」はそのまま「信仰」という意味しかありませんでしたが、「믿음」は日本語の「信仰」と同様に、次の二つの意味がありました。

믿음〔名詞〕
1 信じる心,信頼
2 信心,信仰

(『朝鮮語辞典』小学館より)

日本語の「信仰」という言葉と比べてみると、意味はほぼ同じですが、順序に違いがありますね。

日本語の「信仰」は「神や仏などを信じとうとぶこと」が先ですが、「믿음」は「信じる心,信頼」が先です。

ちなみに、「믿음」は「믿다」という動詞の名詞形なので、「믿다」の意味も確認しておきましょう。

믿다〔他動詞〕
1 信じる,本当だと思って疑わない
2 信頼する,頼る,当てにする
3 信仰する

(『朝鮮語辞典』小学館より)

やはり「믿다」も、「信じる、信頼する」が先で、「信仰する」があとになっています。

辞書というのは、ある言葉に複数の意味がある場合、最も一般的な意味や最も基本的な意味から順番に記載されるようになっています。

以上のことを考慮に入れると、「믿음」という言葉は「신앙」と比べて、「信仰」の意味よりも、「信じて疑わない」や「信頼」といった意味の方が強いということになります。

もし韓国語の「믿음의 기대」を日本語に直訳するとすれば、「信じる心の基台」とか「信頼の基台」になるでしょう。

韓国語の「믿음의 기대」の意味やニュアンスが分かったところで、次に「基台」について考えてみましょう。

「基台」について

前文でお伝えしたように、「統一原理」には「基台」という言葉が頻繁に使われています。

したがって、「基台」について理解することは、「統一原理」のより深い理解につながります。

しかし、残念ながら、『原理講論』にも文鮮明先生のみ言集にも、今のところ「基台」とは何かについて明確に語られたみ言はみつかっていません。

ただ、「基台」について理解を深めることができるみ言はいくつかありますので、紹介します。

相対基準と相対基台

まずは、相対基準と相対基台について記述されている箇所を『原理講論』から引用します。

 神はそれ自体の内に永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。
 また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである。(『原理講論』p51)

 

この『原理講論』に記述されている内容を整理すると、万有原力によって相対基準が結ばれたあと、主体と対象が授受作用して初めて相対基台ができるとなっています。

万有原力から四位基台ができる過程を段階的に整理すると次のようになります。

万有原力 ⇒ 相対基準 ⇒ 授受作用 ⇒ 相対基台 ⇒ 存在基台 ⇒ 四位基台

このことから、主体と対象が授受作用しないと「基台」というものができないことが分かります。

この相対基準から相対基台について、文鮮明先生は次のように説明されています。

相対基準から相対基台が展開します。相対基準というのは、ただ基準が結ばれているだけですが、相対基台といえば、既に定着しているという意味になります。相対基準が作用し、中央の中心を中心として定着すれば、相対基台が展開するのです。相対基準だけでは位置が定まりません。移動してしまうこともあるのです。引っ張られやすいというのです。(『文鮮明先生御言選集』208-8 1990.11.13)

 

それでは、次に、授受作用するとどうして定着して相対基台ができるのかを確認してみましょう。

授受作用によって生じる中心点

文鮮明先生は、主体と対象が授受作用するとどうなるかについて、次のようにも語られています。

授受作用をすれば中心点が生じます。この中心が神様の臨在される所です。一つになった基準、この中心がそこです。創造原則がそのようになっているので、授受作用をして中心点が現れる所で、神様の摂理の道が開かれるのです。(『文鮮明先生御言選集』205-27 1990.7.7)

 

主体と対象が授受作用をすると中心点が生じるので、その中心点を中心として定着することができる、ということですね。

主体と対象の授受作用というのは回転運動を意味しているので、回転しているコマをイメージすると分かりやすいかもしれません。

回転していないコマは倒れたままですが、勢いよく回すと中心軸が生じて、自力で垂直に立つようになります。

横的な授受から縦的な授受へ

『原理講論』に「良く授け良く受け」(p50)とあるように、授受作用とは、主体と対象がお互いにために生きることを意味しています。

文鮮明先生は、このことについて次のように説明されています。

主体と対象がお互いにために生きることによって相対的基盤ができます。私が主体であれば、対象のために生きることによって相対圏ができ、理想的な愛の相対基台ができるのです。相対基準を越えて相対基台ができ、お互いにために生きることが、お互いの利益となり得る世界に発展するというのです。(『文鮮明先生御言選集』180-258 1988.8.22)

 

さらに、『原理講論』では、横的な授受から縦的な授受が復帰されると説明されています。

キリスト教は、愛と犠牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復させることによって、神との縦的な授受の回路を復帰させようとする愛の宗教である。それゆえに、イエスの教訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであったのである。例を挙げれば、イエスは、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」るであろう(マタイ七・1、2)と言われた。(『原理講論』p53)

 

イエス様ご自身も、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20 )と語られています。

以上のことから、「基台」というものは、主体と対象が万有原力によって相対基準を結び、授受作用することによってできるものだということが分かります。

「信仰」と「信仰基台」の違いとは?

そうだとすれば、「信仰基台」とは、どのような過程を通してできるものなのでしょうか?

まず、私が神様に対する信仰を中心として、ある一定の期間にわたって条件を実行します。

そのように心と体が神様に対する信仰を中心として授受作用をすると、そこに中心点が生じて心と体の相対基台ができます。

するとそこに神様が臨在されるようになり、神様にとって私の心と体が存在基台となって、神様を中心とする四位基台ができるのです。

ですから、信仰とは私が心の中で神様を信じて仰ぐことだけですが、「信仰基台」は、私の心と体の授受作用によってできた相対基台に神様をお迎えしていることと言うことができますね。

「믿음의 기대」から見た「信仰」と「信仰基台」の違い

それでは、次に韓国語の「믿음의 기대」の意味から、「信仰」と「信仰基台」の違いを考えてみましょう。

先ほど、「믿음의 기대」を直訳すると「信じる心の基台」とか「信頼の基台」になると言いました。

何かの「基台」ができるには、相対基準を結んだ主体と対象が授受作用しないといけません。

ですから、「信仰基台」とは、神様と私の間にお互いに信頼するという相対基準が結ばれ授受作用してはじめて成立するもの、と言うこともできるのではないでしょうか?

つまり、自分が一方的に神様を信じるのは「信仰」ですが、自分が神様を信じ、神様も自分を信じてくださるのが「信仰基台」だということです。

この神様が自分を信じてくださるということについて、文鮮明先生のみ言を確認してみましょう。

アベルになろうとすれば、第一に、神様のために生きる位置、神様の愛を受ける位置に行かなければなりません。その位置はアダムの位置なのですが、アダムの位置に行こうとすれば、神様の愛を継続して受けることができる人にならなければならないのです。ですから、神様が絶対に信じ、継続して愛することができる位置に行かなければ、アベルの位置に立つことができません。神様が自分を絶対に信じてくださるようにしようとするのですから、最も貴いものを祭物として捧げなければなりません。自分の体を自分の命の代わりに捧げて犠牲にしなければならないのです。それが「信仰基台」です。(『文鮮明先生御言選集』56-112 1972.5.14)

 

このように、「信仰基台」を復帰することとは、神様が私に対して「この息子(娘)は私が信頼できる子女である」と思ってくださる立場に復帰することなのです。

神様が信頼できる立場に立つのが「信仰基台」

「あなたに信仰基台がありますか?」という問いは、言い換えると、「あなたは神様が信頼できる人になっていますか?」ということになります。

では、神様が私を信頼してくださっているかどうか、どのように判断するのでしょうか?

それは、まず「40数サタン分立期間」を立てた上でみ言を与えられているかどうかで判断することができます。

そして次に、「実体基台」のアベルとして、自分にとって誰が長子権復帰すべきカインなのかが明確になっているかどうかで判断することができます。

もし神様があなたを信頼していらっしゃれば、サタンに奪われてはいけないみ言をあなたに託し、復帰したいカインをあなたの元に送られるはずです。

詳しくは、『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】③「信仰基台」成立の判断基準の記事をご覧ください。

 

以上、「統一原理」から見た「信仰」と「信仰基台」の違いについて深掘りしてみました。