【今回深掘りする原理のみ言】
我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある。(『原理講論』p191)

 

今回は、み言と「統一原理」を通して、神霊と真理について深掘りしてみたいと思います。

【前編】では、神霊とは何か、真理とは何かを明確にし、その神霊と真理の関係性を「統一原理」的に考察していきます。

そして、その関係性が人間始祖の堕落後、どのようになったのかについても解説します。

神霊とは何か?

(1)み言から見た神霊

第3イスラエルとして1954年5月1日に設立された「世界基督教統一神霊協会」が、サタン分立の40年路程を越えた日、文鮮明先生は神霊について次のように語られました。

神霊とは何ですか。一時的に配分された霊力や霊的な作用を意味するものではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和、共鳴を起こし得る神様の愛の力をいうのです。(『文鮮明先生御言選集』260-135 1994.5.1)

 

神霊とは「神様の愛の力」であるとされ、これを中心として天と地、心と体、人と人、人と万物など、堕落によって分断されたものが調和、統一されるというわけです。

(2)原理から見た神霊の働きと作用

それでは次に、神様の愛の力である神霊にはどんな働きがあり、どのように作用するのかについて『原理講論』で確認してみましょう。

1霊人体に対する働き

 人間は、堕落によって無知に陥り、神を知ることができないようになったので、その心情も分からなくなってしまった。それゆえに、人間の意志はこの無知によって、神が喜ばれる方向を取ることができなくなってしまったのである。
 しかし、堕落人間においては、復帰摂理の時代的恩恵により、神霊(内的な知)と真理(外的な知)とが明らかになるにつれて、創造目的を指向する本心の自由を求める心情が、復帰されてくるようになり、それによって、神に対する心情も漸次復帰され、そのみ旨に従って生きようとする意志も高まるのである。(『原理講論』p128)

 

人間が神霊に接することによってその心霊が明るくなり、それによって神様の心情とそのみ旨が分かるようになります。

ですから、「祈りをもって神霊的なものを感得しうる信徒達は、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができる」(『原理講論』p174)のです。

2肉身に対する働き

人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。(『原理講論』p86)

 

このように、神霊は霊人体を通して生霊要素として肉身に伝達され、その愛の力によって肉身の健康を向上させます。

「愛は人間の幸福と命の源泉」(『原理講論』p113)と言う理由もここにあります。

 

以上のような霊人体と肉身に対する神霊の働きは、『原理講論』の「善神の業と悪神の業」のところでも次のように説明されています。

善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。(『原理講論』p120)

 

この「善神の業」とは、正に神霊の働きによってなされるものなのです。

真理とは何か?

(1)み言から見た真理

真理について文鮮明先生は次のように語られています。

真理とは、世俗的な真理ではなく、神様の愛のみ言をいいます。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して啓示として地上に伝えられます。神様の真理は絶対真理です。絶対真理は万能キーのようなもので、この真理を適用すれば、いかなる難問題も解けるようになります。(『文鮮明先生御言選集』135-347 1985.12.16)

 

神霊が「神様の愛の力」であるのに対して、真理とは「神様の愛のみ言」であると説明されています。

(2)原理から見た真理

生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。(『原理講論』p86~7)

 

生心というのは「神が臨在される霊人体の中心部分」(『原理講論』p86)のことで、真理を通してこの生心が求めるものを知ることができるということです。

神霊と真理の関係性

(1)神霊が主体、真理が対象

神霊と真理の関係性について、文鮮明先生は「愛は人間の幸福と命の源泉」(『原理講論』p113)という観点から次のように説明されています。

 私たちはどこで幸福を感じるのでしょうか。真理面で感じる幸福は一方向的です。それはなぜ一方向的なのでしょうか。
 霊と肉、神霊と真理について考えてみると、どちらが主体ですか。神霊が主体であり真理は相対です。相対的ということは一方向的ということです。真理を通して感じるものは変わります。しかし、神霊は変わりません。中心的であり、四方性を備えているので、変わらないのです。
 それでは、どちらの面を通して感じる幸福が貴いのでしょうか。真理を通して感じるものは一方向的なので変わります。長く続かないということです。しかし、神霊を通して感じるものは中心的なので長く続きます。中心が二つになることはあり得ません。
 真理は神霊に対して相対的立場であり、神霊は主体的立場です。主体とは中心の位置を意味するので、中心が二つ存在することはあり得ず、一つだというのです。
 中心というのは四方と向き合える立場なので、その主体的中心的立場の神霊を通した喜びというものは、永遠と連結されるのです。したがって、霊的な体験を通して感じたその喜びは、一生の間忘れることがありません。(『文鮮明先生御言選集』76-137 1975.2.2)

 

このように、神霊は主体で中心の立場、真理は神霊に対して対象で横的な立場になるということです。

これを先ほど解説した神霊と真理の働きから整理すると、次のようになります。

人間の霊人体が神霊に接することによって神様の心情を知り、そのみ旨に従って生きようとする意欲が高まります。

そして、真理によってその具体的な方向性を理解し、そのとおりに肉身で行動することができれば、霊人体と肉身の間で生霊要素と生力要素がよく授受作用するようになります。

神霊、すなわち神様の愛の力は、生霊要素として肉身に伝達されるのですから、私たちが真理に従って生きることで、肉身に神様の愛の力が満たされるようになるわけです。

これを例えて表現すると、神霊はエネルギー、そして真理はそのエネルギーの通り道と言うことができます。

(2)神霊と内的真理と外的真理

そして、「統一原理」では、真理には内的真理と外的真理があるとしています。

 堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ四・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開してゆくのである。更に、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。
 従って知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それ故に、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。(『原理講論』p168)

 

神霊と内的真理と外的真理の関係を四位基台で整理すると、中心が神霊、主体が内的真理、対象が外的真理、そして合性体の位置にくるのが「神様と被造世界に対する完全な認識」ということになります。

神霊と真理で礼拝しなければならない理由

冒頭のみ言で、神霊と真理で礼拝しなければならない理由は「正しい信仰をもつため」(『原理講論』p191)とあるのですが、このことについてもう少し考察してみましょう。

(1)創造原理的な理由-人間の霊肉の認識過程

「統一原理」では、霊人体(心)と肉身(体)の二性性相で構成されている人間が何かを認識する過程には、霊的過程と肉的過程があるとしています。

 神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。従って認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。
 人間は霊人体と肉身が一つになってはじめて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、はじめて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識を持つようになるのである。(『原理講論』p168~9)

 

このように、神霊と真理で礼拝しなければならないのは、人間が神様の心情とそのみ旨、そして被造世界を完全に認識するためです。

(2)復帰原理的な理由-堕落人間の神霊に対する感性

人間には神霊に対する感性がありましたが、堕落することによって「神に対する内的な感性を備えていない」(『原理講論』p83)万物よりも劣る立場に落ちてしまいました。

その結果、人間は内的なものよりも外的なものに対する欲求や欲望が強くなったのですが、神霊と真理についても同様です。

つまり、主体である神霊よりも、対象である真理により大きな関心をもつようになってしまったのです。

復帰摂理路程を歩む私たちにとってこの問題はとても重要で、『原理講論』では堕落人間の復帰が難しい理由を次のように説明しています。

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、たいていは真理面に重きを置いて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。従って、このような人間達は、古い時代の真理観に執着しているが故に、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。(『原理講論』p174)

 

このように、人間が堕落することによって、神霊と内的真理、そして内的真理と外的真理の主体・対象関係も転倒してしまいました。

それは、ちょうど主体である人間と対象である天使長の関係が転倒してしまったのと同じです。

ですから、神霊と真理で礼拝しなければならない復帰原理的な理由はここにあるのです。

(3)神霊と真理の調和・統一

終末になると、真理面に重きをおく堕落人間の傾向が顕著に現れるようになるのですが、宗教界に起きる現象を『原理講論』の再臨論では次のように指摘しています。

今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。(『原理講論』p596)

 

また、内的真理と外的真理の主体・対象関係の転倒の例としては、近代に現われた啓蒙思想や弁証法的唯物論があります。

 文芸復興は、人文主義から流れてきた二つの思潮に乗って、人間がその内的な性向に従って神の国を復帰しようとするその道を遮り、外的な性向のみに従ってサタンの側に偏る道を開く人生観を生みだした。これが正にカイン型の人生観であった。
 このカイン型の人生観は、十八世紀に至っては、歴史と伝統を打破して人生のすべてを理性的または現実的にのみ判断し、不合理なもの、非現実的なものを徹底的に排撃し、神を否定する合理的な現実にのみ重きをおくようになったのである。これがすなわち啓蒙思想であった。(『原理講論』p521) 弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自縄自縛となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。
 なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。(『原理講論』p554)

 

そのため、聖書には「絶えず祈りなさい」(テサロニケⅠ5章17節)とあるのですが、祈りの重要性について文鮮明先生は次のように語られています。

 「絶えず祈りなさい」(テサロニケⅠ五・一七)という聖書のみ言があります。これはとても重要なみ言です。なぜかというと、サタンが堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日二十四時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめます。
 一方で神様は、ただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的な方向からのみ、力を及ぼすことができるのです。ですから、絶えず祈祷しなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』201-208 1990.4.9) 皆さんが活動するところには、二種類の敵がいます。見える敵と、見えない敵がいるのです。この二つの敵は、いつも私たちに向かって共同作戦を繰り広げています。これにきちんと対処していくためには、まず敵を知らなければなりません。
 ですから、皆さんの一日の生活において、最も重要で必要なものとは何でしょうか。祈祷生活です。祈りを通して見えない敵を知り、見える敵を明らかにしていかなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』191-146 1968.1.1)

 

今まさに終末にいる私たちは、神霊と真理、すなわち祈りとみ言によって礼拝しなければならない立場にいるのです。