【今回深掘りする原理のみ言】
新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。(『原理講論』p31)

 

私たち人間の立場から見たとき、「統一原理」とは神様の心情と事情を教えてくれるものです。

今回は、神様の心情と事情とはどのようなもので、なぜ神様の心情と事情を知らなければならないのか、どうすればそれが分かるのかについて深掘りしたみたいと思います。

【上編】では、神様の心情を知らなければならない理由と神様の事情とは何かについて解説します。

なぜ神様の心情を知らなければならないのか?

最初に、私たちが神様の心情を知らなければならない理由を「統一原理」の観点から考えてみることにしましょう。

(1)個体目的の観点から

神様が人間に下さった最初の祝福「生めよ」を「統一原理」では「個性完成」としていますが、この「個性完成」について『原理講論』には次のように説明されています。

 人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通して、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志の通り生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである(マタイ七・21)。
 それ故に、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。(『原理講論』p134)

 

このように、もともと人間は神様の心情を体恤できるように創造されていますし、それを完全にできるようになるのが「個性完成」です。

そして、絶対者の神様が創造された人間も、永遠性と絶対性をもたなければならないので、個性を完成した人間は絶対に堕落できません。

それで、『原理講論』のp67には、「個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない」と記述されています。

ですから、人間は神様の心情を完全に体恤できてはじめて、神様の永遠の喜びの対象になることができるのです。

さらに、第二祝福の「子女繁殖」と第三祝福の「万物主管」も、神様の心情を体恤できなければ不可能だということが次の『原理講論』の記述によっても理解することができます。

 神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。
 このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。(『原理講論』p80~1) 内的主管性というのは、心情的主管性を意味する。すなわち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。
 このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。(『原理講論』p165)

 

(2)全体目的の観点から

次に全体目的の観点から神様の心情を知らなければならない理由を考えてみることにしましょう。

まず、「統一原理」が目指す理想世界とはどのようなものなのかを確認しておきます。

真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体はすなわち神であられるがゆえに、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。(『原理講論』p33)

天国はちょうど、個性を完成した一人の人間のような世界である。人間において、その頭脳の縦的な命令により、四肢五体が互いに横的な関係をもって活動するように、その社会も神からの縦的な命令によって、互いに横的な紐帯を結んで生活するようになっているのである。(『原理講論』p135~6)

 

このような世界では、一人ひとりが神様の心情を体恤して生きているので、神様が悲しまれるようなことは絶対にできないのです。

人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。(『原理講論』p33~4)

このような社会においては、ある一人の人間が苦痛を受けるとき、それを見つめて共に悲しむ神の心情を、社会全体がそのまま体恤するようになるから、隣人を害するような行為はできなくなるのである。(『原理講論』p136)

 

神様を中心とする創造本然の世界では、ある人の悲しみや苦痛を社会全体が自分のものとして感じるようになっています。

今私たちが生きている世界にありとあらゆる悲惨な出来事が起きているのは、人間が堕落したことによって神様の心情を体恤できくなってしまったからだと言えます。

善悪二元論のように、もともと悪が存在し、善と悪の闘争が最初からあったからではないのです。

(3)救いの観点から

人間が堕落して神様の心情が分からなくなってしまったことがすべての不幸の始まりだとすれば、その状態から創造本然の立場に復帰するためには、神様の心情を知ることが鍵になります。

 最初に人間始祖は、サタンの誘惑の言葉に引きずられていったことにより、神に対する心情を失うようになった。このようにして人間は、内的な霊的堕落と外的な肉的堕落によりサタンの血統を受け継いだのである。
 ゆえに復帰摂理は、堕落人間が神の命のみ言により、神に対する心情を復帰して霊肉共に救いを受け、神の血統を再び受け継いで完成されるのである。(『原理講論』p557)

 

私たちが創造本然の立場に復帰するには、どうしても神様の心情を知り、自分自身の中に神様に対する心情を復帰しなければなりません。

ところが、「堕落人間は、神のみ旨とその心情を知ることができない。たとえ知ったとしても、それはごく部分的なものにすぎない」(『原理講論』p261)という問題があるのです。

そこで、神様が送ってくださるのがメシヤであり、真の父母なのです。

その方は、「神のみ旨を完全に知っておられるとともに、その心情をも完全に体恤した立場において生活しておられる」(『原理講論』p261)方です。

そして、『原理講論』のp280に「神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて完成実体となることができる」とあります。

神様の心情を中心としてメシヤと一つになることこそ、私たちが創造本然の立場に復帰できる唯一の道なのです。

復帰歴史に見る心情復帰の摂理

(1)心情の基台によって召命された中心人物たち

心情的には一時も早く堕落した人間たちを救いたい神様であっても、原理原則の神様でもあるので、復帰摂理も創造原理に従って次のように展開されます。

神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一から始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。(『原理講論』p246)

 

そして、この中心人物を予定して召命されるときにも、その条件として心情の基台が必要です。その例を『原理講論』から引用してみましょう。

神はアベルが天に対して忠誠を尽くした、その心情の基台の上に、その身代わりとしてセツを立てられたのである(創四・25)。(『原理講論』p302)

ノアは、既にアベルが「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげて、天に対し忠誠を尽くした、その心情の基台の上で呼ばれた(『原理講論』p304)

ノアが天に対して忠誠を尽くしたその心情の基台の上で、神はアブラハムを召命なさり、その家庭を中心とする復帰摂理を、再び行われるようになった。(『原理講論』p315)

 

以上のように、復帰摂理の中心人物を召命するときにも、過去に立てられた心情の基台を条件として召命されるのです。

今私たちが自分の氏族の中心人物として「統一原理」と出会い、メシヤと出会っているとすれば、それは心情の基台を復帰した先祖の功労があったからと言えるでしょう。

(2)ノア家庭とモーセ路程に見る心情復帰摂理

さきほど、「神の心情を中心としてメシヤと一体」(『原理講論』p280)にならなければ堕落人間は完成実体になれないとありましたが、メシヤを迎える前に立てる信仰基台と実体基台の場合も同様です。

信仰基台復帰の例としてノアとその息子ハムの一体化の摂理を、実体基台復帰の例としてモーセとイスラエル民族の一体化の摂理を見てみましょう。

【信仰基台における心情復帰摂理】
ハムも、神と同じ立場から、神と同じ心情をもって、何ら恥ずかしがることなくノアと対したならば、ノアと一体不可分のこの摂理の中で、罪を犯す前、恥ずかしさを知らなかったアダムの家庭の立場に復帰する蕩減条件を立てることができたはずなのである。(『原理講論』p311)【実体基台における心情復帰摂理】
 モーセは、自分の同胞が、エジプト人によって虐待されるのを目撃し、火のように燃えあがる同胞愛を抑えることができず、そのエジプト人を打ち殺してしまったのである(出エ二・12)。事実これは、神が御自分の民の惨状を御覧になり(出エ三・7)、憤懣やるかたない御心情を表示されたものでもあった。
 それゆえに、このようなモーセを中心として、イスラエル民族が一つになるかならないかということは、彼らがモーセに従って砂漠を横断するカナンの復帰路程を、成功裏に出発できるか否かを決定する重大な問題であったのである。(中略)
 モーセの、このような行動を目撃していたイスラエル民族が、神と同じ心情をもって、モーセの愛国心に感動し、彼を心から尊敬し、心から信じたならば、彼らはモーセを中心として、神の導きにより、紅海を渡ったりシナイの荒野を巡るようなことをせずに、すぐペリシテの方へ行く近道を通ってカナンの土地に入り、「実体基台」をつくるはずであった。(『原理講論』p357)

 

以上のように、人間の堕落によって神様に対する心情が失われてしまったので、これを復帰してきたのが今までの人類歴史です。

そして、人間は自力で神様の心情を完全に体恤することはできないため、神様はメシヤを送られ、そのメシヤと神様の心情を中心として一体化しなければならないのが私たちの立場です。

「統一原理」の観点から見たとき、自分が成長しているかどうか、復帰が進んでいるかどうかの基準は、この神様に対する心情をどれだけ体恤できているかにある、ということになります。

それでは、次に神様の事情とは何かについて考えてみることにしましょう。

神様にとっての事情とは何か?

神様を信じられない人たちが抱く共通の疑問点があります。それは次のような問題です。

完全無欠であるはずの神が、いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され、全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか。また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか(『原理講論』p35)

 

こういった問題に対して今まで宗教が明確な解答を提示できなかったことから、「このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうか」(『原理講論』p26)と考える人たちが出てきたわけです。

それでは、なぜ神様は人間の堕落を止められなかったのか、またどうしてこの世界の悪を野放しにされたままなのかについて、神様の事情という観点から考察してみましょう。

(1)人間の堕落を止められなかった神様の事情

神様が人間の堕落を止められなかった理由は、人間が完成したのちに初めて神様が直接主管するという創造原理があったからです。

 人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。
 それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。(『原理講論』p129)

 

文鮮明先生は、神様が人間の堕落を止めることができなかった理由は人間に責任分担があったからだと語られています。

もしこの責任分担がなかったならば、神様は、いつでも主管なさることができるのです。堕落するとき、「おい、そのようにしてはいけない」と言うことができますが、人間の責任分担というものがあって神様が干渉できない位置にいたので、人間が堕落しても、サタンの活動を防止できなかったという事実を、皆さんは知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』87-120 1976.5.23)

 

『原理講論』のp243に「み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる九五パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき五パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである」とあります。

どうして神様はこのような堕落するかもしれない危険性のある責任分担の原理を定められ、それを人間に与えられたのでしょうか?

『原理講論』のp249ではその理由を「神が人間に対して、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための条件として、人間の責任分担を立てられた」と書かれています。

この問題について文鮮明先生は次のように語られています。

 なぜ責任分担を与えたのでしょうか。それは、人間に無限で高貴な価値を賦与するためであり、神様の創造の偉業に加担させるために与えたのです。もし人間に責任分担を賦与していなければ、人間は神様の愛に相対できる対象の位置に立つことができません。神様が100パーセントつくってあげてはいけないのです。
 95パーセントは神様がつくり、5パーセントは人間自身が責任を持つのです。そうしてこそ、100パーセントを満たすにおいて、協力者として同等の位置に立つことができるのです。そうすることによって、絶対的な主体である神様の前に、堂々と相対的な資格を備えた位置で愛を授け受けできるのです。このようにして愛の理想を形成することができます。
 責任分担がなければ、私たち自体では、神様の愛の理想を対等な位置で受けるにふさわしい威信を立てることができません。威信を立てることができないというのです。ですから、神様は、人間に神様の愛を受けることができる威信を立ててあげるために責任分担を設定されたのです。(『文鮮明先生御言選集』143-77 1986.3.16)

 

『原理講論』のp576に「神は自ら立てられた法則を、自らが無視するという立場に立たれることはできない」とあるように、神様が一度決められた原理は絶対的で永遠のものですから、神様ご自身もそれを守らなければなりません。

 真でいらっしゃる神様が、「私はこのようにする」と語られたのなら、そのようにしなければなりません。そのような神様が本来、「堕落しなさい」として人間をつくったのではないのです。堕落してはいけないようにつくりました。そのような人間が堕落したので、神様が「このようにする」と言ったことができなくなったのです。
 誰のためにできなくなったのですか。神様のためにできなくなったのではなく、人間のためにできなくなりました。人間の何のためにできなくなったのでしょうか。不信のためにできなくなったのです。信じられなくなったためにできなかったというのです。(『文鮮明先生御言選集』57-289 1972.6.5)

 

神様が人間を最も愛するための条件として定めた人間の責任分担という原理が、神様が人間の堕落を止められなかった事情になってしまったのです。

(2)人間の復帰における神様の事情

真の父母としておられる神様は、子女である人間に対して、本来ならご自身のありったけの愛を与えたいはずです。

ところが、人間が堕落してしまうことによって、それができなくなってしまいました。

その理由について『原理講論』では「モーセ路程が見せてくれた教訓」で次のように説明しています。

そもそもサタンは、堕落を条件として人間に対応するようになったのであるから、神も、何らの条件なくして人間に恩賜を賜ることはできない。なぜなら、そうしないと、サタンが訴えるからである。(『原理講論』p402)

 

サタンが「ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ一・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしている」(『原理講論』p116)この世界では、人間自身が何かの条件を立てなければ、神様が人間を愛することはできないのです。

 救援摂理の恵沢を受けるべき人間は、神様のためにどれほど精誠を尽くさなければならないのでしょうか。人間もやはり、神様に相対しようとするたびに、サタンがそばで讒訴するので、神様の前に立てる僕になるためには、何かの条件を立てなければ、立つことができないのです。(中略)
 このような条件が成立しなければ、救援摂理歴史を立てることはできず、救援摂理歴史を立てなければ、新しい歴史の出発をすることはできず、摂理を発展させることができないのです。これが摂理観の立場から見た神様の事情だということを、皆さんは知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』17-231 1967.1.29)

 

神様がその創造の権能によって一時に堕落した人間を救うことができない理由は、サタンが人間を主管しているからであり、人間自身が自ら条件を立てなければならないという原理があるからです。

このように、神様が人間を子女として愛するがゆえに定められた創造原理、とくに責任分担の原理が、人間の堕落によってそのまま神様の事情になってしまったのです。

 

【中篇】につづく

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