今回深掘りする原理のみ言

 人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。(『原理講論』p81)

 

これまで、アダムとエバが間接主管圏、すなわち成長期間を通過して直接主管圏に入れば、そのときからアダムとエバは神様から直接主管されると考えてきたのではないでしょうか。

それが正しいとすれば、文鮮明先生が「神の日がどのような日かというと、神様の直接的主管圏内に入ったことを意味する日です」(『御言選集』34-103, 1970.8.29)と語られたように、完成期の7年路程(1960~67年)を経て真のお父様と共に直接主管圏に入ったはずの韓氏オモニが、なぜ再び堕落圏に落ちたのかということが問題になります。

なぜなら、絶対善であられる神様の直接主管を受けるようになれば、絶対に堕落することはないからです。神様から直接主管されているのに堕落したとすれば、それは善なる神様の絶対性や完全性が否定されることになります。

そこで今回は、神様はいつエバを直接主管されるのかということについて考察してみることにします。

 

(1)神様がエバを直接主管されるのは第二祝福完成のとき

最初に結論をお伝えします。

人間始祖アダムとエバが神様の戒めのみ言を守り、責任分担を果たして間接主管圏から直接主管圏に入りますが、そのときに神様から直接主管されるのはアダムだけです。

つまり、神様が御自身の体として創造されたアダムは、神様の戒めのみ言を守って相対を迎え、個性完成して直接主管圏に入ると同時に神様の直接主管を受けるようになるのです。

しかし、神様の相対として創造されたエバの場合、アダムと一つになって共に直接主管圏に入りますが、そのときに神様から直接主管されるのではなく、第二祝福である家庭的四位基台を完成したときに、初めてエバはアダムを通して神様から直接主管されるようになるのです。

『原理講論』には、第二祝福完成と神の直接主管について次のように説明されています。

 神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。(『原理講論』 p77)

 愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。(『原理講論』 p114)

 

ですから、エバがアダムと共に神様の直接主管圏に入ったとしても、それ自身の責任、特に母として子女を養育するという責任を果たせなければ神様から直接主管を受けることができず、再び堕落圏に落ちる可能性があると言えるのです。

この点についてさらに考察するために、「統一原理」の観点から「創世記」の内容をもう一度確認してみたいと思います。

(2)「統一原理」から見た「創世記」の人間創造とその堕落

「統一原理」の創造、堕落、復帰の観点から見たとき、聖書の「創世記」の1章と2章は神様による人間と万物世界の創造、3章はその人間の堕落、そして4章以降は、堕落した人間を救済しようとされる神様の復帰摂理が記録されています。

ここでは、1章から3章について、「統一原理」から見たその要点を確認します。

 ①「創世記」1章-創造過程と神の二性性相と三大祝福

「創世記」の1章に記録されているのは、「創造原理」で言う創造過程と神の二性性相と三大祝福です。

 【創世記1章1~25節】 ⇒神の創造過程

 【創世記1章26節】 ⇒神の性相(心)と形状(体)の二性性相
 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

 【創世記1章27節】⇒神の陽性(男)と陰性(女)の二性性相
 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 

 【創世記1章28節】 ⇒三大祝福
 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

26節の「われわれ」という複数表現について、『原理講論』の106ページには「人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言」と説明されています。

神様にも天使にも性相部分と形状部分があるので、その「かたち」、すなわち性相と形状の二性性相で人間が創造されたことを意味しているのが26節の聖句です。

その次の27節については、『原理講論』の46ページに「創世記一章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かる」と説明されています。

そして、「神のかたち」として神様お一人の単数表記になっているのは、天使には陰性の天使、すなわち女性の天使が存在しないためこのような表記になっていると考えることができます。

 ②「創世記」2章-アダムの創造とその責任分担と個性完成

「創世記」の2章は、アダムの創造とその責任分担、そしてエバの創造と個性完成について記録されています。

 【創世記2章7節】 ⇒アダムの創造
 主なる神は土のちりでを造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
 
 【創世記2章16~17節】 ⇒神の戒め 
 主なる神はそのに命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
 
 【創世記2章22節】 ⇒エバの創造
 主なる神から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
 
 【創世記2章24節】 ⇒個性完成
 それではその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

7節に「土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とありますが、これは人間が「有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成」(『原理講論』p83)されていることを意味しています。

そして、16~17節の戒めのみ言は「絶対性」の聖書的根拠となるもので、アダムに対して命じられたみ言であり、「命の木」ではなく「善悪を知るの木」から取って食べてはならないと言われていることが要点です。

これは、アダムとエバが堕落したあと、神様がアダムに対して次のように語られたことからも理解することができます。

 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 (創世記3章11節)

 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。(創世記3章17節)

この聖句にあるように、神様はアダムに対してのみ「食べるなと命じた」と言われ、同じく堕落したエバに対しては語られていません。

さらに、2章全体として注目すべきところは、すべて「主なる神」と、「人」すなわちアダムを中心として記録されているという点です。

 ③「創世記」3章-アダムとエバの堕落

「創世記」の3章は、アダムとエバが天使長の偽りの言葉に誘惑され、逆主管されて霊肉共に堕落した内容が記録されています。

 【創世記3章4~5節】 ⇒天使長の偽りの言葉と誘惑
 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 【創世記3章6節】 ⇒アダムとエバの霊的堕落と肉的堕落
 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ(霊的堕落)、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた(肉的堕落)。

本来、アダムは、神様の戒めのみ言を守り、天使長の誘惑の言葉に相対することなく自らの責任分担を全うして天使長を主管しなければなりませんでした。

ところが、天使長と霊的に堕落したエバに逆主管されたアダムは、肉的に堕落することによって創造本然の主体と対象の関係を逆転させてしまい、万物以下の立場に落ちてしまいました。

 ④「統一原理」から見た「創世記」の要点

 【注目ポイント】
 ◆創造の順序:アダムの創造 ⇒戒めのみ言 ⇒エバの創造
 ◆戒めの内容:「善悪を知る木からは取って食べるな」
 ◆アダムとエバの関係:主体・対象関係であり格位が存在する
※格位とは資格上の位置をいうが、資格とは主管に関する資格を意味する。(『統一思想要綱』P81)

「善悪を知る木からは取って食べるな」という戒めのみ言は、エバが創造される前に神様からアダムに与えられました。ですから、そのみ言を神様から直接受けたのはアダムであり、そのアダムを通してエバはそのみ言を伝えられたのです。

 善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。(『原理講論』p295)

 

そして、「善悪を知る木」とは創造理想を完成した女性を意味するので(『原理講論』p97)、その戒めのみ言は「エバの愛を取って食べてはいけない」ということです。

このような観点から見るとき、「創世記」に記録されている神様の創造の中心はアダムであり、アダムが全被造世界の主体存在だということです。

さらに、『原理講論』には、エバによる天使長との霊的堕落だけにとどまり、アダムとの肉的堕落に至らなかったときのことについて、次のように記述されています。

 エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。(『原理講論』p111)

 

このように、たとえエバが天使長と霊的に堕落したとしても、アダムさえ堕落しなければ創造理想を実現することは可能だったわけです。ですから、神様の戒めのみ言はアダムに与えたものです。

以上のように、「創世記」では、アダムが三大祝福の第一祝福である個性完成に至る前に堕落してしまったことが記録されており、神様とアダムが一つになることが中心テーマになっています。

それでは、次に神様とアダムとエバの関係を「統一原理」と文鮮明先生のみ言で確認しながら、神様がエバを直接主管される時期について考察してみることにします。

(3)人間に対する神の直接主管と第二祝福の完成

 ①人間に対する神の直接主管

神様にとってアダムとエバはどのような存在なのか、文鮮明先生のみ言で確認してみましょう。

 神様は、御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは、神様の息子であると同時に、体をもった神様御自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な真の愛、すなわち夫婦の真の愛の理想を完成しようとしました。エバは、神様の娘であると同時に、神様の横的な真の愛の理想を実体で完成する新婦でもあったのです。 (『御言選集』277-198,1996.4.16)

 

 アダム ⇒神様の息子であり神様の体(=神様御自身)
 エバ  ⇒神様の娘であり神様の新婦

このように、アダムは神様の体として創造され、神様御自身でもあるため、戒めのみ言、すなわち「絶対性」を守って成長期間を全うすれば、直接主管圏に入ると同時に神様から直接主管を受けるようになると考えることができます。

しかし、エバは神様の娘であり新婦、そしてアダムの相対者です。つまり主体である神様とアダムの対象存在です。このような対象存在が神様の対象になるためには、下記のように主体であるアダムと一体化しなければなりません。

 その対象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の対象となることができるのである。(『原理講論』p55~56)

 
ここで冒頭で紹介した『原理講論』のみ言をもう一度確認してみましょう。

 人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。(『原理講論』p81)

 

神様の人間に対する直接主管は、人間が家庭的四位基台を造成することによって成就するということです。そのためには、エバが神様を中心としたアダムの意のままに愛と美を完全に授受して善の生活をしなければなりません。

そして、第一祝福の段階で神様を中心とする夫婦になったアダムとエバは、その後も継続して神様を中心として一体となり、子女を繁殖して家庭的四位基台を造成しなければなりません。

エバはこのときに、初めてアダムを通して神様の愛による直接主管を受けるようになるのです。

 愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。(『原理講論』p114)

 

神様がアダムを通してエバを直接主管されるのは、ちょうど第三祝福の万物主管において、神様が人間を通して被造世界を直接主管しようとされたのと同じ原理です。

 被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。(『原理講論』p83)

 

神様は主体である人間を通して万物を主管しようとされたように、御自身の体であるアダムを通して新婦のエバを主管しようとされたのです。

 ②家庭的四位基台の完成はいつか?

それでは、神様を中心とする家庭的四位基台は、いつどのようにして完成するのでしょうか?

 絶対者であられる神様が、私たちの人生を直接主管され、私たちと同居し、共に楽しまれるためには、御自身の相対であり、子女として創造した人間が、神様のように「絶対性」の基準で完成した家庭の姿を備えなければならないのです。(『御言選集』 545-184, 2006.11.21)

 

このみ言から、アダムとエバはもちろん、この2人から生まれた子女も神様の戒めのみ言を守り、「絶対性」の基準を立てて完成してこそ、神様の創造目的である家庭的四位基台が完成すると見ることができます。

したがってエバは、子女をして「絶対性」の基準を立てさせ、アダムと同じ立場に立てることによって家庭的四位基台を造成し、そこで初めて神様の対象となり、主体であるアダムを通して神様から直接主管を受けるようになるのです。

 ③神様の愛によって直接主管された人間は堕落しない

『原理講論』の73ページに「四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象」とあります。

人間が神様を中心とする四位基台を完成することによって、神様の愛を完全に受けることができるようになります。

そして、神様の愛は人間の幸福と命の源泉であり、その力は原理の力よりも強く、またそれを中心として結ばれた夫婦の愛は何ものによっても断ちきられることがありません。

 愛の力は原理の力よりも強いので、アダムとエバが完成し、神を中心として夫婦となることにより、その絶対的な愛の力によって、神の直接的な主管を受けるようになれば、いかなるものも、またいかなる力もこの絶対的な夫婦の愛を断ちきることができないから、彼らは決して堕落するはずはなかった。まして、人間よりも低級な天使長の愛の力ぐらいでは、到底神を中心とした、彼ら夫婦の愛を断ちきることはできなかったはずである。(『原理講論』 p114)

 

このように、人間が神様を中心として第二祝福の家庭的四位基台を完成すれば、神様の愛による直接主管を受けることができるので絶対に堕落することはないのです。

 ④心情の体恤から見た個性完成

下記の『原理講論』の記述にあるように、個性完成した人間は、神様の心情を完全に体恤するようになります。

 人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。(『原理講論』p134)

 神と完成した人間とが四位基台をつくって一体となれば、人間は神の心情を完全に体恤できる生活をするようになるので、この関係は断ちきろうとしても断ちきることができないのである。(『原理講論』p252)

 堕落人間は、神のみ旨とその心情を知ることができない。たとえ知ったとしても、それはごく部分的なものにすぎない。しかしイエスは、神のみ旨を完全に知っておられるとともに、その心情をも完全に体恤した立場において生活しておられるのである。(『原理講論』p261)

 

このように神様の心情を完全に体恤できるようになると、常に神様が喜ばれることをしようとするようになり、絶対に神様が悲しまれることはしなくなります。これが心情を中心として神様が人間を直接主管されている状態と言えます。

個性完成した人間は、完全かつ実感的、瞬間的に神様の心情を感じることができますが、成長期間にいる人間は、心情体恤の基準が部分的で漠然としていると同時に、ある一定の時間がかかります。

信仰生活における目的は、この心情体恤の基準を少しずつ高めていくことにあり、私たちの身の回りで起こるあらゆる出来事は、このために神様から与えられたものです。

最後に

「統一聖殿」では、韓氏オモニは真の母としての責任を果たすことができず、その位置から離脱したと主張しています。

この主張に対して「家庭連合」は、「真の母である韓鶴子女史は真の父と共に直接主管圏に入り、神様の直接主管を受けている。ゆえに真の父と真の母は一体であり、その指示は神様と真のお父様の主管のもとに行われている」とし、「真の母の堕落という非原理的な主張をする統一聖殿は分派であり異端である」と規定しています。

しかし、真の母に対する神様の直接主管は、第二祝福の完成、すなわち家庭的四位基台が完成したときから始まるため、たとえ真の父と共に直接主管圏に入ったとしても、真の母としての責任を果たすことができなければ再び間接主管圏以下に落ちてしまうのです。

 その真の母の責任について、文鮮明先生は次のように語られています。

 王になったのなら、王妃であれ何であれ、訪ねてきて侍らなければならないのであって、どうして王が気分悪くそわそわして出ていくのですか? それは理にかなった話ですか? お母様第一主義ではありません。お母様は、これから2013年2月16日まで、それを完成しなければなりません。その次には、本然の位置に帰らなければなりません。父母も神様に侍ることにおいて、僕の位置で、堕落していない世界の僕の僕たちを教えてあげる生活をしなければならないのです。個人が完成する道、国を求めて完成する道を再び教えてあげなければなりません。(『御言選集』563-107, 2007.5.11)

 母がカインとアベルを一つにして、エデンの園、天国に入る門前に立ち…。夫を追い出してしまったのです。神様を追い出してしまいました。ですから、カインとアベルの戦いのあとに(二人を)結び、お母様がそのあらゆる失敗を縫い合わせて先生に捧げなければなりません。捧げるときが2013年1月6日です。(『御言選集』563-154, 2007.5.13)

 

そして、真の父母の聖婚式は、1960年天暦3月16日(陽暦4月11日)に蘇生段階、2003年天暦1月6日(陽暦2月6日)に長成段階が行われ、本来であれば、2013年天暦1月13日(陽暦2月22日)に完成段階の聖婚式が行われるはずでした。

その基台の上で文亨進様御夫妻が天一国の王と王妃になられることによって、父子協助時代における真の母の責任が全うされ、そのときから真の母に対する神様の直接主管が始まるようになっていました。

ですから、そのときまでは、真の母であっても、責任未完遂によってその位置から離脱してしまう可能性があります。

残念ながら、実際にそのようになり、その結果、教会が分裂して復帰摂理が延長し、世界全体が厳しい神の審判を受けるようになってしまったのです。